プレスリリース 独立行政法人 理化学研究所
国立大学法人鹿児島大学
“もの”を視覚的に認識する脳の仕組みの解明に大きく前進
- 見慣れるだけでも脳はものの形を認識する -
平成17年11月21日
◇本研究成果のポイント◇
  • 観察角度によらず物体を認識する脳の仕組みに関する新たな知見
  • 脳内で“もの”を3次元的に表現するには時間的な連続性を持った知覚は必ずしも必要ではない
  • それぞれの投影像を“見慣れる”ことが重要
 独立行政法人理化学研究所(野依良治理事長)は、国立大学法人鹿児島大学(永田行博学長)と共同で、従来の学説を覆す「物体の異なる観察角度での像をそれぞれ『見慣れる』だけでその物体を角度によらずに認識できるようになる」という重要な発見をしました。理研脳科学総合研究センター(甘利俊一センター長)認知機能表現研究チームの田中啓治チームリーダーと鹿児島大学工学部生体工学科の王鋼(ワン・グァン)教授らによる研究成果です。
 脳における視覚的物体認識のメカニズムを知る上で最も困難な問題は、観察角度の変化によって物体像が変わった場合に、同じ物体であるかどうかをどのように認識するか、という問題です。従来の学説では、「回転している物体を見る場合のように、異なる(観察)角度の像を時間的に連続に見ることにより、脳の中で異なる投影像が結びつけられる(連合される)」と説明していました。今回研究チームは、サルを用いた行動実験により、「それぞれの像を独立に『見慣れる』だけで、同じ物体の異なる投影像の脳内表現(脳の中で作られる物体の表現)が自然に結びつけられること」を見出しました。この結果は、「脳の中では物体の回転によって変化しにくい図形特徴と変化しやすい特徴が区別されていて、物体の投影像の脳内表現には変化しにくい特徴が好んで用いられる」と仮定することによって説明できます。
 今回の発見は、私たちの視覚系が情報処理のかなり初期の過程から3次元的な物体の認識のために特別に発達していることを示しました。物体を視覚的に認識する脳の仕組みの全貌を明らかにする大きな一歩です。コンピュータービジョンの開発へ示唆を与える可能性も期待されます。
 本研究成果は、米国の科学雑誌『Nature Neuroscience』(11月23日付け)に掲載されます。


1. 背 景
 物体が回転したり観察者が見る位置や角度(観察角度)を変えたりすると、目に映る物体の像が変わります(図1左上)。ひとつの角度からしか見たことのない物体を経験のない別の角度で見るとき、よく似た別の物体と識別することはできません(図1右)。しかし、回転する物体を何度か眺めるうちにその物体を観察角度によらずに認識できるようになります(観察角度非依存性、図1下)。
 従来、こうした認識の性質は「物体の回転の中で、異なる(投影)像を時間的に連続に見ることで、異なる像の表現が脳内で結びつけられ(連合され)、その物体をどの角度からも認識できるようになる。」と説明されてきました。しかし研究チームでは、別の研究で得たヒント※1から「異なる投影像をそれぞれ見慣れることで、脳の中にそれぞれの像の『表現』(=脳内表現)が出来上がる。この表現がもともと持つ性質のために、同じ物体の異なる投影像の表現は(回転を経験しなくても)自然に結びつけられ、その物体をどの角度からも認識できるようになる」との新しい仮説を持ちました(図2)。従来説では「回転の経験」が、新説では「それぞれの投影像を見慣れること」が大事です。
 今回の研究では、物体の回転という経験から切り離して、物体の異なる投影像のそれぞれを独自に見慣れる経験をサルに与え、角度によらずにその物体を認識する能力を調べました。


2. 実験手法
 ひとつの実験には、4個のよく似た物体が、ある軸をもとに30度ずつ回転している4個×4つの像(16個の像)を「刺激像のセット(刺激セット)」として用いました。(図3)
 従来説では、回転している像を見るという経験を経て、例えば、物体2の像2の次に物体2の像3が現れることで、ふたつの表現が結びつけられるとされていました。新仮説では、物体2の像2と物体2の像3のそれぞれを独立に見慣れて、それぞれの効率的な表現が出来上がれば、ふたつの表現は自然に結びつけられると考えます。
 今回の実験では、2頭のサル(ニホンザル)を訓練して刺激セットを見た場合の行動課題遂行の成績を調べました。論理的な推論などの影響を排し、視覚的物体認識の能力をなるべく純粋に調べるために、ヒトではなくサルを使いました。サルの視覚系はヒトの視覚系と基本的にはよく似ています。
 サルはコンピューターのモニターに映った刺激セットの像を見て「なんであるか」を判断し、体の前に置かれた押しレバースイッチを操作して応答します。刺激像を提示し答える(応答)という一連の課題遂行の最小単位(試行)の中では、刺激として物体像を1ないし5個経時的に提示します。各刺激像は1秒に1個、それぞれ0.5秒提示しました。
 サルがレバースイッチを押してモニターの中心に目を向けると刺激像の提示が始まります。この実験で主に使ったテスト課題(図4)では、最初の物体(物体1)の異なる投影(観察角度)像を1〜4個提示し、次に異なる物体(物体2)の像を見せます。その際、物体2の像が提示された1秒以内にサルがレバースイッチを離したら正解とし、報酬としてジュースを少量与えました。物体1の提示回数はランダムとしたので、サルは2回目の像以降は像を見るたびに前と同じ物体の像であるか、それとも新しい物体の像であるかを判断しなければなりません。このテストを1日あたり400回程度行いました。
 このテストの目的は、前の刺激から今の刺激へ変化する中で、あるひとつの物体が回転した像であるか、それとも物体も変わりかつ回転している像であるかを判断させることによって、観察角度に依存しない物体認識の能力を測定することです。
 ひとつの刺激セットを用いてそれぞれのサルにテスト課題を十分に訓練した後で、新しい刺激セットを導入したときの成績を調べました。実験は主に2種類の条件で行いました。
 第一のテスト(テスト1)は、新しい刺激セットをいきなり導入して見せた時のテスト課題の成績を調べました。第二のテスト(テスト2)では、準備課題を用意し、準備課題の中で新しい刺激セットである16個の像それぞれを十分に見せた後テスト課題を導入して成績を調べました。準備に用いた課題(図5)は、ひとつの試行の中では観察角度が変わらない点だけがテスト課題と異なります。物体1のひとつの像(像1)が1〜4回現れた後に、物体2の同じ観察角度の像(像2)が現れます。物体2の像(像2)が現れたらレバーを離します。「ひとつの試行の中では観察角度が変わらない」という違いのために、準備課題では、像の変化を検出することだけで正答することができ、同じ物体の観察角度の変化による像の変化と物体の変化を含んだ像の変化を区別する必要がありません。また逆に、ひとつの試行の中ではひとつの物体の像はひとつの観察角度像が現れるだけなので、物体の異なる観察角度像の組み合わせを学習する機会はありません。


3. 実験結果
 テスト1では、新しい刺激セットをテスト課題にいきなり導入して導入直後の成績を調べました(図6上)。見たことのない物体については、角度によらずに物体認識を行うことはできないことが従来の研究により示されています。テスト1の目的は、この従来の結果を研究チームの実験条件で確認し、定量的な結果を得ることでした。テストの間もサルが課題を覚えているようにするため、またこれを確認するために、新しい刺激セットでの試行に、最初の訓練に用いた刺激セットでの試行を混ぜて行いました。
 テスト課題では、各試行の中で物体変化を検出しレバーを離して反応することが要求されます。2回目の刺激提示での成績に絞って成績を解析しました。物体が変わりレバーを離すという反応が正答であった場合と、同じ物体の観察角度だけが変わってレバーを押し続けることが正答であった場合の正答率の統計的比較を行いました(簡単のために両方の場合を合わせた平均正答率だけを示します)。反応はレバーを離すか押し続けるかの2者択一であったので、でたらめに反応を行ったときの正答率(チャンスレベル)は0.5です。図7に、テスト1における最初の1日目の平均正答率を最初の刺激から2個目の刺激への回転角度の大きさごとに示します。いずれの回転角度でもサルの反応はチャンスレベルとほとんど変わらず、従来の結果が確認されました。この結果は、全く見たことのない刺激セットを導入したときのサルの成績に関するベースラインを提供します。
 次にテスト2での成績をこのベースラインの成績と比較します。
 テスト2では、新しい刺激セットを構成する各物体像を、まず準備課題の中で経験させ、各物体像がサルにとって見慣れた刺激になった後で、刺激セットをテスト課題に導入し、角度によらずに認識できるかどうかテストしました(図6下)。準備課題は4週間実施しました。
 テスト2での正答率は、第一の刺激から第二の刺激への回転角度が30度の場合は80%〜85%、60度の場合は70%〜75%でした(図8)。回転角度0度(約90%、図にはない)での正答率には及びませんでしたが、チャンスレベルよりは明らかに高い成績でした。一方、回転角度が90度の場合は、ほとんどチャンスレベルと同じでした。
 このように第一の刺激から第二の刺激への回転角度が60度以下の場合に、テスト1とテスト2の成績の違いが明確に現れました。この結果は、準備課題の中でそれぞれの像を独立に「見慣れ」さえすれば、異なる観察角度像の間の対応を学習する特別な経験がなくても、60度までの観察角度の変化の範囲では角度によらない認識が自然に成立することを示しています。


4. 今後の期待
 脳における視覚的物体認識のメカニズムを知る上で最も困難な問題は、観察の条件(観察角度、観察距離、照明条件)変化によって物体像が変わった場合に、同じ物体であるかどうかをどのように認識するか、という問題です。なかでも、像の変化が複雑な「観察角度変化を伴う物体像の変化」への対処は一番困難な問題です。これまでは、「脳内で物体像はまず観察角度ごとに別々に表現され、物体が回転するときに異なる観察角度像を時間的に連続に見る経験によって、同じ物体の異なる観察角度像の脳内表現が脳内で結びつけられる」と考えられてきました。「回転像を時間的に連続して見るという経験がなくても、それぞれの観察角度像を見慣れるだけで、角度によらずに物体を認識する能力が成立する」という今回の結果は、従来説を覆すものです。
 新しい物体像を見慣れるときには、脳の中でその像の効率的な表現が出来上がると考えられます。「新しい物体像の表現は、観察角度の変化によって変化しにくい図形特徴を使って構成される」と仮定すれば、今回の結果は説明できます。脳のひとつの目的は、観察条件によらない物体の認識にあるので、観察角度の変化によって変化しにくい図形特徴を使って物体像を表現することは合理的です。
 今後は、神経細胞活動記録法を用いてこの仮説を検討することにより、視覚的物体認識の観察角度非依存性の仕組みをさらに明らかにする計画です。
 人工的物体弁別装置(コンピュータービジョン)の分野における技術的困難も、やはり観察条件の変化による入力像の変化にどうやって対処するかにあります。脳内における視覚的物体認識の仕組みの解明が進めば、コンピュータービジョンへも有効な示唆を与えることが出来るようになると期待されます。


(問い合わせ先)

独立行政法人理化学研究所
 脳科学総合研究センター 認知機能表現研究チーム
  チームリーダー田中 啓治

Tel: 048-467-9342 / Fax: 048-462-4651
 脳科学研究推進部嶋田 庸嗣

Tel: 048-467-9596 / Fax: 048-462-4914
鹿児島大学工学部生体工学科教授 王  鋼

Tel: 099-285-8203 / Fax: 099-285-8203

(報道担当)

独立行政法人理化学研究所 広報室

Tel: 048-467-9272 / Fax: 048-462-4715
Mail: koho@riken.jp
鹿児島大学工学部総務係二石 章

Tel: 099-285-8215 / Fax: 099-285-8225


<補足説明>
※1 回転をさせながらサルに見せた物体に対する下側頭葉皮質の神経細胞の反応を記録したところ、同じ物体の異なる投影像への反応の大きさはお互いに似ている(正の相関がある)ことが観察された。ところが、同程度の正の相関は異なる投影像をそれぞれ独立に見せた物体に対する反応においても観察された。このように回転の経験の効果が、下側頭葉皮質の神経細胞の反応に現れなかった。この予想に反した実験結果をもとに新仮説を立てた。下側頭葉皮質は物体の認識に重要な働きをすると考えられている大脳皮質の領野である。


図1:観察角度が物体の認識に与える影響


図2:物体の認識に関する従来説と新説


図3:ひとつの刺激セットの例


図4:観察角度をまたいだ物体認識を調べるテスト課題


図5:テスト2の準備課題


図6:2種類のテスト


図7:テスト1の結果


図8:テスト2の結果

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