プレスリリース 独立行政法人 理化学研究所
嗅覚神経回路形成の分子メカニズムの一端を解明
- Arx遺伝子がにおいの神経回路形成を司ることを発見 -
平成17年2月1日
本研究成果のポイント
  • 嗅覚神経回路の形成に必須の遺伝子Arxを同定
  • Arxの欠損による脳(嗅球)の構築異常が鼻から脳への神経接続の異常を引き起こすことを発見
  • 嗅覚系などの脳の機能的神経回路形成の分子・細胞メカニズム解明へ向けて大きく前進
 独立行政法人理化学研究所(野依良治理事長)は、嗅覚神経回路の形成に転写調節因子(※1)をコードするArx遺伝子(※2)が必須であることを明らかにしました。脳科学総合研究センター(甘利俊一センター長)シナプス分子機構研究チームの吉原良浩チームリーダー、吉原誠一研究員が国立精神・神経センター神経研究所の北村邦夫研究顧問(前三菱化学生命科学研究所部長)と共同で得た成果です。これまでにArx遺伝子は大脳の神経細胞が正しい場所へと配置するのに必要な遺伝子であることがわかっていました。今回の研究では、このArx遺伝子の嗅覚神経回路形成における機能について明らかにしました。
 外界の物体から発せられ香りの成分を構成するにお匂い分子は、鼻の奥にある嗅上皮に存在する嗅細胞で受け取られ、その情報は脳の嗅球(※3)へと送られます。数万種類にも及ぶ匂い分子を識別するためには、鼻と脳の間に精密な神経回路を形成する必要があります。しかしながらこれまでにその分子・細胞メカニズムはほとんど解明されていませんでした。今回の研究では、嗅覚神経回路形成に転写調節因子Arxが必須であることを、遺伝子ノックアウトマウスを用いて明らかにしました。Arx遺伝子を欠損させたノックアウトマウスでは嗅球内介在神経細胞が嗅球の正しい場所へと配置できず、正常マウスよりも小さな嗅球となっていました。さらにこの嗅球の発達異常に伴って、嗅細胞から嗅球への神経接続にも異常が起きていました。これらの解析の結果から、脳(嗅球)の構築異常が嗅細胞から嗅球への神経接続の異常を引き起こすことが明らかになりました。
 嗅覚神経系は脳の複雑な神経回路を研究するための優れたモデルシステムであり、本研究成果は嗅覚のみならず脳の神経回路形成の分子・細胞メカニズムの解明に大きく寄与することが期待されます。
 本研究の成果は、英国の科学雑誌「Development(オンライン版)」(2月1日付け)に発表されます。


1. 背 景
 2004年のノーベル医学生理学賞は、匂い分子受容体遺伝子(※4)の発見と嗅覚の分子メカニズムの解明に貢献した米国のRichard Axel、Linda Buck両博士に授与されました。視覚・聴覚・体性感覚などの他の感覚研究に遅れをとっていた嗅覚研究にもようやく春が訪れました。
 香りの成分を構成する匂い分子は鼻の奥にある嗅上皮に存在する嗅細胞で受容され、その情報は脳(嗅球)の神経細胞へと伝達されます。近年の電気生理学・分子生物学・脳活動イメージングなどの様々な技術の統合的導入によって、嗅上皮と嗅球を結ぶ神経細胞の精密な配線様式(※5)が明らかにされました(図1、図2)。しかしながら、そのような神経回路形成の分子機構についてはほとんどわかっていません。当研究チームでは分子・細胞・ネットワークレベルで嗅覚神経系の構築メカニズムについて研究を行ってきました。
 Arx遺伝子は転写調節因子をコードし、ある種のてんかん及び精神遅滞の原因遺伝子として発見されました。共同研究者である北村邦夫博士がArx遺伝子を欠損させたノックアウトマウスを作製したところ、このマウスでは大脳皮質の神経細胞の配置に異常が見られました(この配置の異常がてんかん及び精神遅滞を引き起こすのではないかと考えられています。)また、このノックアウトマウスの嗅球は正常マウスよりも小さくなっており、大脳皮質だけでなく嗅覚神経系にも異常が見られました(図3)。そこで、このArx遺伝子ノックアウトマウスの嗅覚神経系を詳細に調べることで、Arx遺伝子が嗅覚神経回路の形成にどのような役割を担っているかを明らかにしたいと考え、研究を開始しました。


2. 研究手法と成果
(1)嗅覚神経系におけるArx発現細胞種の同定(図4)
Arx蛋白質が嗅覚神経系においてどの細胞種で発現しているのかを明らかにする目的で、抗Arx抗体と各細胞種を特異的にラベルする抗体とを用いた多重免疫組織染色と呼ばれる手法でマウスの脳切片を染色する実験を行いました。その結果、Arx蛋白質は胎児の時期から成体に至るまで嗅球に存在する抑制性介在神経細胞(※6)に発現していることがわかりました。嗅球に存在するその他の種類の神経細胞及び嗅細胞ではArx蛋白質は検出されませんでした。

(2)Arx遺伝子ノックアウトマウスの嗅覚神経回路の解析(図5、6)
Arx遺伝子ノックアウトマウスにおいて嗅覚神経回路の形成にどのような異常が起きているのかを組織化学的に詳細に解析しました。その結果、正常マウス嗅球においては存在している抑制性介在神経細胞が、Arx遺伝子ノックアウトマウスでは嗅球まで到達していないという細胞移動の異常が明らかとなりました。このことが嗅球が小さい主な原因であると考えられます。また、このマウスにおいては嗅細胞から嗅球への神経接続が正しくなされていませんでした。Arx蛋白質は嗅細胞では発現していないことから、嗅球の構築異常が鼻から脳への神経接続までにも異常をもたらしたと考えられます。 
 さらに正常マウスにおいては嗅球から分泌され、嗅細胞へと働きかけて軸索投射(嗅細胞から嗅球への神経接続)をガイドする未知のシグナル分子の存在が想定されますが、Arx遺伝子ノックアウトマウスではそのシグナル分子が欠如しているという興味深い可能性が示唆されました。今後この想定されたシグナル分子が同定されれば、嗅覚神経回路形成メカニズムの解明へ向けて大きく前進することが期待されます。


3. 今後の期待
 今回の研究でArx遺伝子は嗅覚系の神経回路形成に重要な役割を果たすことが明らかとなりました。嗅覚系は神経回路の配線図とそれが表現する機能的意味との関連が明確な感覚システムであり、脳の複雑な神経回路形成のメカニズムを解明するために極めて有効なモデルとなります。嗅覚神経回路形成のメカニズムの解明は、脳内の他の神経システムの構造と機能の連関を理解するための大きな手がかりになることが期待されます。
 またArx遺伝子ノックアウトマウスでは大脳と嗅球において、ともに神経細胞の配置の異常が見られました。このことから共通の細胞移動メカニズムが大脳と嗅球で機能している可能性が示唆されます。また、「1.はじめに」でも紹介したとおりArxの遺伝子異常がある種のてんかん及び精神遅滞の原因遺伝子として発見されたことが報告されており、今回嗅覚神経系の解析で明らかになった知見が疾患の発症メカニズムの解明及び治療法の確立に貢献することも期待されます。


(問い合わせ先)

独立行政法人理化学研究所
 脳科学総合研究センター シナプス分子機構研究チーム
  チームリーダー  吉原 良浩

Tel: 048-467-1699 / Fax: 048-467-2306
(報道担当)

独立行政法人理化学研究所 広報室

Tel: 048-467-9271 / Fax: 048-462-4715
Mail: koho@riken.jp


<補足説明>
※1 転写調節因子
特定のDNA配列に結合して遺伝子の発現を制御するタンパク質。
※2 Arx
転写調節因子の一つであり、ショウジョウバエで最初に発見された。ヒトにおいては外性殖器異常、滑脳症及びてんかんを伴うある種の精神遅滞の原因遺伝子として知られている。脳の他に精巣、膵臓で発現している。
※3 嗅球
匂い分子を受容する嗅細胞の接続先であり、嗅覚の一次中枢として機能する脳の領域。嗅球内には匂い情報をさらに高次の嗅皮質へと伝える僧帽細胞の他に介在神経細胞である傍糸球細胞と顆粒細胞が存在している。
※4 匂い分子受容体遺伝子
嗅細胞で発現し、鼻腔に入ってくる匂い分子を認識するタンパク質。多種多様な匂い分子に対応できるように、非常に多くの種類の匂い分子受容体(マウスでは約1,000種類、ヒトでは約350種類)がゲノム上に存在している。
※5 嗅上皮から嗅球への神経細胞の配線様式
1つの嗅細胞は1,000種類のレパートリーのうち、たった1種類の匂い分子受容体を選択して発現している。また、同じ匂い分子受容体を選択した嗅細胞群はそれらの軸索を、嗅球に存在する約2,000個の糸球のうち、たった2つに集束させて投射している。このメカニズムにより個々の糸球は、特定の匂い分子受容体の情報を選択的に表現し、次の神経細胞へと伝達するための重要な機能ユニットとなっている。
※6 抑制性介在神経細胞
接続先の神経細胞の活動を抑制させる働きをもつ神経細胞。神経伝達物質として主にGABA(γアミノ酪酸)を放出する。嗅球内では抑制性介在神経細胞として傍糸球細胞と顆粒細胞が存在している。嗅球の介在神経細胞は胎生期だけでなく成体期になっても常に大脳の脳室周辺で産生され続け、前方へと移動、嗅球へと到達し、新たな神経回路を形成する。


図1ヒト及びマウスの嗅覚系
匂い分子は嗅上皮に存在する嗅細胞で受容される。その情報は嗅球、さらに嗅皮質へと伝えられる。


図2 マウス嗅覚神経回路の模式図
同じ種類の匂い分子受容体を発現する嗅細胞は嗅球上の特定の糸球に軸索を投射する。嗅球には匂いの情報を嗅皮質へと伝える僧帽細胞の他に抑制性介在神経細胞である傍糸球細胞と顆粒細胞が存在する。嗅球の介在神経細胞は胎生期だけでなく成体期になっても常に大脳の脳室周辺で産生され続けて、rostral migratory stream内を移動して嗅球へと到達し、新たな神経回路を形成する。


図3 正常マウス及びArxノックアウトマウスの嗅球
Arxノックアウトマウスの嗅球は正常マウスに比べて小さい。


図4 マウス嗅覚組織におけるArxタンパク質の発現
嗅覚組織においてArxタンパク質(赤)は嗅球の抑制性介在神経細胞である傍糸球細胞と顆粒細胞に発現している。


図5 正常マウス及びArxノックアウトマウスの嗅球切片の免疫組織染色像
Arxノックアウトマウスの嗅球では介在神経細胞(赤)と僧帽細胞(緑)の層構造の形成に異常が見られる。また、大部分の嗅細胞の軸索(青)は嗅球へ到達できずに、嗅球の前方で停留している。


図6 正常マウス及びArxノックアウトマウスの嗅球の模式図
Arxノックアウトマウスでは介在神経細胞の嗅球への移動に異常が見られる。この移動の異常に伴った嗅球神経細胞の層構造形成の不全が、嗅細胞の嗅球への接続異常を引き起こすと考えられる。

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