Press Release

理化学研究所
平成14年9月12日

化学反応を究極の単位で観測・解析することに成功
− 1分子での化学反応および分子の種類を見極める新技術 − 

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 理化学研究所(小林俊一理事長)は、分子の内部振動を利用して人工的に化学反応を起こし、その変化を可視化するとともに、反応で生成された分子の種類を特定することに世界で初めて成功しました。理研中央研究所表面化学研究室(川合真紀主任研究員)の金有洙基礎科学特別研究員、米田忠弘副主任研究員らによる研究成果です。
 化学反応は、今日の近代社会を支える最も大きな原動力の一つですが、その究極の単位である1つの分子の化学反応や化学反応を可視化した例はほとんどありません。まして一つの分子だけを狙って化学反応を起こさせ、反応生成物を分析することは、いまだなし得ない技術です。今回、走査トンネル顕微鏡(STM)を用いて、トンネル電子を一つの分子に注入し、内部振動を選択的に励起させることによって、化学変化を引き起こしました。さらに、化学変化の様子をSTMで可視化することにも成功。与えた励起エネルギーと分子の内部振動との関係から、生成した分子の種類を特定することができました。
 本技術は、単一分子における化学反応と、分子間における内部振動を用いた解析手法が有効であることを証明し、現在、盛んに研究が行われているナノテクノロジーを強力に推し進める重要な新手法として期待されています。本研究成果は、米国の学術誌『Physical Review Letters』 (9月16日号)に掲載されます。

 

1.背景


 近代科学を大きく前進させた研究の一つに、酸素と水素から水が生成されることが正しく理解されたことが挙げられます。“2H+O−>HO”のよく知られた反応式は、単一の分子の反応が、実際に水が生成される過程の最小の単位であることを示しています。この反応式が正しいことは、体積の変化や発生する熱の測定などによって確かめられています。しかしながら、分子単位での反応を実際に目で見た人は誰もいません。化学反応の究極の単位である分子レベルで化学反応を実際に見たいという欲望は、ある意味人間の本能的なものであるのかもしれません。しかしそれを実現するためには、「分子を見るための技術」、「化学反応を一つの分子に起こさせる技術」、そして「生成された反応物を分析する手法」が関連して確立することによって、初めて可能になります。
 本研究では、走査トンネル顕微鏡(STM)をツールとして用いて、これらの高度な技法をすべて組み合わせることに挑戦しました。特に、反応誘起や解析手法に分子を構成する原子同士が伸び縮みする“分子振動”を巧みに利用することで、究極の極微の世界での化学反応と化学分析を試みました。この技術はナノテクノロジー、特に生体分子の反応や分析評価手法として今後威力を発揮するものと考えられます。

 

2.研究成果と手法


 今回の実験では、まず「トランス2ブテン(C)」という炭化水素の分子を、パラジウム(Pd)という金属の表面に吸着させて観察しました。図1の左上のパネルには2つの分子が含まれており、それぞれダンベルのような格好をしています。2つの分子のうち四角で囲んだ分子に、STMを用いてトンネル電子を注入しました。すると、中央のパネルの四角で囲んだ部分で示したように、ターゲットの分子は楕円形の分子に変化することが分かりました。この反応の再現性を示すため、中央のパネルでもうひとつのトランス2ブテン分子に同じく電子を注入したところ、右下のパネルにあるように2つの分子ともに楕円形の分子に変化しました。この反応は、トランス2ブテン分子から2つの水素原子が脱離し、「1,3ブタジエン(C)分子に変化した可能性が高いと考えられます。なぜなら1,3ブタジエン分子のSTM像は、この生成物とまったく同じで、楕円形をしているためです。
 本研究で得られた化学反応は、電子を分子に注入することで起こったわけですが、その機構は大変おもしろい化学および物理現象を含んでいます。この化学変化を起こすに当たっては、炭素原子(C)と水素原子(H)にトンネル電子を注入し、内部振動を選択的に励起させました。この炭素原子と水素原子間の伸び縮み、つまり分子振動こそが選択的な化学反応につながっていると考えられます。この伸び縮みは、極微の世界では、だんだんに大きくなっていくことはできず、階段のようにデジタル的に大きくなって行くことが知られています(振動準位の量子化)。電子を注入するとこの振動が1段2段と大きくなり、2段励起されたところでCとHの間は、その伸び縮みに耐えられず、結合が切れてしまったと考えられます。
 次に反応生成物が、本当に1,3ブタジエン分子であるかどうかを分析するために、やはりこの分子振動を指紋のように用います。分子振動による化学分析は、いろいろな分光手法を用いて調べられてきており、膨大なデータベースが構築されています。しかしそれらは大きな数の分子が必要であり、情報はそれらの平均です。単一分子の分子振動の測定には、非弾性トンネル分光が有効と考えられます。非弾性分光とは、電子のエネルギーが分子の振動のエネルギーよりも大きければその振動モードを引き起こすことが可能となり、そのエネルギーより上ではトンネル電子は少し流れやすくなる特性を生かしたものです。従って電流が少し増加し、電流の微分をとることでそれを検知できます。図2は、その測定結果です。トランス2ブテンでは、C−Hの間の伸び縮みに相当するピークが〜0.36V付近に見られます。1,3ブタジエン分子では、分子の格好の違いからこのピークは現れません。反応生成物はC−H伸縮振動が観測されないばかりでなくスペクトルの細部にわたってブタジエン分子と同じスペクトル形状を示します。この結果は、ブタジエン分子が生成されたという、反応生成物に対して始めての分析結果と思われます。

 

3.今後への期待


 今回の研究結果では、単一分子について“分子内の振動を活性化することで化学反応を起こせること”、また“同じく振動を検知することで単一分子の化学分析ができること”を示すことができました。本手法は、分子のどの部分に化学反応を起こすか非常に正確にコントロールすることができます。分子振動は、STMによって注入された電子のエネルギーに対して非常に鋭く立ち上がる特性や、STMが優れた空間分解能を持っていることによって成し遂げることができました。今後、特に大きな分子の一部だけを改変したり、また、ある部位だけ化学分析するための最も優れた手法と考えられます。これらは大きな分子、特に生体分子についての応用が広がることが期待され、ナノテクノロジーの“化学操作ツール”、“化学分析ツール”として、ナノ化学という新しい分野を切り拓く、最適な手段として注目されています。

  

(問い合わせ先)

理化学研究所 中央研究所

表面化学研究室  先任研究員 

米田 忠弘

TEL:048-467-9406

FAX:048-462-4663

(報道担当)

広報室    

嶋田 庸嗣

TEL:048-467-9272

FAX:048-462-4715

  

 


 

 

図1 トンネル電子の注入による1分子化学反応を示すSTM像

赤枠で示されたトランス2ブテン1分子にSTMを用いてトンネル電子を注入すると青枠で示すよう1,3ブタジエン分子に変化した。



 

 

 

 

図2 非弾性分光による測定結果

T:トランス2ブテン B:1,3ブタジエン 
P:トンネル電子注入でできた1,3ブタジエン