居心地の良さを目指したラボ・マネジメント
今本 尚子 主任研究員(Ph.D.)
理化学研究所 開拓研究本部 今本細胞核機能研究室
略歴
1982年 | 大阪大学理学部卒業 |
1984年 | 大阪大学大学院 医学研究科 修士課程修了 |
1988年 | 大阪大学大学院 医学研究科 博士課程修了(医学博士取得) |
1988年 | 大阪大学細胞工学センター 日本学術振興会特別研究員 |
1990年 | 大阪大学細胞工学センター 日本学術振興会特別研究員(がん) |
1992年 | 大阪大学細胞工学センター 助手 |
1993年 | 大阪大学医学部 助手 |
2000年 | 国立遺伝学研究所 助教授 |
2002年-現在 | 理化学研究所 今本細胞核機能研究室 主任研究員 |
プロジェクト説明
足立:このプロジェクトは、前理事でいらした原山先生がエルゼビアファンデーションの理事でもいらっしゃるので、そのご縁でお話をいただいたものです。これから研究室主宰者を目指すような若手の方々に何か参考になるようなお話を伺えればと思っています。なので、今日の本題はサイエンティフィックな話ではなくて、研究室のマネージメントやリーダーシップなどについて伺っていきたいと思います。よろしくお願いします。
今本:よろしくお願いします。
博士号取得時のキャリアビジョン
足立:今本先生のCVを拝見させていただきました。1988年に大阪大学で博士号を取得されたと思うのですが、その時にこのような研究者になりたいとか、将来の大きなビジョンとかございましたか。
今本:博士号を取った時は、とにかく研究の道に進みたいというだけで、PIになるとか、そんなことは全然考えてなくて。とにかく研究の道に進みたいというのははっきりしていました、学位を取った時に。
足立:博士号。
今本:博士号を取った時は研究職に進みたい。しかもアカデミアの研究職に進みたい、と思っていました。私の時代では、例えば女の子は企業に入らない方がいいとみんな言ってました。差別があるからと。企業は男性も女性も同じ力を持っていても、同時に入っても、中でどんどんどんどん差をつけられる。男の子はプロモーション(昇進)があるけども、女の子はなかなかないと言われたので、私は学位を取った時点で研究職を進みたいと思ったんですけど、もうアカデミアのことしか考えなかった。
足立:アカデミアで研究者として一生頑張っていこうとお考えだったのですか。
今本:そうですね。一生頑張っていくというところまで思ってなかったかもしれません。とにかく研究者になりたい。どういう研究者になりたいか、そんな偉そうなことは何も考えなかった。研究者になりたいということ、それぐらいだったんじゃないですかね。自分の代わりがいないな、というような存在になりたいと思っていたかもしれない。漠然と。別にPIではなくて、私が辞めたら誰か代わりにやるよというような存在にはなりたくない、みたいな感じの意識・考え方でした。
ポスドク時代
足立:1988年にそのまま博士号を取られたラボで、学振(日本学術振興会)のPD(特別研究員)になられたということですか。
今本:はい。学振のPD。内田驍(つよし)先生の学生でしたが、そこのラボでPDになりました。内田驍先生は、文化勲章を取られた、岡田善雄先生の准教授でした。ちょうど細胞工学センターを作られたんですね、岡田先生が。そのセンターができた時に内田先生が独立されて、岡田研と内田研が隣のラボになりました。居室もセミナーも内田研、岡田研で、1つのラボみたいに同じ行動をしていました。当時、そういう環境だったんです。内田研でPDを取って研究を進めたいというだけでした。
足立:PD4年間内田研にいたのですか。1988年から90年までがPD、そして90年から92年で、PDの"(がん)"と書かれていますが。
今本:そうです。PDがちょうど終わる時に、内田先生が「来年助手にしてあげるよ」って言ってくださった。だけど、内田先生はがんで亡くなられて、急にその助手のポストがなくなりました。その時に留学するか別の先生に助手に誘われてどうするかと迷っていたら、岡田先生が声を掛けてくださった。何か難しい話をされたけど、とにかく「安易に出ていくな」みたいなことを言われた。「なんとかしよう」と言って、学振の一般を取っていたのですが、「PD(がん)というのがあるから、それに応募してみろ」と言われました。「それが駄目だったら、別のポストを何とか用意する」と言われていたのですが、結果、PDのがんに通ったので、2回学振やりました。この経歴は当時としては珍しかったみたいです。
足立:そして92年に同じ細胞工学センターの助手になられた。
今本:そう。内田先生の後に、客員教授を岡田先生が置いてきて、どういうことだったか分からないんですけども、その客員教授の下で私が助手になることができるようになりました。具体的にどういうやり方か分からないですが、細胞工学センターの助手。そして、ちょうど内田先生の仕事を一緒にしていた米田先生が医学部に独立されたんですね。ラボを持たれて。30代だったんですけども。その時に「一緒に行こう」と言われて、一緒に行くことになって私が医学部の助手になった。
足立:PD・ポスドクと助手で何か変わったこと、ご自身の立場とか一緒にやる学生さんが増えたとか、何か変わったことはありましたか。
今本:ポスドクの時はとにかく楽しかっただけ、もうとにかく楽しかった(笑)。研究が楽しくて、夢中でした。助手になってもそうだったんですけども。何が変わったかというと、ボスが内田先生というのは、私から見たら、学生からだとすごい。もう年齢が上で、偉いボス。そして医学部に移った時の米田さんというのは、大学院の先輩。「一緒にやっていこう」という感じだったんです。ポスドクだから助手だから何か考えが変わったっていうのはなかったですね。ただ、大学院の時は、本当に岡田先生、内田先生というすごい大ボスの傘下にあるラボで、キャンキャン言いながら研究させてもらったんですけれど、医学部に行ってからは、米田さんも若くて、私も若くて、弱小ラボだけど、何とか生き抜いていかないといけない。自分たちがね。若いラボだから。しかも、私のテーマは核細胞質間輸送研究で、内田先生のテーマだったんです。それをずっとやっていけるということで。世界に負けないようにやっていかないといけない、というような意識はちょっとあったかな。一般的じゃないかもしれませんけど。
足立:新しいラボに助手として入ったことで、助手という立場だけれども、ラボを盛り上げていこうみたいな感じでしたか。
今本:そうですね。米田さんと2人で、本当に盛り上げていこうとしました。特に、米田さんは研究を盛り上げるように大変な努力をされていて、私はすごい力をもらいました。
足立:そして7年間いらっしゃったんですよね。
今本:そうです。その間に、大事なことがありました。インポーティンという核細胞質間輸送運搬体をものすごい競争で見つけた1人だったんですね。世界との競争で。見つけた3つのラボの中の1つという感じです。それを見つけたがために、逆に留学も完全にできなくなりました。何て言うのかな。海外に行って自分が海外の研究室に力を与えてはいけない、みたいな。インポーティンという分子を見つけたから、これは米田さんもそうだと思うんですけど、ますます、その因子をこっちで見つけたから負けないようにやっていかないといけないっていう。1995年に論文が出て、それで今本、米田の名前がちょっと世界でも知ってもらえるようになったぐらいに大きな仕事だったんです。競争も激しかったので、潰されないように頑張っていかないといけないっていうことで、7年間必死にやりました。PIになりたいと思ったのはその時期ですね。うん。いずれPIになっていきたいと思ったのはその時期です。
PIになることを目指して
足立:PIになりたいと思ったきっかけは、ありますか。
今本:自分の研究がしたい。
足立:米田先生と一緒ではなくて、自分自身のですか。
今本:医学部だったら、もちろん私のコントリビューションとかすごく分かってもらえるんですけれども、やはり教授の仕事になります。医学部という文化では。当時からよく海外に行ったんですね、米田さんと一緒に、海外の学会とか。そこで、海外の研究者とよく会って、みなさん、もうどんどん独立している人たちと会っていたのもある。なんかもうPIになるのが当たり前みたいな感じの考え方になりましたかね、7年の間に。最初は研究をしたい。研究ができればいいっていうだけが、いつの間にかラボを持ちたいと思うようになりました。この7年間の間に。
足立:それは大発見をされた後ぐらいから、思い出した感じですか。
今本:負けないように頑張っているうちですかね。大発見した。自分が大発見かどうかはともかく、発見をしたからじゃなくて、何か頑張っているうちに。これがきっかけにPIになりたいというのはなかったです。でも独立しなきゃいけないというふうに思っていました。もしかしたら周囲も思ってたかもしれません。
足立:そうすると独立を考え始めて、国内、海外、両方を視野に入れながら活動を徐々に始めてきたという感じでしょうか。
今本:独立はもちろん、国内での独立しか考えてませんでしたよ。
足立:海外には行くことは考えませんでしたか。
今本:毎年1回か2回、学会や研究会に参加。呼んでもらって発表とかしたりして、海外にはよく行ったんですね。だけど、海外留学とかそういうことはしてない。
足立:海外の大学でPIとして独立をしようとは考えなかったですか。
今本:考えられませんでしたね。英語でグラント(申請書)を書くとかいうことがとても、怖くて考えられませんでしたね。私は。
足立:そうするとポスドクとか、若い研究者のうちに海外でちょっと修業で留学という位置づけだったらよかったのでしょうか。
今本:そうです。子どもの時にアメリカにいました。研究者になった一つの理由は、国際的な職業だから。日本の仕事ではなく、国際的な仕事だから研究職を目指した。だから研究職になった時に、絶対に海外には留学したいっていうのはずっと思ってたんですね。内田先生の件で留学が駄目になって、米田さんの下で助手になった。助手になってしばらく米田さんに「留学したい」って言ったら、「留学するのはいいけれど、今留学したら帰ってくると、35-6歳になって、それからPI目指すのは大変だ。だからPIになるか留学するか、どっちかを選ぶようなタイミングになっちゃうよ」と言われた。言われた時に結局留学しませんでしたね。いろいろな理由で若い時に留学をしなかったっていうのもありますけど。
足立:その決断は今本先生のキャリアの中で、結構大きな影響があったと思いますか。
今本:そうですね。何でPIになりたいか。PIになるのは何か当たり前かな、みたいな感じだったような気がしますね。私の中で。なんでなんですかね。
足立:そういう考えが生まれてきたので、2000年に遺伝研に助教授として転出を決められたということですね。
今本:そうですね。声がかかって、アプライした時に採用されたので独立した。
足立:上に教授がいるような形ではなくて、ご自身のラボを。
今本:そうです。独立准教授として遺伝研に行きました。
居心地の良い研究室を目指して
足立:その時にどのような研究室にしたいと思いましたか。
今本:居心地のいい研究室にしたい、みんなが。人がすごい大事だと思ったんですね、最初から。学生とか、もしかしたらその時に採る助手とか。あるいはポスドクの人とか。そういう人達が来て、居心地の良い研究室にしたいというのはありました。こういうテーマで研究したいということではなく、自分のテーマもはっきりあったんで、それをわざわざアピールしなくても良かったのかもしれないです。居心地の良い研究室というのは、例えば、私が内田先生の時でも、米田さんの時でも岡田先生の時でもそうなんですけども、みんな結構勉強するんですね。自分も含めて、いろいろ外の情報を聞きます。だけど、自分で実験をやると、その論文とは違うことが出てくるんですね。そうしたら、必ず自分の部屋でやったこの実験の結果をみんな信用してくれる。分かります?仮に周りが違うことを言っても、自分の部屋でやった実験の中で見えてきたことを信じる。そして、ディスカッションして、それを明らかにしていくというような姿勢だったので、そういうことも含めて、居心地のいい研究室にしたいオープンな研究室にしたい。例えばいろいろな人がいて、学生も含めて「何時に来て何時までいなさい」ということは一切言いたくなかったんですね。私自身が人に命令されるのがすごい嫌いだから。自分がこれをやらないといけないって思っている時に、「これをやりなさい」と言われたら、もうやらなくなるような人間だったんですね。だから、人にも言わなくて、命令するのが嫌いで。だから「何時に来て何時までいなさい」ということは言わない。ただし「朝早く来ていいし、夜遅くまでいてもいいけども、11時から3時の間はコアタイムとして絶対ラボにいてください」というようなやり方はしました。みんなが居心地のいいラボにしたい。したいと思っただけかもしれませんけど、どうなんですかね。
足立:居心地の良いラボにするために、人を採用する時に、気をつけていたこととかありますか。
今本:(共通の興味について)話ができること。当たり前かもしれません。たとえば研究員の採用だったら、その人の実力とか実績も、もちろんいるでしょうけど、それを見た上で興味が合う。興味が合うというか、一緒にやりたいと思うことが一緒にできる。共通の興味です。研究上の共通の興味、同じようなものが追えるということ。
足立:研究上の興味をお互い楽しみながら議論できるみたいな、そういう方を選んだという感じですか。
今本:そうだと思います。もちろん性格もありますけれど、話ができて、こっちが言ったことが面白くて、向こうが言ったことが面白ければ良い。それが前提にあって、その上でプラスアルファある人を採るとか、あったかもしれません。
理研へ
足立:そして、遺伝研には2年間だけで、次に理研に主任研究員として移られてきましたけれども、そのきっかけは何かありましたか。
今本:それは声がかかったからです、理研から。今の時代とはもう全然違うのかもしれませんけど、私は「独立したい、したい」と言いながら、自分からアプライしたり、職を取りに行ったことも、経験もない。遺伝研から声がかかって、アプライした。準備は一生懸命しましたが、アプライして採用された。そして遺伝研にいる時に、理研から声がかかったから(理研に移りました)。ちょっと迷いましたけれど、理研に行くことに決めた。理研に行くことに決めた理由は何でしょうね。やっぱり大阪から見て、遺伝研はすごく田舎に見えた。いい所なんですけど。遺伝研の研究者は非常に良い人で、すごく私もハッピーだったんですが、理研の方が都会で、もうちょっと大きい。大きいのが良いかどうか分からないんですけれども。そして、プロモーションだったというのもあるんですよね。
足立:先ほど迷われたと仰っていましたけれども。
今本:それは遺伝研が良かったからです。遺伝研の研究環境も良かったし、周りの人も非常に良かった。私の専門は細胞生物学ですが、細胞生物学をやっている人の研究室が、遺伝研では私だけだったんですね。あと発生生物学とか、いろいろな分野のラボがあるのですが、いわゆる細胞生物学をやっている研究室が一つしかないというのがちょっと寂しかった。理研に呼ばれた一つの理由は、呼ばれた時に、細胞生物学を中心にしたいくつかのグループを作りたいみたいな感じのニュアンスだった。だから細胞生物学で、もうちょっと周りの人も充実した、付き合いができるようなラボがあるのかなと思ったからですかね。遺伝研に呼ばれて、採用されて、すごく居心地の良い環境を与えてもらって、非常にハッピーだった。行って何もやっていないうちから、理研に移っても良いのかなってというのはあって、迷いました。米田さんとか、うちの父とか何人かに相談したのを覚えています。
足立:最終的に理研に移ると決めた理由は、先ほどの細胞生物学。
今本:Cell biologyを強くしていきたいというような声があったから。それに共感して行ったような気がします。
足立:そうすると、遺伝研の居心地の良さと、理研の環境は比較してどうですか。
今本:全然質が違う。理研ももちろん、環境は非常に素晴らしい研究所なんですね。遺伝研も良かったんですけど。まず、独立とはいえ、准教授と主任という立場が違うというのがある。しんどかったのは理研に移ってからの方がしんどかったです。すごく雑用が多かった。ものすごく増えた。今、女性を30%ぐらいにしようという声があるでしょ。当時から、女性3割というのはあったんですよ。私が准教授になった時から。全然変わっていないですが。遺伝研の時は准教授だったので、そんなに雑用も降ってこなかったような気がします。みんながかばってくれたのかもしれませんけど。理研に来ると、そのタガがなくなって、いろいろ降ってくる。言われたままにやっていると、科研費とか理研所内予算、基礎特研とか、いろいろな書類審査、理研所内審査とか、全部合わせると、多いときは年間1000の審査書類を超える。ぱっと気づいて数えていくと。そういう状況がしばらく重なると、とてもしんどかったですね。だから研究者になって、ポスドクの時はすごくハッピー。助手になった時は競争が激しくて、そういう意味でしんどいところがあったけど、研究としてのしんどさ。でもPIとして理研に入ってから、初めて「こんなしんどい職場は嫌だ」と正直思った時期が何年間かありました。仕事自体は面白いんですよ。ラボメンバーも増えてきて、セミナーもできるようになって。それはとても面白かったし、皆さんの仕事を見せてもらって、ディスカッションして、そういうのは全部面白いんですけど。でも、あっちこっちから(いろいろな雑用が)降ってくる。雑用と言ってはいけないのかもしれませんけども。また、女性3割、3割って、それは分かるんですよ、分かるんですけども。ちょっと前までは、私は女性研究者に声をかけたいと思わなかったです。何か用事を頼むのも嫌で。頼まれるのも嫌ですけども。女性だからこれをやらないといけないというのも論外だと、ずっと思っていました。だから男女共同参画は反対だったんです。ただ、この年になって、やはり女性の状況を何とかしないといけないと思います。
足立:いわゆる雑用で、つらい状況になられた時に、どのようにそれを乗り越えましたか。
今本:覚えていません。何か一生懸命やったっていうことしか覚えてません。一生懸命やって、多分そのうち断ってもいいんだ、となりました。私が当時理研に着任した時は周りの主任研究員の先生はみんな男性でした。例えば理研では、学振(の特別研究員)を採らない。基礎特研とかいろいろ(制度が理研にあるので)。ほとんど学振を採らないけど、学振の審査を頼まれ、「え、こんな審査、断わってもいいですよね」と言ったら、「そんなものは断るもんじゃない」と言われました。だから、全部受けたんですけど、そのうちに断わってもいいと思うようになって、断ることも覚えました。これが解決策というのはなくて、とにかく一生懸命やっているうちに、時が経って、断ることもちょっと覚えたというのもあるんでしょうけども、そのうち要領を得てということもあったかもしれません。
理研ならではの異分野融合研究
足立:理研に来られて、こういう研究室の運営スタイルでやってみたいなど、考えてこられましたか?
今本:もしかしたら考えるべきだったのかもしれないです。理研は、ビッグサイエンスをやっているラボが非常に多くて、私自身はビッグサイエンスというのは全然、志向していなかった。やろうともしていなかった。ただ、理研だからできるよねっていう研究は、本当はあるべきなのかもしれない。昔の主任研究室は、定年制の職で基礎研究をやってくれと言われたような気がするんですよ。しかも、大学だったら理学部の生物学科に固められるのに、理研だったら、工学も物理も化学も生物もみんな同じ1つの主任研究室群のシステム。それは面白かったです。そういうinterdisciplinaryな仕事をするという考えで理研に来たわけじゃないんですけども、中に入ってそういういろいろな分野の人と付き合うことができたのはすごく楽しかった。楽しいだけじゃなくて非常に勉強になったし、今でもメリットが大きいと思います。理研だからお金を使ってビッグサイエンスをやるんだとは、考えなかったし、今も考えていないです。他の大学や他の研究所と違うのは、これだけいろいろな分野の人たちと付き合えることがすごく大きなメリットで、それは来るまで知りませんでした。来てから分かりました。
足立:異分野の先生方と話すときに、お互いの言語やカルチャーが違って、なかなかコミュニケーションがうまくできないことがあると思いますが、いかがですか。
今本:(すぐに研究上の)コミュニケーションは取れないでしょう、多分ね。それが、私は面白かったような気がするんですよね。
足立:面白く感じながら、具体的にどうお付き合いを深めていきましたか。
今本:いや、そんなに深めていません。原子物理の、今は主任を引退された山崎先生のラボと共同研究をさせてもらいましたが、それなりに面白かったような気がするんですよね。こっちの知らない考え方があって、向こうの知らないこっちの考え方もあって。そこで同じテーマで何か研究ができたことがあったのが良かった気がする。彼の所にポスドクでいた人がドイツに帰ったのですが、たまに日本に来ると、今でも声をかけてくれるんですよ。
足立:素人目からもかなり、分野が離れていて接点がなさそうに思いますが、どのような感じで始まったんですか。
今本:細胞に、平たく言えばレーザーを照射するというようなことを設定されたんです、山崎先生が。
足立:山崎先生から声がかかった。
今本:そうそう。イオンビームは真空じゃないと動かないんですね。うちは研究室では細胞にマイクロインジェクション(微小ガラス管で細胞に液を注入する)する技術を持っていたのですが、我々が使用する微小ガラス管は真空じゃない。我々の研究室スタッフと山崎研でディスカッションを繰り返しました。山崎先生は微小ガラス微小管を真空にして、そこにイオンビームを通すことを考えられた。細胞にイオンビームをあてると何が見れるかを、細胞生物学者の我々が考えました。細胞の扱いやマイクロインジェクションの方法を山崎研のポスドクの人たちに教えました。共著論文も複数publishしています。
足立:今本先生が主任会とか何かで、研究発表しているのを、山崎先生が聞いて声をかけてきた感じでしょうか。
今本:何がきっかけでどう声がかかったと、覚えてないです。
足立:声をかけられてすぐに、山崎先生側がやりたいことを理解できましたか?異分野すぎて(理解できませんでしたか)。
今本:細胞にイオンビームを照射するというのは、むしろ山崎先生から私の方に近づいて、話をされたのだと思います。私が理解したというよりも、山崎先生の方が理解されていたと思います。別に、サイエンスだけで付き合ったわけではなくて、コロナのずっとずっと前のことで、昔は主任会でそれぞれの分野の人が研究発表し、その後飲み会する、そういう会もあったんです。向こうが発表することが、こちらがどれだけ理解できたかどうか、分からないけれども。懇親会での付き合いもありました、研究発表での付き合いだけじゃなくて。
研究者として嬉しかったこと
足立:PIになられたのは、遺伝研の助教授以降だと思いますが。
今本:そうです。
足立:その中でPIとして一番嬉しかったことは何でしょうか。
今本:それは、研究成果が出た時ですね、ラボの中から。この(山崎先生との共同研究)成果に限らず、いくつかあると思いますが、うまくいったとか、何か面白い結果が出たりする時、それがやはり一番の喜びじゃないですかね。
足立:PIにならなかったら、できなかったことという感じでしょうか。
今本:PIだから嬉しかったとかではないです。自分一人の研究ではなく、ラボ全体の研究ですけど、その研究で何か面白い結果が出たり、うまくいったり、あるいはうまくいかないけれども何か克服できたとかは喜びですよね。これは別に、PIかPIでないかは関係なく、喜びですよね。PIになってからは、やっぱり雑用とか楽しくないことも多かったので、その中で楽しかったことは、やはり自分のラボで研究の成果が出た時。面白いことが分かった時。あるいはラボの人たちが、私がなかなか実験室に行けないときでも、呼んでくれることがあって、「こういうのが見えますよ」と。そういうのはワクワクしますよね。もちろん研究が面白いから、しんどくても続けていられるというのも逆にあります。
足立:先ほど、うまくいかないことがあってもうまくいくようにすることも面白いのだと、伺いました。
今本:うん、そうそう。
困難への対処法
足立:うまくいかないときにどんなことを今本先生はしますか。
今本:もうディスカッションするしかないですよね。自分の経験、向こうの経験を話して、「じゃあこういうのをやってみようか」となると思います。うん、やっぱりそのようにやっている。特に学生はともかく、研究員レベルだったら、やっている本人の方がプロでしょう、そのことに関しては。だから、彼らの経験とか、私自身の経験とか、見聞きしたこととか、いろいろ集めて、ディスカッションして、話をして、話をしているうちに、「じゃあ、こういう方向でやってみようか」となっていく。それでうまくいった時には嬉しいですね。
足立:ディスカッションする時に今本先生が心がけていることはありますか。
今本:ありません。本当は心がけないといけないことはあると思うんですけど。聞くことですかね。とにかく聞く。実際に何をやって、どういうデータがあって、何を考えて、という内容を聞く。そういうことを聞くことを心がけている。ついついこっちがポンポン、ポンポン言ってしまうというのは良くない。こちらの考えを先に出してしまうのは良くないと思います。
足立:研究員とのディスカッションは、割と長時間に及んだりしますか。
今本:それもその時、その時によりますね。1対1でやるときもあれば、1対3であるときもある。セミナーはセミナーでまたあるんですけれども、毎週。
足立:そのような研究室の運営スタイルというのは、岡田先生や内田先生のスタイルを真似ていらっしゃる感じですか。
今本:いや、真似している気はないです。コミュニケーションが基礎だと思うんですよ、ラボ内の。自分にとっても、他の人にとっても居心地が良いというのはコミュニケーションができることだと思います。コミュニケーションができなかったら、居心地が悪くなる。ディスカッションにしろ、相手の話を聞く。そして、こちらの言うことも分かってもらうのがコミュニケーションですよね。それは真似したというよりも、そうしないといけない。私がそういう風に育ったから、そうなっているのかもしれません。というか、私がそういう風にしてもらったからかもしれません。
PIとしての試練
足立:PIとして雑用が辛かったというお話を伺いましたが、ラボのマネージメントの中でPIとして一番辛かったことはありますか。
今本:皆さんそうだと思うんですが、やっぱりお金を取ることに失敗したときは辛いです。それは、研究費がないからというよりも、(人件費に直結するからです)。その研究費でポスドクを雇用する。テクニカルスタッフも。その人の雇用が、自分がお金を取れずに切れるような事態を絶対招いてはいけないと思いながら走るんですよね。当たり前の仕事と言えば、当たり前なんですけども。それがしんどいと言えば、しんどい。だから、お金を取ることを失敗したときはやっぱり辛い。辛かった。ただ1回じゃないですからね。そのとき辛くても、またやるしかないっていうような感じです。
足立:外部資金が取れなくて、結局、スタッフの方に辞めていただくことはあったのでしょうか。
今本:それはないですね。何らかの形でサポートしていただいた。それは理研だからこそかもしれません。理研所内のグループグラントもある。もちろん何もせずにお金が来るわけではないですが、理研所内の仲間もいますし、同じ主任仲間もいますし、その方たちと一緒にグループグラントを組んでやっていくというのもサポートの1つですよね。そういう人たちがいるから、何とかやっていけた。自分自身の科研費が落ちても。
足立:そうすると、所内の交流、共同研究など、そういうのも大切にされてきましたか。
今本:所内もそうですし、所外もそうですし、研究者の交流もそうですし。私は海外の研究者との交流も結構してきました。昔から、助手時代からずっと、分野の人たちと、海外とは交流していて、すごく大切にしています。付き合い好きです、私は。すごく助けてもらってることも多いし、勉強になることも多いです。助けてもらうこともあります。こちらもできることがあればやると。今になっても、そういう交流はもう雑用じゃなくなって、仕事としてやっている感じです。
研究者としての「ジャンプ」
足立:PIになるまでを振り返って、今本先生のキャリアの中で、ビッグジャンプと言いますか、すごい決断をして、次のキャリアステージに上がったような瞬間というのは、どこぐらいでしょうか。
今本:それは遺伝研から声がかかって、独立准教授に応募しないかという声がかかり、独立すると手を挙げて応募した時。そして、採用してもらった時、これは一番大きなジャンプです。PIじゃない助手から独立したわけですから、そこはビッグジャンプです。
足立:その変化に立ち向かわれた時に、何か考えられたこととか、今までとの変化に戸惑われたことはありましたか。
今本:全部戸惑ったんじゃないですかね(笑い)。自分が独立してラボを持つということは、当たり前ですけど、そのラボを運営するためのお金も取らないといけない。自分で全部取って、マネージメントしないといけない。買うものも、そのお金で買わないといけないことを意識したのはもちろんその時です。初めて真剣に意識しました。研究するためには、ある程度備品も設備も必要で、部屋も必要で、もちろん人も必要なんですけれども、そういうものを自分で揃えていかないといけないというのは、すごく大きなジャンプですよね。
足立:新しくやらなきゃいけないことを目の前にして、手探りでやらなきゃいけないことをこなしつつ、慣れていった感じでしょうか。
今本:手探りもあったと思いますし、相談もしたと思いますし、援助もあったと思うんですよね。自分で考えて、自分でやったっていうのもあるし、やっぱり援助もあったと思います。よくやってきたなと、思うぐらい。そんなに高尚な考えも何もなかったんですけれども、何とかなる、多分何とかなる(と思うようにした)。今、例えば若い人たち、いろいろ心配事はもちろん多いですが、すごい冷静に考えれば考えるほど(心配事が増える)。でもやっぱり自分のやりたい研究というのはあるんですよね。自分の研究をして、研究をやりたいから。研究室を動かして、研究をやりたいから、一緒に研究をやってくれる人を集める(ことに努力する)。その研究をやりたいというのが、どうしてもそこにあるので、頑張れるような気がする。逆にそれがない人は、(PIに)ならなくてもいいと思う。
足立:今から振り返って、「あの時ああしておけばよかったな」みたいなことはありますか。研究者として。
今本:それはもう、多分ありすぎてちょっと(笑い)。多分いっぱいあると思うんですけれども。あれをしとけば、今もっと良くなったかっていうのは、ちょっと分からない。反省すべきことも恐らくいっぱいあると思うんですけれども。細かいところではちょっと、もしかしてあるのかもしれませんけど。何かすごく後悔していることっていうのはないんです。忘れてしまっているだけなのかもしれないんですけれども。
足立:例えば、遺伝研にもう少し長くいた、とか。
今本:それは遺伝研にもう少し長くいたら、どうなっていたかっていうのは分からないですし、その方がよかったのか、理研にきた方がよかったのかっていうのも、比較できないです。あのタイミングで理研に来られたことはよかったと思うんですね。やはりあの時も、皆さんのサポートがあって、理研のサポートはもちろんありましたが、遺伝研のサポートも非常に大きかった。まず遺伝研の人たちも、遺伝研を出ると言った時に応援してくださった。確か(理研は)4月から着任でしたが、ラボを工事しないと入れない状態。半年間ラボに来れなかったんですね。その時に遺伝研で間借りさせてもらったとか。今は、理研に来てよかったと、あのタイミングで良かったと思うんですけど。ただ、やっぱり遺伝研の人も、理研の人も援助してくれたから、来られたのだと思います。
女性研究者の置かれている状況について
足立:先ほど理研に来た当初から、もう男女共同参画の3割とかいう話がすでにあったと仰いました。
今本:ありました。もう本当に、(状況が改善せず)全然駄目ですよね。
足立:それが20年ぐらい経っても変わらない状況の原因について、今本先生なりのお考えはどうでしょうか。
今本:いや、分からないんですけども。まず今でも、ネガティブな点は少ないですよね。女性ね。もう私なんか、だいぶ歳取ったんでいいんですが、若い、優秀な独立している人たちなんかも引っ張りダコ。引っ張りダコというのはいい言葉なんですけども、あっちにもこっちにも顔を出さないといけなくて、時間がないと思うんです。すごい忙しいと思います。それが(女性を)3割にしようと思って、この辺でやっている。でもね、何て言うのかな。大学院、修士とかの学生までは男の子も女の子もみんな優秀で変わらない。男女変わらないです。ところが、博士課程とか、あるいは理研でいうと、任期制のポスドクはまだいるかもしれませんけども、定年制の研究員になると、圧倒的に女性は少ないんですよ。そういうnon-PIのレベルで女性が少ないのに、いきなりPIのレベルで、女性を3割採るとかって言っても、それは無理なんですよね。たとえば今、生化学会の常務理事会に入っていて、女性の理事が少ないってすごい問題になっています。でも、女性の理事になるためには、まず、評議員にならないといけない。PIになって初めて評議員になれるのが今の制度。評議員の段階で、圧倒的に女性が少ないから、それは理事も少ないでしょう。上(のポジション)を一生懸命採っても、少ない教授職の女性に、「じゃあ何かの委員になってくれ」と声をかけることが多く、上手く行かない(上位職についてもしんどい、下手すると潰れる)。だから、何かもっと根本的に(策が必要)。何が違うんですかね。
足立:今本先生が、研究員を採用するときにはどうでしたか。
今本:私自身は、研究員は全員男性しか採用しませんでした。できませんでした。別に男女関係なく採っている。応募書類で選考して、結果、男性だったというのが正直なところなんですね。応募数も少ないです、女性は。
足立:先生のラボにいらっしゃる学生さんの男女比はいかがでしたか。
今本:学生の男女比は、そこそこ半々ぐらいいます、マスターで。博士だったら、今は海外の方が多いので、女性もいる。マスターコースの学生は、横浜市大の客員やっていますが、女の子も男の子もエクセレントな人はたくさんいるんですよね。でも、女の子は賢いのか、行かないんですよね、アカデミアに。博士に行かないし。だからシステムが違う、何かが違う。海外は、私の分野は女性のPIが半分で、みんなそれぞれ素晴らしい仕事をする立場の方が多いです。教授が少ないとかだけじゃなくて、もうその下から。例えば今、大学は知りませんけど、助手ではどうなのかとか。私の、当時阪大医学部の助手で、女性はいたかな、いなかったかなっていうぐらい、当時少なかった。今は、もうちょっといるのかもしれませんけど。
足立:そうすると、女性の研究員を採りたいなって思っても、そもそも応募も少ないし、候補になるような方も、割合が少なかったという感じですか。
今本:うん。本当に意識して女性を採るっていうことは、その意識もしませんでしたね。候補も少ない。だってマスターの子を見ると、博士課程に行く女性が圧倒的に少ないんですから。研究員は博士を取っていないと駄目だし。本当に少ないですよね。他の分野はどうなんですかね。
足立:一番ライフ系が女性の比率が高い分野だと思います。物理や情報科学では、本当に1割未満とかになってます。そこを底上げと言う形になると、中高生から10年計画みたいにならざるを得ない感じです。
今本:アメリカは女性が多いと言いますが、やっぱりすごく苦労してるんですよね、アメリカも。例えば女性PIでフルプロフェッサーになっている人に聞くと、女性枠を作るんですよ。応募してスクリーニングして、駄目だったら公募を1回流して、また次、女性枠で公募を出す。何年かけても、いい女性が来るまで公募をし続ける。そういうことをやっている大学もあるみたい。そこまでやってないね、日本の多くは。女性だからいいや、というのはあるかもしれないけれども。
足立:もし女性枠で理研から声がかかっていたとしたら、今本先生はどう判断されたと思いますか。
今本:私は、たぶん理研から声がかかった時、これは女性だから声がかかったんだ、と思いました。でもそれはそれで、それでもいいから声がかかったんだったら取ってやろうと思いました、あの時はね。女性枠としての公募はしていなかったですけれども。だいたい反対ですよね、女性枠とかって言われたら。私は女性枠はOKだと今は思います、採用するのはね。ただ、その内容を見て、何か足りないなと思ったら採らないで流して、もう一度応募してもらうとか、それぐらいの苦労はしてもいいんじゃないかな。そのエキストラなポストであれば、余計に(公募で時間をかけても良いのでは)。
ワークライフバランス
足立:特に助手時代、非常にコンペティティブな分野で海外と競争して、一生懸命、米田先生と頑張ったと仰っていましたけれども、今本先生自身のワークライフバランスというのはどんな感じですか。やはり夜遅くまで実験をしましたか。
今本:私は100%仕事でした。私に関しては、そうでした。そうじゃない人は偉いと思っています。別に、強制されたのではなく、自分が勝手にそうやってきた。私の助手時代は、もう完全にそうでしたね。100%に近かったですね、仕事が。PIになってしばらくもそうでした。今ようやく、家のことも考えて、仕事以外のことを、仕事が終わった後は、考えることがあるっていうぐらいですね。
足立:そのように変わってきたのは、何かきっかけがあったのでしょうか。
今本:それは、余裕ですよね。私自身はやはり必死だったような気がするんですよね。それはそれなりの能力しかなかったからだと思うんですが。だから、夢中だった、必死だったっていうのがあります。反省すべき点があるとしたら、それかもしれません。もうちょっとうまく余裕を作って、ワークライフバランスを取れば良かったのかな。もしかしたらそこは反省点かもしれません。
足立:段々余裕ができてきたというのは、今までの経験で、自分なりにタイムマネジメントがうまくなってきたのでしょうか。
今本:うん、それもあります。サポートもありますし、相談できる人も。相談の仕方とか、そういうのもあるし。
足立:ラボメンバーの方のワークライフバランスはどんな感じでしょうか。
今本:うまく取っていると思います。うまく取ってるように見えますね。うん。
足立:はい、ありがとうございます。では、まずは私からの質問は以上です。
キャリアビジョンを描くために
松尾:松尾の方から。冒頭に将来、自分の代わりがいない唯一無二の存在になりたいということを考えたと仰っていたのですけれども、なぜそのような意識が醸成されたのか、いかがですか。
今本:別にこれ、サイエンスに限らないんですよ。どんな仕事でもいいんですけど。多分誰か亡くなった時に、「じゃ、この人がいないから代わりにこの人ね」というのが嫌だったと思っただけだと思うんです。じゃあ自分が唯一無二というよりも、何か代わりに。誰か亡くなった人が近くにいたか、誰かいた時に、じゃあその人がいなくなった時に、すごく周りが困るよりもいい。
松尾:その使命を感じるということですかね。
今本:何か、そういう存在にはなりたいなって思ってました。それは思ってましたね。
松尾:遺伝研から理研に来られる時に、プロモーションを取るか、研究環境を取るか、ということを少し仰ったのですけれども、周りにも相談されたということでした。いろいろな方に相談をされて、それが今本先生にとっての人脈も築いてこられたということだと思いますが、人脈形成において意識されていることはあるでしょうか。
今本:私は多分、自分と話しができる人とは仲良くなるけど、話が合わない人とは、あんまり話さないような性格だと思うんです。普通の言葉で、普通に接して、私が普通に接せられる人と付き合うっていうことが人脈ですかね。別に嘘も言わないし、偉そうばらない。偉そうばれないんですけれども、自分が。話ができる人と付き合っているから、そういう人が結構たくさんそばにいてくださったっていうのもあったんです。
研究者キャリアの谷
松尾:先生のお話を伺っていると、すごく順調にPIまでジャンプされたと思ったんですけれども、キャリアの谷のような、山があれば谷がある。谷として思い起こされるようなご経験というのはおありでしょうか。
今本:一つは、助手の時だった。インポーティンというのが見つかった。すごく見つけたときはうわって思ったんですけど、みんなが追ってた因子だよねって。論文の査読に通るのを邪魔されて、すごい競争になった時に、私はすごく外国好きだったんですけれども、英語聞くのが嫌になった。それまでは、映画を見て英語の勉強したんですね。字幕スーパーを見ないようにして、英語で聞くっていうのをやってたのに、(心理的に)英語を聞けなくなって、映画も観れなくなったぐらいに落ち込んだことが1年半ぐらいあったと思う。人が言うのと研究面で違うことを主張しようとして、それがしばらく認められなかったっていうのがあって、それですごい落ち込んだことがある。それは研究面で落ち込んだ。1年半経過して、今本は正しいっていう声が、周りから出て、蘇ったという感じ。それが、谷。谷っていうほどではないかもしれないけども。
松尾:ありがとうございます。
今本:あとは理研ですごい忙しくて体調が優れなかったことがある。これはどうやって改善したか。何かそのうち(改善した)。それが谷だったかどうかは知りませんけども、そういう時もありました。
ラボ・マネジメントの変化
松尾:最後に一つ。居心地の良いラボを作りたいと仰られたんですけど、PIとしても経験長くいらっしゃる。居心地の良いラボを作る上で、今本先生的に進化されていることややめたことはあるでしょうか。
今本:難しいですね。うーん。
松尾:変わらないスタンスでやってらっしゃいますか。
今本:諦めたことっていうのもあるかもしれません。もしかしたら。例えば100人が100人ハッピーになればいいって思っていたけれど、まぁ2~3人、思うようにならないよなと思うようになった。前は、なかなか諦められなかったことが、今は諦めることができた。それが進化じゃなくて退化かもしれませんが。
松尾:ありがとうございます。
研究者を目指す若者へ
足立:最後に、若い研究者がPIを目指すにあたっての、今本先生からのメッセージをいただけますか。
今本:私がPIになれるんだからって、みんなに言うんですよ。やる気があったらPIになることができます。子どもさんがいて家庭があって、なかなか時間が取れないと、それは大変で、多分、周囲の人のサポートが要るんです。だけど、例えば子どもがいるから、自分の家庭があるから、ジャンプできないと思うことはやめた方が良い。私は子どもや家庭を持っていないので、その大変さというのは恐らく分かっていないと思います。でも、駄目だと思っても、本当にやりたいと思ったら動いてみると、助けてくれる人がいます。始めから自分に(チャレンジする)気持ちがない人は、もうやらなくていいよと思うんだけど。ちょっとやってみたいよなと思う時に、何か変な遠慮をしないで、じゃあやると言えば良い。何かをやるにはかなりエネルギーが必要で、それなりに動かないといけないけど、たぶん助けてくれる人は絶対いる。いるから、やりたいと思うんだったら、やりなさい、ということを言いたいです。
足立:どうもありがとうございました。
インタビュー実施:2022年12月7日
インタビュー場所:生物科学研究棟4階S455室
RIKEN Elsevier Foundation Partnership Project
撮影・編集 西山 朋子・小野田 愛子(脳神経科学研究センター)
撮影支援・編集支援 雀部 正毅(国際部)
インタビュアー・製作支援 松尾 寛子(ダイバーシティ推進室)
インタビュアー・製作 足立 枝実子(ダイバーシティ推進室)