プレスリリース 独立行政法人 理化学研究所
網膜幹細胞が増殖から分化へスイッチするメカニズムの一端を解明
- ヒストンの脱アセチル化が分化へのスイッチとなることを発見 -
平成17年6月9日
◇ポイント◇
  • ゼブラフィッシュにおいて網膜幹細胞が異常に増殖する変異体を単離
  • この変異体の原因遺伝子はヒストン脱アセチル化酵素1であることを発見
  • ヒストン脱アセチル化酵素1は網膜における分化スイッチとして働くことを解明
独立行政法人理化学研究所(野依良治理事長)は、モデル動物ゼブラフィッシュ※1を用いて、網膜※2幹細胞が増殖から分化へスイッチするメカニズムの一端を明らかにしました。政井独立主幹研究ユニットの政井一郎独立主幹研究員、山口雅裕研究員らと脳科学研究総合センター(甘利俊一センター長)発生遺伝子制御研究チームとの共同研究による成果です。
発生初期の脳では多分化能をもった神経幹細胞※3が細胞分裂を繰り返しながら増殖していますが、発生が進むと増殖を止めて神経細胞として分化します。このような増殖から分化への切り替えは脳において広く観察されますが、この分化へのスイッチを制御するメカニズムはまだ明らかになっていません。
今回、ゼブラフィッシュにおいて網膜幹細胞が神経細胞に分化できずに増殖を続ける突然変異体を見つけました。この突然変異体の原因遺伝子を同定したところ、ヒストン脱アセチル化酵素1(HDAC1)※4であることが明らかになりました。HDAC1は、転写抑制因子と複合体をつくり、ターゲット遺伝子上のヒストンを脱アセチル化することで遺伝子発現を抑制する酵素です。HDAC1を欠損する変異体では、細胞増殖を促進する遺伝子または細胞分化を抑制する遺伝子の発現が亢進しており、そのため網膜幹細胞が増殖し続けることが明らかになりました。この研究から、網膜幹細胞が増殖から分化へ移行するときにHDAC1が分化誘導のスイッチとして機能することが明らかになりました。
今後HDAC1が制御する遺伝子カスケードを解明することで、網膜幹細胞が維持される仕組みや、神経細胞分化のメカニズムの解明に大きく前進することが期待されます。また、HDAC1はヒトにおける網膜芽細胞腫(Retinoblastoma)※5の原因タンパク質であるRBとも相互作用することから、網膜における癌の発症メカニズムの解明にも貢献することが期待されます。
本研究成果は、英国の科学雑誌『Development』オンライン版(6月9日付け:日本時間6月9日)に掲載されました。


1. 背 景
脊椎動物の脳では、発生初期に多分化能をもった神経幹細胞が増殖しています。その後、発生が進むと、神経幹細胞は増殖を止めて神経細胞として分化し始めます。このように神経幹細胞が細胞周期から出て神経細胞へ分化する現象は、脳の発生過程において広く観察されますが、分化のタイミングを制御するメカニズムはまだよくわかっておらず、その解明は重要なテーマのひとつとなっています。網膜は本来脳から発生し、そこには光受容に関わる6種類の神経細胞が分化します(図1)。このような特徴から、網膜は脳における神経細胞分化を研究するよいモデル系になっています。脳の他の領域と同様に、初期の網膜は多分化能をもった網膜幹細胞から構成されています。発生が進むにつれて、網膜幹細胞は細胞周期から出て、神経細胞として分化します。ゼブラフィッシュの網膜では受精後25時間から神経細胞が分化しますが、生まれた時期に依存してどのタイプの網膜神経細胞になるかが大まかに決っています。このことから、網膜における神経細胞分化のタイミングを決めるメカニズムは細胞の運命決定の仕組みを理解する上でも重要となっています。しかし、網膜幹細胞が細胞分裂後に神経細胞として分化するのか、再び細胞周期に入り増殖を続けるのか、その選択を決めるメカニズムはわかっていませんでした。


2. 研究手法
1) 網膜における神経細胞分化に異常を示すゼブラフィッシュ突然変異体の単離
ゼブラフィッシュのゲノムに突然変異を導入し、網膜における神経細胞分化に異常を示す突然変異体を探索しました。ここでは染色体上のすべての遺伝子に変異を導入するのに匹敵する1,817ゲノムというスケールで突然変異体をスクリーニングし、350の網膜神経細胞の分化や神経回路形成に異常を示す突然変異体を同定しました。
2) add突然変異体の表現型の解析と原因遺伝子の同定
上記の同定した突然変異体の中から、神経細胞が分化せず網膜幹細胞が異常に増殖する突然変異体としてascending and descending (add) (アセンディング アンド ディセンディング)※6を見つけました。変異体の網膜に対して、細胞増殖や分化を示すマーカーで表現型を調べました。さらに、染色体の相同組換えを利用してadd変異座を染色体上へマップし、add変異が存在するゲノム領域を絞り込むことで原因遺伝子を同定しました。


3. 研究成果
ゼブラフィッシュの野生型では、受精後2日目には大部分の神経細胞が分化し層構造が形成されます。しかし、add突然変異体では神経細胞が分化せず、網膜幹細胞が増殖を続けることが明らかになりました(図2)。また、細胞移植の実験からadd変異体の細胞は野生型網膜の中でも細胞自律的に増殖を続けることがわかりました(図3)。このことから、add変異体では網膜幹細胞が増殖から分化へ切り替わるのに必須な遺伝子に変異が起きている可能性が考えられました。次にadd変異体の原因遺伝子を探索した結果、ヒストン脱アセチル化酵素1(HDAC1)に変異が起きていることがわかりました(図4)。ヒストンはDNAと強く結合するタンパク質で、正電荷をもつリシン残基に富んだ領域をもっています。このリシン残基はアセチル化の修飾を受けることが知られており、ヒストンのアセチル化状態は遺伝子発現に強く影響を及ぼすことがわかっています。
HDAC1は転写抑制因子と複合体をつくり、そのターゲット遺伝子のヒストンを脱アセチル化することで、転写を抑制することが明らかになっています。このことから、add変異体ではHDAC1活性が低下しているため、網膜幹細胞の増殖を促進する遺伝子が抑制されず常に活性化している可能性が示唆されました。そこで増殖と分化に関わる様々なシグナル経路を調べた結果、add変異体では細胞増殖を促進することで知られるWnt(ウイント)シグナル経路※7と神経細胞分化を抑制するNotch(ノッチ)シグナル経路※8が活性化していることわかりました。これらの研究から、網膜幹細胞はWntとNotchシグナル経路によって分化が抑制されている状態にあり、HDAC1はこれらの抑制機構を解除することで神経細胞分化へのスイッチとして機能することが明らかになりました(図5)。


4. 今後の期待
今回の研究では、網膜幹細胞が神経細胞に分化するのか、再び細胞周期に入り増殖を続けるのかの選択において、HDAC1は増殖から分化へ切り替えるスイッチとして働くことが明らかになりました。今後、WntとNotchシグナル経路以外にHDAC1が制御する遺伝子カスケードを明らかにすることで、網膜幹細胞を維持する仕組みや神経細胞分化を制御するメカニズムの全貌が解明されると期待されます。またHDAC1を阻害すると網膜幹細胞は増殖状態を保つことが明らかになりました。網膜幹細胞は下等脊椎動物である魚類では生涯維持され神経細胞をつくり続けますが、ヒトにおいて網膜幹細胞は発生過程で消失するため、一度神経細胞が損傷すると失明に至ります。HDAC活性を抑制することで、胚から調製した網膜幹細胞を増やせる可能性があり、成人における網膜の損傷や疾患に対して、幹細胞を使う新たな治療法に道を開く可能性があります。また、網膜芽細胞腫(Retinoblastoma)の原因蛋白質であるRBはHDAC1と相互作用する(図6)ことが報告されており、網膜における癌の理解にも貢献することが期待されます。


(問い合わせ先)

独立行政法人理化学研究所
 政井独立主幹研究ユニット
  独立主幹研究員  政井 一郎

Tel: 048-467-9717 / Fax: 048-462-4485

(報道担当)

独立行政法人理化学研究所 広報室

Tel: 048-467-9272 / Fax: 048-462-4715
Mail: koho@riken.jp


<補足説明>
※1 ゼブラフィッシュ
ゼブラフィッシュ(Danio rerio)は小型熱帯魚で、飼育が容易、多産、世代交代期間が短いなどの特長を持ち、脊椎動物のモデル実験動物として発生生物学の実験などに用いられている。1996年にドイツとアメリカのグループによって、大規模な突然変異体のスクリーニングがなされた。
※2 網膜
眼球壁の最内層を構成する感覚上皮。発生学上、間脳の一部が左右に膨出した眼杯より形成される。ここには光刺激を感知する視細胞を含む6種類の神経細胞と1種類のグリア細胞が分化し神経回路を形成する(図1)。
※3 神経幹細胞
神経およびグリア細胞をつくる多分化能と自己複製能をもつ細胞。
※4 ヒストン脱アセチル化酵素(HDAC)
転写抑制因子とコリプレッサーと複合体をつくり、ターゲット遺伝子上のヒストンを脱アセチル化する酵素。ヒストンの脱アセチル化は凝縮したクロマチン形成を促進し転写が抑制される(図4)。ヒトでは18種類のHDACが同定され、アミノ酸配列の相同性から3つのサブクラスに分類される。細胞の増殖と分化、開花、概日リズム、寿命など多くの生命現象に関与することが報告されている。
※5 網膜芽細胞腫(Retinoblastoma)
未分化な網膜細胞に起因する眼内悪性腫瘍。乳幼児の悪性固形腫瘍の中では最も頻度が高い疾患で、遺伝性のものと散発例とがある。遺伝性の網膜芽細胞腫は、13番目の長腕に座位するRB遺伝子の異常で発症する(図6)。
※6 ascending and descending(アセンディング アンド ディセンディング)
M. C. Escherの描いた有名な騙し絵のタイトル。変異体の網膜細胞が細胞周期から出ることができない表現型とこの絵に描かれた建物の階段が永遠にまわり続けるアナロジーから、変異体の名前をascending and descendingと命名した。
※7 Wnt(ウイント)
7回膜貫通型のリセプターであるFrizzledを介して細胞内へ情報を伝え、細胞増殖、極性、分化など多彩な機能を担う分泌タンパク質。細胞増殖に関してはβ-cateninを介する古典的経路が有名で、β-cateninは転写因子Lef/Tcfと相互作用してサイクリンを含むターゲット遺伝子の転写を亢進する。β-cateninの非存在下ではLef/TcfはHDAC1と相互作用してターゲット遺伝子の発現を抑制している。
※8 Notch(ノッチ)
細胞外にEGFリピート、細胞内にアンキリンリピートをもつ1回膜貫通型のタンパク質。リガンドであるDeltaによって活性化されるとプロセシングによって、細胞内ドメインNICDが切り出される。NICDは転写調節因子CSLと相互作用し、神経細胞分化を抑制する活性をもつHES遺伝子の転写を活性化する。NICDの非存在下ではCSLはHDACを介してHESの発現を抑制している。


(図1)網膜における神経細胞分化
(A)脊椎動物の網膜には大きく6種類の神経細胞が層構造を形成して分化する。写真はゼブラフィッシュ3日目胚の網膜。
(B) 6種類の神経細胞は多分化能をもった網膜幹細胞に由来する。
網膜幹細胞もしくは網膜前駆細胞は最初自己複製型の増殖をしているが、発生が進むと細胞周期から出て神経細胞として分化する。未分化な神経細胞は、その後環境からのシグナルを受けて成熟した神経細胞に分化すると考えられる。


(図2)受精後2日目におけるadd突然変異体の網膜
(上)野生型では、ほとんどの網膜細胞は神経細胞として分化し層構造を形成している。
add突然変異体では層構造が観察されず、網膜細胞は過剰に増殖している。
その結果、網膜は被厚して眼球内で波打つような形態を示している。
(下)網膜での神経細胞分化の模式図。野生型の網膜幹細胞は分裂しながら神経細胞をつくるが、add変異体では幹細胞は神経細胞をつくらずひたすら増殖する。


(図3)add変異は網膜幹細胞において増殖と分化のスイッチとして振舞う
細胞移植の実験によりadd変異体の細胞集団を野生型網膜につくることができる。
add変異体の細胞は野生型の網膜内で細胞自律的に増殖を続ける。


(図4)add遺伝子はHDAC1をコードする
(上)add変異座は19番染色体にマップされ、その近傍に位置するHDAC1にナンセンス変異が起きていた。
(下)HDACは転写抑制因子コリプレッサー複合体によって、そのターゲット遺伝子上に誘導され、そこに結合するヒストンを脱アセチル化することでクロマチンを固くパックする。これにより、遺伝子の転写が抑制される。
逆に、転写活性化因子はHDACとは逆の反応を行うヒストンアセチル基転移酵素(HAT)を誘導することで、転写を活性化する。


(図5)HDAC1によるWntとNotchシグナル経路の抑制機構
WntおよびNotchシグナル経路のeffector分子であるTcfとCSLは転写の活性化因子だけでなく 抑制因子としても働くバイポテンシャルな転写調節因子である(補足説明※7と8参照)。
HDAC1とb-cateninもしくはHDAC1とNICDとバランスによって、TcfとCSLが転写を促進もしくは抑制するかが決まり、ターゲット遺伝子であるサイクリンD1やHESの発現が制御されるモデルが考えられる。
網膜幹細胞が増殖から分化に移行するためには、HDAC1によるこの2つのシグナル経路の抑制が必須である。


(図6)網膜芽細胞腫(Retinoblastoma)とHDAC1
網膜芽細胞腫(Retinoblastoma)の原因遺伝子RBは細胞増殖を促進する転写因子E2Fと結合して、その機能を抑制しているが、サイクリン-CDK複合体によってリン酸化を受けるとE2Fへの抑制が解除される。またRBはHDACとも相互作用し、E2Fのターゲット領域のクロマチン状態を不活性化することも報告されている。

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