プレスリリース 独立行政法人 理化学研究所
脳の「匂い地図」を形成する分子メカニズムの解明へ前進
- 嗅覚神経回路形成に欠かせないビッグなガイド分子「BIG-2」を発見 -
平成20年3月27日
◇ポイント◇
  • 軸索ガイド分子「BIG-2」が正確な「匂い地図」の形成に重要な役割を果たす
  • 軸索ガイド分子群の組み合わせで、精緻な匂い神経ネットワークを構築
  • BIG-2の欠損が組み合わせのバランスを崩し、嗅覚神経回路を混線させる
 独立行政法人理化学研究所(野依良治理事長)は、匂いを感知する嗅覚神経系で正確な「匂い地図」を形成するために欠かせない役割を果たす神経軸索ガイド分子「BIG-2※1」を発見しました。本研究は理研脳科学総合研究センター(甘利俊一センター長)シナプス分子機構研究チームの吉原良浩チームリーダー、後藤智美テクニカルスタッフらによる成果です。
 鼻に入ってくる匂い分子は、嗅細胞※2に発現する嗅覚受容体※3で受容され、その情報は嗅神経を介して嗅球※4という嗅覚の1次中枢へと伝達されます。この嗅球に到達した匂い分子情報は、その化学構造に対応した「匂い地図」として表現されます。研究チームは、嗅神経に発現する膜タンパク質「BIG-2」が、正確な匂い地図を形成するのに重要な役割を果たしていることを発見しました。BIG-2は、嗅神経でモザイク状に発現し、個々の嗅細胞では、BIG-2の発現強度と嗅覚受容体遺伝子の選択に密な対応関係があることがわかりました。さらに、BIG-2遺伝子を欠損したマウスでは、嗅神経が誤った場所に投射してしまう神経ネットワークの異常を観察しました。これらの結果から、BIG-2は嗅神経が正しい標的糸球体へと投射して、正確な匂い地図を構築するのに必須な分子であることが明らかとなりました。
 嗅覚系は、感覚入力(匂い)と機能的出力(記憶・情動・誘引・忌避などの行動)の関係が直接的な感覚システムで、その神経回路形成をつかさどるBIG-2の機能解析が、生物の行動発現へと至る神経ネットワーク基盤を理解するための重要な手がかりになると期待されます。
 本研究成果は、文部科学省科学研究費補助金特定領域研究「細胞感覚」(領域代表:富永真琴 岡崎統合バイオサイエンスセンター教授)の一環として行われ、米国の科学雑誌『Neuron』(3月27日号)に掲載されます。


1. 背景
 嗅覚は、ヒトを含む多くの生物で、食べ物の探索、危険の感知、記憶の想起、情動の発現などの生命活動に重要な役割を果たしています。匂いの成分である化学物質(匂い分子)は、鼻の奥に存在する嗅細胞に発現する嗅覚受容体が受容し、その匂い情報は嗅細胞の軸索(嗅神経)を介して、脳の最も吻側(鼻側)に位置する嗅球(嗅覚の1次中枢)へと伝えられます(図1)。嗅球に伝わった多種多様な匂い分子の情報は、それらの化学構造を基本要素とした「匂い地図」として表現されています。
 マウスでは、約1,000種類の嗅覚受容体遺伝子があり、それぞれの嗅細胞はそのレパートリーの中からたった1種類の遺伝子を選択して、特定の構造を持つ匂い分子だけを感知する受容体を発現します(1細胞-1受容体ルール)。さらに、同じ受容体を発現した嗅細胞はそれらの軸索を、嗅球表面に並ぶ約2,000個の糸球体のうち、内側と外側のそれぞれ1つの糸球体へと集束させます。すなわち個々の糸球体は、1種類の嗅覚受容体を表現しています(1糸球体-1受容体ルール)。これら2つのルールを基盤として形成される神経回路によって、多種多様な匂い分子の化学構造の脳内表現としての「匂い地図」が嗅球に展開されています。このような鼻から脳への精密な神経配線が、多様な匂い分子の検出・識別を可能にしています(図2)。
 1991年に、米国コロンビア大学のリンダ・B・バック博士とリチャード・アクセル博士が嗅覚受容体遺伝子群を発見(2004年ノーベル医学生理学賞)して以来、嗅覚研究は飛躍的な進展を遂げ、匂いの受容機構と鼻から脳への神経細胞の配線様式については上述のように多くの部分が解明されてきました。しかし、その神経回路形成・維持にどのような分子が中心的役割を果たしているのかについてはほとんどわかっていませんでした。
 「BIG-2」(brain-derived immunoglobulin superfamily molecule-2)は、1995年に吉原チームリーダーらが発見した神経細胞認識・軸索ガイド分子です(図3)。今回、研究チームは、マウス嗅覚系におけるBIG-2の発現と機能を解析し、BIG-2が正確な匂い地図を構築するのに重要な分子であることを明らかにしました。


2. 研究手法と成果
(1) 嗅神経におけるBIG-2のモザイク状発現
 神経細胞認識分子であるBIG-2を特異的に認識する抗体を作製し、マウスの嗅球でBIG-2タンパク質が発現している箇所を免疫組織化学法で調べました。BIG-2は、強弱を持って嗅神経に発現しており、その標的部位である嗅球においてはBIG-2強陽性、弱陽性および陰性の糸球体が入り混じってモザイク状に存在していました(図4)。BIG-2の発現パターンは、以前に報告されている嗅神経ガイド分子群(Kirrel 2/3、ephrin-A5/EphA5、 Neuropilin-1/2、OCAMなど)とは異なっており、嗅球のそれぞれの糸球体に、多様な分子群が、異なった発現強度でモザイク状に存在していることを明らかにしました。
(2) 嗅細胞におけるBIG-2発現強度と嗅覚受容体選択の相関
 次に4種類の嗅覚受容体(MOR28、mOR-EG、mOR256、OR-I7)をそれぞれ特異的に認識する抗体とBIG-2抗体を用いて、嗅細胞が発現する嗅覚受容体の種類とBIG-2の発現強度の関係を調べました。その結果、嗅細胞が発現する嗅覚受容体の種類によってBIG-2の発現強度が決定されており、同じ嗅覚受容体を発現する嗅細胞の軸索が集束投射する糸球体では、BIG-2の発現強度は同程度であることを見いだしました(図5)。すなわち、嗅細胞における嗅覚受容体遺伝子の種類とBIG-2の発現強度は、密に相関している事実が明らかとなりました。
(3) BIG-2欠損マウスにおける嗅神経投射パターンの異常
 BIG-2の生理的機能を明らかにするために、発生工学的手法によりBIG-2遺伝子を欠損した変異マウスを作製しました。正常マウスでは、同じ嗅覚受容体を発現する嗅細胞が、それらの軸索を合計4個の標的糸球体(左右の嗅球で2個ずつ)へと投射します。ところがBIG-2欠損マウスでは、嗅神経が本来の4つの標的糸球体に加えて、その周辺の複数の小さな糸球体へと異所的な投射をするという異常な表現型を示しました(図6)。さらに、本来BIG-2強陽性の嗅神経だけでなく、BIG-2弱陽性もしくは陰性の嗅神経においても同様の異常を観察し、BIG-2の欠損により、嗅神経に発現する軸索ガイド分子群の組み合わせコードのバランスが崩れて、神経投射異常が起こることが示唆されました(図7)。また、この異所的な糸球体は、本来投射するべき糸球体の近傍に存在することから、BIG-2のガイド分子としての働きは、嗅球上のおおまかな投射領域を決定するというよりはむしろ、嗅神経が標的糸球体へと集束していく最終段階で機能していると予想できました。このように、嗅神経ガイド分子の欠損によって、嗅細胞の軸索が間違った糸球体に投射してしまうという異常な表現型を観察できたのは、BIG-2が世界で初めてです。
(4) まとめ
 嗅覚神経回路の形成には、@嗅神経を嗅球へと到達させるA嗅神経の伸びる嗅球表面部位を大雑把に決めるB特定の嗅神経を標的糸球体へと集束させる、という3段階のステップがあります。今回、研究チームは、BIG-2が、上述のBに該当する、最も精密な嗅覚神経回路の最終形成ステップに重要な役割を果たしていることを明らかにしました。各々の嗅細胞は「1細胞-1受容体ルール」に従った嗅覚受容体の種類に伴い、BIG-2を含めた複数の嗅神経ガイド分子群(Kirrel 2/3、ephrin-A5/EphA5、 Neuropilin-1/2、OCAMなど)を異なった組み合わせで、かつ異なった強度レベルで発現することにより、その軸索を特定の標的糸球体へと投射します。このような巧妙な分子メカニズムによる精緻な神経配線によって「1糸球体-1受容体ルール」が形成され、嗅球において正確な「匂い地図」を構築していくと考えられます。


3. 今後の期待
 “匂い”は多くの生物にとって、食べ物の探索、危険シグナルの感知、同種・異種認識による社会性コミュニケーションなど、生存に関わる重要な感覚刺激です。私たち人間にとっても“匂い”は、過去の記憶の想起、快・不快の情動発現、飲食物のフレーバーなど、さまざまな有益な情報を与えてくれます。このように嗅覚系は、感覚入力(匂い)と機能的出力(行動)の関係が直接的な感覚システムで、その神経回路形成メカニズム・機能的構築を明らかにすることが、生物の行動発現へと至る神経ネットワーク基盤を理解するための重要な手がかりとなると期待できます。
 また、BIG-2は、ヒトにおいて精神発達遅滞などを引き起こす3p-症候群※5の原因遺伝子の1つと考えられています。今回の知見が、このような神経発達障害の病理解明につながることも期待されます。


(問い合わせ先)

独立行政法人理化学研究所
 脳科学総合研究センター シナプス分子機構研究チーム
  チームリーダー 吉原 良浩(よしはら よしひろ)

Tel: 048-467-1699 / Fax: 048-467-9689
 脳科学研究推進部   宮澤 憲弘(みやざわ のりひろ)

Tel: 048-467-9596 / Fax: 048-462-4914

(報道担当)

独立行政法人理化学研究所 広報室 報道担当

Tel: 048-467-9272 / Fax: 048-462-4715
Mail: koho@riken.jp


<補足説明>
※1 BIG-2
研究グループが1995年に発見した細胞膜リン脂質結合型糖タンパク質。BIG-2は、神経系に特異的に発現しており、免疫グロブリンスーパーファミリー細胞接着・認識分子群に属することから、brain-derived immunoglobulin superfamily molecule-2と名付けられた。免疫グロブリンスーパーファミリー中のコンタクチンサブファミリーには、全部で6つのメンバーがあり、そのうちの2つ「BIG-2」と「BIG-1」を吉原チームリーダーが発見した。培養海馬神経細胞の神経突起伸長をBIG-2が促進することが報告されている。
※2 嗅細胞
鼻腔の奥に存在し、匂い分子を受容する神経細胞。嗅細胞で受容された匂い分子の情報は電気信号に変換され、軸索(嗅神経)を介して脳の嗅球へと伝達されて行く。
※3 嗅覚受容体
鼻腔に入ってきた「匂い分子」を認識する受容体。嗅細胞に発現している。多種多様な匂い分子に対応するために、マウスでは約1,000種類、ヒトでは約350種類の嗅覚受容体遺伝子がゲノム上に存在する。
※4 嗅球
匂い分子を受容する嗅細胞の接続先であり、嗅覚の1次中枢として機能する脳の領域。嗅球の表面に並ぶ糸球体(マウスでは約1,800〜2,000個)で嗅細胞からの入力を受け取った僧帽細胞が、その匂い情報をさらに高次の嗅覚中枢(嗅皮質領域)へと伝える。
※5 3p-症候群
3番染色体短腕の先端部分の欠失あるいは転座が原因となって発症する遺伝子疾患。精神発達の遅延、脳の萎縮などさまざまな症状を伴う。最近、その原因遺伝子候補としてBIG-2が同定された。


図1 ヒトおよびマウスの嗅覚系
鼻腔から入った匂い分子は、嗅上皮に存在する嗅細胞で受容され、その情報は脳の嗅球へ、さらには嗅皮質へと伝えられる。


図2 鼻から脳への神経配線
個々の嗅細胞はたった1種類の嗅覚受容体を発現し(1細胞-1受容体ルール)、同じ受容体を選択した嗅細胞は特定の標的糸球体へと嗅神経を投射する(1糸球体-1受容体ルール)。このような精密な神経配線の結果、嗅球の「匂い地図」が匂い情報の脳内表現として構築されている。


図3 BIG-2の構造
BIG-2は6つの免疫グロブリン様(Ig)ドメインと4つのフィブロネクチンV型(FnIII)ドメインを細胞外領域に有し、GPIアンカー構造を介して細胞膜に結合する膜タンパク質である。図中のSPはシグナルペプチドを表す。


図4 嗅神経におけるBIG-2のモザイク状発現
嗅神経ガイド分子であるBIG-2、NCAM、OCAM、Neuropilin-1の発現パターンを調べた。
(左図) マウス嗅球の矢状断面切片の2重免疫染色像(NCAM:緑、BIG-2:赤)。NCAMはすべての嗅神経に発現しており、すべての糸球体が緑色で染色されている。一方、BIG-2は、濃淡のあるモザイク状の発現を示し、BIG-2強陽性・弱陽性・陰性の糸球体が入り混じって観察できる。
(右図) マウス嗅球の前額断面切片の3重免疫染色像(BIG-2:赤、OCAM:緑、Neuropilin-1:青)。嗅神経における発現強度が3種類の軸索ガイド分子ごとに異なるために、糸球体がさまざまな色で塗り分けられたように見える。


図5 嗅覚受容体選択とBIG-2発現強度の相関
(上図) 嗅球の前額断面切片の2重免疫染色像(BIG-2:緑、MOR28、mOR-EG、mOR256、OR-I7の4種類の嗅覚受容体:赤)。嗅細胞が選択する嗅覚受容体の種類によって、BIG-2の発現強度が決定されていることがわかった。具体的には、MOR28糸球体ではBIG-2の発現が強く、重ね合わせた像が黄緑色に強く染色している(嗅球の内側、外側とも)。一方、mOR256糸球体やOR17糸球体では、BIG-2の発現が弱く、重ね合わせた像が赤色に強く染色している。
(下図) 嗅細胞における嗅覚受容体選択とBIG-2発現強度の相関を示すグラフ。嗅細胞が発現する嗅覚受容体の種類によってBIG-2の発現強度が決定されており、同じ嗅覚受容体を発現する嗅細胞の軸索が集束投射する糸球体では、嗅球の内側、外側のどちらにおいても、BIG-2の発現強度は同程度であることがわかる。


図6 BIG-2遺伝子欠損マウスにおける嗅神経投射の異常
正常マウス(上段)において嗅覚受容体OR-I7発現嗅細胞は、嗅球の標的糸球体(矢印)へと軸索を集束させる。しかしBIG-2遺伝子欠損マウス(下段)では特定の標的糸球体(矢印)に加えて、その周辺の複数の小さな糸球体(矢尻)へも嗅神経投射が観察される。他の嗅覚受容体についても同様の異常が検出される。図中の前後は、マウスの嗅球における切片の位置を表し、前が吻側、後ろが尾側を示す。


図7 1次嗅覚神経回路形成のための軸索ガイド分子の組み合わせコード
嗅細胞が標的糸球体へと軸索を集束投射することによって正確な匂い地図を形成するためには、嗅覚受容体選択に対応した適切な組み合わせの軸索ガイド分子を発現することが重要である。BIG-2遺伝子欠損マウスでは、組み合わせのバランスが崩れることによって嗅神経の投射異常が起こると考えられる。例えば、図中でBIG-2(赤)は、白の配線でのみ発現するはずだが、BIG-2が欠損すると、左図のように軸索ガイド分子A(黄緑)と軸索ガイド分子B(水色)の組み合わせが白の配線と黒の配線の両方に表れるため、混線が生じ、嗅神経の投射異常が起こっている。

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