プレスリリース 独立行政法人 理化学研究所
アルツハイマー病の実験的遺伝子治療に成功
平成16年1月29日
 独立行政法人理化学研究所(野依良治理事長)は、アルツハイマー病の動物モデルを使用した実験的遺伝子治療に成功しました。脳科学総合研究センター(甘利俊一センター長)神経蛋白制御研究チームの西道隆臣チームリーダー・岩田修永副チームリーダー、自治医科大学遺伝子治療研究部との共同研究による研究成果です。
 アルツハイマー病は、脳内にアミロイドβペプチドが蓄積することによって引き起こされ、記銘力や認知能力が進行的に低下し、重度の痴呆に至ります。研究チームでは、これまでに、アミロイドβペプチドを脳内で分解する酵素として「ネプリライシン」(※1)を世界で初めて同定しました。今回の遺伝子治療実験は、このネプリライシンの遺伝子を利用して、脳内のアミロイドβペプチドを減少させる目的で行われました。
 その結果、ネプリライシン活性の低下したマウスの脳では、アミロイドβペプチドの量が増加しますが、アデノ随伴ウイルスベクターを用いてネプリライシン遺伝子を人工的に発現することによってこの増加が完全に抑制されました。さらに、アルツハイマー病モデルマウス(アミロイド前駆体タンパク質トランスジェニックマウス)に同遺伝子を導入することによって、病理学的なアミロイドβペプチドの蓄積が顕著に抑制されることも確認されました。
 また、本研究で行なったアデノ随伴ウイルスベクターを利用する遺伝子導入法は、遺伝子発現期間の持続性、発現領域の限定性、炎症誘発性の低さ、等に長所があり、しかも、ネプリライシン遺伝子の導入によってマウスに目立った異常は認められませんでしたので、副作用は限定的であると考えられます。また、理論的には、本方法はヒトに直接応用できるものであるので、アルツハイマー病の根本的治療法が存在しない現時点では、原因療法の一つの選択肢となり得ます。今後の研究の展開で、薬剤によってネプリライシンの活性を制御する薬理学的方法が開発されれば、遺伝子治療に加えて、より簡便で安全な治療法となることが期待されます。
 本研究成果は、北米神経科学会誌(米国)『Journal of Neuroscience』(ジャーナルオブニューロサイエンス)(1月28日号)に掲載されます。
 また、詳細な内容は3月8日から大阪市北区の大阪国際会議場で開催される第77回日本薬理学会年会で発表されます。


1. 背 景
 脳内におけるアミロイドβペプチド(図1)の蓄積は、アルツハイマー病発症の引き金となると考えられています。この蓄積はほとんどの人間で40−80歳の間に開始され、加齢に伴って加速することが知られています。その結果、85歳以上では約2人に1人がアルツハイマー病あるいはその前段階である軽度認知障害に罹患するといわれています。現時点では、アセチルコリン(アルツハイマー病患者の脳内で低下している神経伝達物質の一つ)分解酵素を阻害する薬剤(ドネペジル等)が治療に用いられていますが、これは対症療法であり、病気の進行をくい止めることは出来ません。
 研究チームでは、これまでに、アミロイドβペプチドの脳内における分解機構について先駆的な研究を行い、主要な分解酵素としてネプリライシン(neprilysin)を同定しました(米紙Nature MedicineとScienceにそれぞれ2000年・2001年に発表)(※1)。これらの成果は、ネプリライシン遺伝子を働かないように改変した動物(ノックアウトマウス)を用いて、分解酵素の低下がアミロイド蓄積の原因となること示したもので、その結果、分解活性を上昇させることによって蓄積を抑制できれば、これがアルツハイマー病の根本的な治療方法の確立につながる可能性があると予想されていました。
 そこで、研究チームでは、ネプリライシンの遺伝子を導入してネプリライシンレベルを増加させ、アミロイドβペプチドを減らすことができるかどうか検証しました。


2. 研究手法と成果
研究手法
 ネプリライシン遺伝子の導入は、アデノ随伴ウイルスベクター(※2)を用いて行いました。このベクターは、以下の特徴があり、脳の慢性疾患に対して最も適したものであると考えられています。
目的の遺伝子を神経細胞に効果的に発現させることが可能。
伝染的な感染性がなく、病原性もない。
目標とした局所だけに発現することが出来るので、全身性の副作用が少ない。
一度遺伝子を導入すれば6ヶ月以上産物タンパク質が産生され続けるので、頻繁に導入操作を行う必要がない。
副作用としての炎症反応の誘導がほとんどない。

研究成果
 ネプリライシンの遺伝子を導入したところ、以下のような成果が得られました。
ネプリライシン遺伝子を組み込んだアデノ随伴ウイルスベクターを、ネプリライシン遺伝子欠損マウスの海馬に注入したところ、ネプリライシンが発現し(図2)、その酵素活性が回復しました(図3)。
ネプライシンが発現しその酵素活性を回復させる効果は少なくとも6ヶ月は持続していました(図4)。
ネプリライシン遺伝子欠損マウスの脳ではアミロイドβペプチドの量が正常よりも約2倍増加していますが、ネプリライシン遺伝子導入によって、正常マウスのレベルまで減少しました(図5)。
内嗅野に投与した場合は、内嗅野とその投射先(海馬歯状回)で限定的に発現し、特定の神経回路にネプリライシンを発現できることを示しています(図6)(※3)。
病理学的アミロイドβペプチド蓄積を示すアルツハイマー病のモデルマウス(アミロイド前駆体タンパク質トランスジェニックマウス)に、ネプリライシンを発現することによって、アミロイドの蓄積が顕著に抑制されました(図7)。
海馬は脳内に左右一対存在し、神経線維によって繋がっていますが、片側だけにネプリライシンを投与しても、この神経線維を通して2週間以内に反対側の海馬にも発現しました(図8)。このように、局所に投与しただけで、左右の海馬にネプリライシンを発現できることが明らかになりました。

成果のまとめ
 以上のとおり、今回の我々の実験からモデル動物で人工的に脳内のネプリライシンの活性を高めることによって、ネプリライシンの活性低下を補完し、アミロイドβペプチドの蓄積を抑制できることが実験的に証明されました。この実験結果について、ネプリライシンがモデル動物の脳内に蓄積しているアミロイドβペプチドを分解したためか、新たなアミロイドβペプチドの蓄積を抑制したためか、またはこれら両方によるものかは現在解明すべき課題となっておりますが、McGeerら(カナダ:University of British Columbia)は、我々の以前の成果に基づいて、アルツハイマー病患者の脳においてネプリライシンの発現が低下していることをすでに報告しており、今回の成果はアルツハイマー病治療のヒトへの応用に道を開いたことを示すものです。

予想される副作用について
 ネプリライシンの作用については、酵素化学的に詳細に検討されているので、その副作用はある程度の確度をもって予想可能です。ネプリライシンは細胞外で作用し、分子量5,000以上のタンパク質を分解することは出来ないので、大半のタンパク質の代謝は影響を受けません。脳内でネプリライシンによって分解されるのはある種の神経ペプチドであると予想されるので、ネプリライシンが過剰に発現された場合に、神経ペプチドの量が減少する可能性が危惧されます。
 しかし、アルツハイマー病の患者の脳には大量のアミロイドβペプチド(正常の1,000〜10,000倍ほど)が存在するので、神経ペプチドよりもアミロイドβペプチドの方が優先的に分解されると考えられます。また、アルツハイマー病で最も脆弱な内嗅野や海馬は、神経ペプチドの存在量が相対的に少なく、さらに、これらの領域にネプリライシンを発現させても、マウスの行動や寿命に明確な異常は認められないことから、恐らく致死的な副作用は生じないと予想されます。
 また、脳内に遺伝子ベクターを注入するためには、外科的な手術が必要になることはいうまでもありません。ただし、細針を用いて投与できるので、脳腫瘍等の手術に比べればはるかに簡便なものとなり、患者さんへの負担も比較的軽いものと考えられます。


3. 今後の期待
 本研究における実験的遺伝子治療法は、理論的には、人間にそのまま応用できるものですが、実際に臨床応用に用いるためには、安全性の問題や倫理上の問題などを解決しなければなりません。しかし、ネプリライシンの遺伝子を導入する遺伝子治療は、若年発症型のものを含めて全てのアルツハイマー病患者の根本的な治療法となる潜在力があると考えられます。
 本研究によって、脳内のネプリライシン活性を制御することで、アルツハイマー病の予防や治療に有効であることが強く示されました。現在、当研究室では、脳内の特定の領域でネプリライシンの活性を制御する薬理学的方法の開発にも取り組んでいます。薬剤を用いて脳内のネプリライシンの活性を選択的に上昇させることにより、遺伝子治療と異なる方法でアミロイドβの蓄積を防ぐことが出来ます。これが成功すれば、より簡便で安全な方法で予防や治療が可能になることが期待されます。


(問い合わせ先)

独立行政法人理化学研究所
 脳科学総合研究センター 神経蛋白制御研究チーム

チームリーダー西道 隆臣
副チームリーダー岩田 修永
Tel: 048-467-9715
Fax: 048-467-9716

(報道担当)

独立行政法人理化学研究所 広報室

Tel: 048-467-9271
Fax: 048-462-4715
Mail: koho@riken.jp


<補足説明>
※1 ネプリライシン
疎水性アミノ酸残基のアミノ末端側でペプチド結合を切断する膜貫通型のメタロエンドペプチダーゼで、エンケファリナーゼ、中性エンドペプチダーゼ24.11とも呼ばれています。脳ではアミロイドβペプチドの分解の他、エンケファリン、サブスタンス Pやタキキニン類の神経ペプチドに作用し痛覚や神経の伝達を制御すると考えられています。末梢組織では心房性ナトリウム利尿ペプチドやブラジキニンに作用して血圧や炎症反応を調節しています。
(付記)ネプリライシンとアミロイド・アルツハイマー病の関連については、理研ホームページもあわせてご参照ください。
http://www.riken.jp/r-world/info/release/press/2001/010521/index.html
http://www.riken.jp/r-world/info/release/press/2000/000201/index.html
※2 アデノ随伴ウイルスベクター
アデノ随伴ウイルス(adeno-associated virus)は、AAVと略称される病原性を持たない線状一本鎖DNAウイルスです。DNA組換え技術により、目的(治療)遺伝子をアデノ随伴ウイルスゲノムの両端に存在するヘアピン構造の間に挿入して、特定の細胞や組織に導入し目的タンパク質を発現させるベクターとして利用されています。ベクターは組換えDNA実験おいて目的の遺伝子の保持・運搬の役割を果たしています。
※3 内嗅野・海馬歯状回
海馬は陳述的な(エピソード)記憶を司る脳の器官のひとつ。海馬内では、内嗅野から神経線維が伸びて歯状回に繋がっており、記憶に関する情報が伝達されると考えられています。この神経線維は貫通線維束と呼ばれ、アルツハイマー病で脆弱とされている神経回路の一つです。












図の略号
Aβ: amyloid β peptide(アミロイドβペプチド)
NEP: neprilysin(ネプリライシン)
rAAV: recombinant adeno-associated virus(組換えアデノ随伴ウイルス)

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