日本人研究者に対するスパイ容疑についての見解

 

 周知のように、米国の司法当局は2001年5月9日、日本人研究者2名に対する告発を発表した。被告の1人(岡本卓)は理化学研究所(理研)の脳科学総合研究センター(以下脳センター)のチームリーダーで、前に勤めていたクリーブランド・クリニック財団(CCF)から同僚と共謀して遺伝子などの試料(DNA、細胞株溶液、分子構造の一部の構成物)を持ち出し、理研の利益をはかったとの嫌疑をかけられている。
 理研では直ちに調査委員会を発足させ、その下に二つの調査チームを設けた。第一チームは二人の外部科学者と4人の理研研究者からなり、第2チームは3人の法律専門家からなっている。第一チームの報告書は6月8日に発表されたが、7月31日 第二チームの報告書も公表された。
 これらの報告書は、CCF由来の試料が外部を経由して理研に持ち込まれた形跡はあるものの、理研が持ち込みを意図し、また、その試料を研究に使用した事実は見られないこと及び岡本チームリーダーの採用経緯についても疑念を持たれるような点はなかったことを明らかにした。これらの報告を受けて、理研の小林俊一理事長は声明を発表し、訴状にある合衆国法律集第18章第1831条にいう違法行為に対して、理研が組織として意図的に関与したことはないとの判断を示した。
 警告も理由の説明もなく、いきなり我々に突き付けられたこの訴状について、脳センター所長としての私の見解を次に述べる(説明は以下に添付)。第一に、この事件は理研と関係のない岡本卓個人とCCFとの間の係争であると理解する。第二に、米国司法当局の脳センターについての理解の欠如のためにその名誉が不当に傷つけられたことに抗議する。第三に、米国の経済スパイ法1996を基礎科学に適用することの危険性を指摘し、すべての主要な学会組織がこの問題について真剣な考察を行うよう要請する。第四に、この事件を教訓として同様の問題の再発を防ぐよう努力したい。
 理研とその脳センターが思いがけなく直面し困惑している状況について、貴殿のご理解を願います。この事件についてのご意見をお寄せいただければ幸いです。

伊藤正男
(理化学研究所脳科学総合研究センター所長)

2001年8月1日

 




1.

 本件は理研と関係のない岡本卓個人とクリ−ブランド・クリニック財団研究所(CCF)との間の係争である。

 岡本卓が1999年夏頃、CCFから遺伝子試料などを無許可で持ち出し、あるいは破壊したとされる点については、それが訴状にいう通りであれば、研究者の倫理の立場からみて、動機の如何を問わず、許されない粗暴な行為であるといわねばならない。このために研究に支障をきたしたといわれるCCFに対してはお気の毒に思う。研究者が研究場所を変えるときに使用中の遺伝子材料を持ち歩くことは通常に行われる。その場合、技術移転のための許可を得ることが必要であるが、当事者たちの間に信頼関係がある限り、その手続きは形式的に行われるのが実状である。本件の背景に、岡本卓個人とCCFの上司との間に信頼関係がなかったことがあるとすれば、大変不幸な状況であったと思う。


2.


 理研が本件に意図的に関与したとの疑惑は脳センターについての理解の欠如による。

 訴状は、脳センターが世界に大きく開かれた運営のための基盤であるその国際的信用を著しく傷つけるものである。脳センターでは総数400名の職員のうち80名が外国から参加しており、その中には6名のチームリーダーを含み、その1人は幾つかのチームを束ねるグループディレクターを勤めている。脳センターの運営諮問委員会は11名の著名な外国人研究者と9名の著名な日本人研究者から構成され、毎年会合して脳センターの活動を評価し、その運営をよりよくするよう助言している。脳センターの各グループは,5年毎に6ー8人の外国人、3ー4人の日本人の外部専門家から構成される科学委員会の評価を受ける。脳センターは国内外の多くの研究室と協同研究を行っている。明らかに、米国司法当局は脳センターがこのように世界に開かれた高度の研究所であり、そのさらなる国際化のためわれわれが如何に努力しているかを理解していない。私は訴状にいうような協同謀議を脳センターとの関連において行うことができるとは想像することも出来ない。


3.


 基礎科学の研究に経済スパイ罪を適用することは疑問である。

 本件に対し、技術移転に関する合意事項の違反という問題の域をはるかに超えて、経済スパイ法が適用された点について、重大な疑問を抱かざるを得ない。そもそも、国境をこえて科学者が自由に移動出来、世界のどこでも自由に研究し、発表できることが科学の普遍性の原理として強調され、科学の健全な進歩のために必須とされてきた。例えば、遺伝子試料は科学者の間で交換するのは日常のことであり、ジャーナルに一旦発表すれば他の科学者の求めに応じて提供しなければならない。しかし、近年、科学研究に必要な費用が高額となり、また、科学に伴う経済的利益が増大しつつあるため、知的所有権の保護が科学者の自由に優先される傾向が急速に広がった。この傾向は基礎科学の進歩に不可欠な世界的な協力を困難にし、さらに、人類全体を益すべき科学研究本来の目的をあいまいにしている。岡本卓が行ってきたようなアルツハイマー病の研究は、多くの場合、製薬産業に直結する大きな経済効果ばかりが注目されるが、実状はいまだに基礎研究の段階にあり、さらに重要なのは、この研究の本来の目的が地球住民の急速な高齢化による破局を防ぎ、人類社会を破滅から救うことにあることである。経済的利益の優先を基礎科学の領域にまで際限なく適用すれば、科学者の本性であるべきアカデミックな精神までをゆがめ、科学のもつ知的な魅力を失わせ、ついには科学の進歩を阻害するに至る恐れがある。この危険について国内外のすべての主要な科学者組織の考察を要請したい。


4.


 本件からの教訓

 理研の脳センターが岡本卓をチームリーダーとして雇用したのは、ひとえにその高い研究能力による将来の研究活動への期待からであって、試料のためではない。脳センターのサーチ委員会が選考を重ねて選出した岡本卓が今日このような告発の対象となり、理研を辞職するに至ったことは残念の極みである。同様な問題の再発を防ぐため、科学研究者の行動倫理の規範や研究所における研究者雇用の手続きなどについて、今後充分に検討することが必要である。不備な点があれば速やかに改善したい。



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