Press Release

理化学研究所
平成15年5月19日

睡眠の視覚経験依存的な発達とその臨界期を発見
− 睡眠も育つ -

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 理化学研究所(小林俊一理事長)は、発達期のネコ、マウス視覚系において視覚機能同様に睡眠もまた視覚経験により発達することを発見し、かつその睡眠の可塑性※1は生後の限られた時期(臨界期)に生じることを世界で初めて示しました。理研脳科学総合研究センター(甘利俊一センター長)、神経回路発達研究チーム ヘンシュ貴雄グループディレクター兼チームリーダーおよび宮本浩行・片桐大之研究員らによる研究成果です。
 記憶の定着に睡眠は不可欠の役割を担っていることが従来から示唆されてきましたが、当研究グループは逆に記憶・学習などに関わる覚醒時の経験がどのように睡眠に影響するかを研究が進んでいる視覚系で明らかにしました。生後間もない発達期の動物を完全な暗室で育て視覚経験を妨げると、成熟した後も視覚皮質において特異的に睡眠中の脳活動(脳波)が顕著に低下することを見出しました。成熟動物から視覚経験を奪っても睡眠に変化はなく、マウスでは生後1〜2ヶ月に睡眠の可塑性の臨界期が存在することが分かりました。さらに遺伝子欠損マウスを用い、この可塑性はNMDA型グルタミン酸受容体の活性化を介した分子メカニズムに基づくことを見出しました。
 今回の発見はシナプス可塑性を通じて睡眠と視覚システムを強く結びつけ、依然謎の多い記憶・学習と睡眠の役割を神経回路のレベルで解き明かす上で糸口となるものです。本研究は若い脳の発達と睡眠との関係の基礎的理解から睡眠障害をもつ患者の医学的診断など広く貢献することが期待されます。
 本研究成果は、米国の科学雑誌『Nature Neuroscience』のウェブサイト上のアドバンス・オンライン・パブリケーション(AOP・5月19日付)に発表されるとともに、6月号に掲載されます。

1.背景

 睡眠は脳可塑性の回復やヒトや動物の記憶・学習を成立させる上で重要であることが従来から指摘されてきました。脳の海馬領域での経験に関連した神経活動や鳥の歌生成に関連した神経活動、あるいは学習後のヒト脳活動が睡眠中に再活性化するという報告も相次いでなされています。睡眠と中枢神経系の可塑性は互いに影響を及ぼし合っている可能性は極めて高いわけですが、その実験的根拠の多くは断眠実験に基づくか、複雑な学習行動が要求される系で行われており、睡眠がどのようにして神経回路に働きかけ、いつどこで変化しているのかを回路網レベルで知ることは困難でした。
 そこで研究グループは視覚系の可塑性に注目しました。発達期の脳の視覚系は視覚経験を適切に受けることによって正常な視覚機能を獲得すること、その成立が限られた期間にのみに存在する臨界期をもつことなどが豊富な研究により確立されています。
 一方、視覚神経回路は覚醒時には視覚情報処理を担いますが、脳が睡眠に入ると同じ視覚回路に自発的に組織立った神経活動のリズム(脳波など)が引き起こされます。この解剖・生理学的に情報処理様式が深く研究されてきた視覚系と睡眠を可塑性の観点から我々は直接結びつけることを試みてきました。最近、米国の研究グループは若いネコの睡眠を奪うことにより視覚野可塑性が極度に阻害されることを報告しましたが、同じ時期、私たちは逆に視覚経験を操作したときに睡眠に変化が現れることを突き止めました。

2.研究手法と成果

 研究グループは出生時から成熟するまで完全な暗室で飼育された(Dark-Rearing: DR)ネコあるいはマウスと正常な視覚経験を受けた対照群(Light-Rear: LR)の視覚皮質から睡眠中の脳波を長期的に記録しました。DR群では、対照群と比べて、徐波睡眠※2(またはノンレム睡眠)脳波の周波数解析による1-4 Hzのデルタ成分※3は統計上有意に低下していました。一方、同一個体から記録した体性感覚野の脳波に統計的差はありませんでした。視覚野のデルタ成分は動物を光環境に戻すことで徐々に(1−2ヶ月)回復させることができました。
 また、生まれてから直ちに1ヶ月間暗室で育て、光環境に戻した場合、あるいはすでに成熟した動物を長期間暗闇に置いた場合も睡眠に変化は生じませんでした。しかし興味深いことに生後1ヶ月間正常な環境で飼育され、続いて暗室で1ヶ月間を経過したところ、生まれてから長期間DRした動物同様に著しいデルタ成分の低下をみました。
 これらのことから、発達期のネコやマウスの視覚系においては、睡眠も視覚経験により発達することが示されるとともに、他の脳機能(例えば言語獲得など)と同様に生後の限られた時期(1〜2ヶ月)に変化することができるような臨界期をもつことが示されました。
 さらに、シナプス可塑性に深く関与するN-メチル-D-アスパラギン酸(NMDA)受容体機能が低下したマウス(NR2Aサブユニット※4欠損マウス)を用いた実験により、この睡眠の可塑性が視覚機能の可塑性と分子的基盤を共有し、脳内NMDA受容体活性化の程度を強く反映していることを支持する結果を得ました。

3.今後の展望

 これまで、記憶・学習に睡眠が重要であることを示す研究が進展してきましたが、驚くことにその睡眠自身もまた覚醒時の視覚経験により大きく影響されることが本研究により明らかになりました。また、本研究は睡眠発達の臨界期が存在することを示した世界初の例です。睡眠の役割に関する研究は記憶の問題を含め未だ現象論に留まり、未知の問題が山積しています。視覚系という脳研究でよく研究されている分野との密接な関連が明らかになったことは神経細胞、神経回路網のレベルから睡眠機能を解き明かす上で絶好のモデルを今後提供していくと思われます。また睡眠の健全な発達に関する知見は脳と身体の健やかな成長という観点からも広く社会に還元されるでしょう。


 

(問い合わせ先)


理化学研究所 脳科学総合研究センター

臨界期機構メカニズム研究グループ 神経回路発達研究チーム

グループディレクター/チームリーダー

ヘンシュ 貴雄

研究員

宮本 浩行

TEL: 048-467-9634

FAX: 048-467-2306

脳科学研究推進部

田中 朗彦

TEL: 048-467-9596

FAX: 048-462-4914


(報道担当)

理化学研究所 広報室

駒井 秀宏

TEL: 048-467-9272

FAX: 048-462-4715



 

補足説明

※1

可塑性

外部からの刺激に応じて脳の形体が変わる粘土のような性質。
視覚野可塑性:視覚経験によって視覚回路の機能(方位選択性、眼優位性など)を変化させ保持する性質。

※2

徐波睡眠

睡眠は一般に徐波睡眠(ノンレム睡眠ともいう)とレム睡眠に区別される。睡眠時間の多くは徐波睡眠で占められ、このとき高振幅の電気活動のリズム(脳波)が観察される。

※3

デルタ成分

脳活動の周波数の一つで、成人では通常睡眠中にしか現れない。主にシータ波(6−8Hz)が占めるものがレム睡眠、デルタ波(1−4Hz)が多く現れるものがノンレム睡眠である。

※4

NR2Aサブユニット

主要な興奮性の神経伝達物質グルタミン酸受容体(NMDA受容体)を構成するタンパク質のひとつで、NMDA受容体の性質を決める。発達の後期に脳に現れてくる。

 




視覚皮質−視床回路は 覚醒時には視覚情報を処理し、
睡眠時には同一回路上に睡眠リズムを引き起こします。

生後の発達期に可塑性が一時的に高まる時期があり、これを臨界期と呼んでいます。



 

 

マウス脳波記録図 ヒトを含め睡眠は大きく徐波睡眠(ノンレム睡眠)とレム睡眠に分けることができます。






 


 


 

徐波睡眠の3段階の発達モデル

徐波睡眠活動の3段階モデル:
 生後の初期には徐波が発達してきますが、睡眠の臨界期に入ることで視覚入力がないと、もはや正常レベルの徐波活動を維持できなくなると考えられます。経験依存的段階ではNMDA受容体の活性度が可塑性の大きさに重要な役割を果たします。