Press Release

理化学研究所
平成14年3月15日

分子を動かす新しい制御方法を開発
− 分子コンピューティングを切り拓く分子スイッチの実現へ − 

プレス発表情報一覧




 

 理化学研究所(小林俊一理事長)は、金属表面に吸着した分子の内部振動を励起することによって、分子が金属表面上を飛び移る現象が引き起こされることを世界で初めて捉えるとともに、その物理機構を理論的に証明しました。理研表面化学研究室(川合真紀主任研究員)の米田忠弘先任研究員、金有洙基礎科学特別研究員および、ドイツ・Jlich研究所のBNJパーソン博士、富山大学工学部上羽弘教授による研究成果です。
 ナノテクノロジーは、次世代を担う技術として期待されており、その発展に必須な要素技術の一つに、分子の動的な運動制御があります。本研究では、走査トンネル顕微鏡(STM)を用いて、金属であるパラジウム(Pd)上に吸着させた一酸化炭素(CO)分子にトンネル電子を注入し、内部振動(CO伸縮振動)を励起させることによって、金属表面上を移動させることに成功しました。さらに、銅(Cu)表面では、吸着分子との結合力が弱いため移動が起きやすいと考えられますが、実際には内部振動が励起されても、移動エネルギーに有効に伝達されず、分子の移動が起こらないことを理論的に明らかにしました。
 本技術を用いて、CO分子が一次元的に並んだ鎖状の構造体を励起させると、分子ビリヤードのように集団で移動させることができるため、分子移動によるスイッチングの構築も夢ではなく、分子コンピューティングへ
※1の可能性を拓くことになります。本研究成果は、米国の科学雑誌『Science』(3月15日号)に掲載されます。

 

1.背景


 ナノテクノロジーは、次世代を切り拓く技術として注目されていますが、その実現に欠かすことのできないキーテクノロジーがいくつかあります。第1番目は、基盤の表面上における分子の位置を制御する技術です。これは、単体の分子では得られなかった特性を低次元構造、すなわち量子ドット、分子細線、2次元超構造などを固体表面に作成することで引き出そうとするものです。そのためには、分子の位置をコントロールし、きちんと分子を整列させることが必要不可欠です。第2番目は、分子の運動を制御する技術です。電子に代わって、分子の動きそのものが情報伝達※2を担う、分子デバイスに関心が持たれており、その実現のためには分子の運動を誘起して、制御する必要があります。
 これらを実現させる手法としては、走査トンネル顕微鏡(STM)を用いた方法が最も注目されています。今までにSTMを用いて分子の位置を制御することは実現されていますが、その技術はSTMの探針で分子を押したり、引いたりして位置を制御する静的なものにとどまっています。一方で、分子の位置をスイッチとして用いる分子コンピューティングや、動きのそろった分子の衝突によってのみ引き起こされる新しい化学反応の創製には、分子そのものにエネルギーを与えて、自ら運動を引き起こさせることが必須となります。

 

2.研究成果


 本研究では、まず始めに、金属であるパラジウム(Pd)表面上に吸着させた一酸化炭素(CO)分子に対して、分子そのものにエネルギーを蓄えることで、分子が吸着位置を飛び移っていく運動を引き起こしました。今回の実験では、従来の静的な分子操作技術と本質的な違いがあり、動的な分子の運動を引き起こしたことが重要です。分子へのエネルギーの伝達および蓄積は、分子の内部振動の励起によって可能となります。振動の励起そのものは、分子にSTM探針からトンネル電子を注入することで引き起こされます。分子の内部振動が励起されたことは、自動車に例えれば分子内部のエンジンが始動した状態です。しかし、エンジンが動いていてもギアがなければその動力がタイヤには伝わりません。同じく分子でも内部の振動のエネルギーが伝達して、吸着位置を飛び移っていく機械的な動きに変化させるためには、それを結びつけるギアが必要です。このギアにあたるものとして分子の振動モード間の非調和結合※3を考えることによって初めて、理論的に分子の移動についての定量的な解明を行うことができました。
 さらに今回、実験的に興味深い対比を試みました。CO分子の吸着は、Pd表面上に比べて銅(Cu)表面上では“金属−CO”間の結合が弱く、吸着位置を飛び移るのに必要なエネルギーは、それほど大きくないことが知られています。しかしながら、同じように分子の内部振動を励起しても吸着位置を飛び移っていく運動はPd表面上では観察されても、Cu表面では観察されません。これは先ほどの理論によれば、同じようにエンジンが回っていてもギアへのエネルギーの伝達効率が非常に悪いCu表面では、吸着位置を飛び移るというタイヤの動きには変換されないことを示しています。このことは、人工的に分子の運動を引き起こすためには、単に分子内部にエネルギーを蓄えることだけでは不十分で、エネルギーの伝達を効率化させる分子設計を行わなくてはならないことを意味しています。本研究の推進は、基礎化学において分子のダイナミクスに関する新たな知見を与えるだけでなく、ナノテクノロジー研究においても、振動エネルギーを機械的運動に変換する分子を設計する上での重要な指針となり得るものです。
 振動励起を用いて分子にエネルギーを蓄える手法は、分子の集合体について非常に興味深い結果をもたらします。その一例として、CO分子が一次元的に並んだ鎖に対して、その端のCO分子に振動励起によってエネルギーを注入したところ、まるでビリヤードのようにエネルギーが注入された分子はそのままの位置にとどまり、その他の分子は集合体として、その表面での吸着位置が一原子分移動することが観察されます。この集団運動は、分子をスイッチングとして用いる分子コンピューティングに不可欠の動きであり、今回、実験的に初めて、その動きを実現することができました。

 

3.今後への期待


 今回の研究結果では、振動に蓄えられたエネルギーが、分子の吸着位置を飛び移っていく運動に変化しましたが、そのほかの自由度、例えば分子の回転や化学反応といった現象に伝達されていくことも確認されています。分子の回転運動は、1分子モーターの実現の可能性を示すものです。
 さらに本手法は、分子内に存在する原子間の結合のうちどの結合に対して振動を励起するかという自由度を持っており、大きな分子の特定の結合だけを化学変化させるという応用も考えられ、今後、ナノ化学という新しい分野を切り拓く、最適な手段として期待されます。

 

 

 

(問い合わせ先)

理化学研究所 

表面化学研究室   

主任研究員   川合 真紀

TEL:048-467-9405

FAX:048-462-4663

先任研究員   米田 忠弘

TEL:048-467-9406

FAX:048-462-4663

(報道担当)

 広報室 

嶋田 庸嗣

TEL:048-467-9272

FAX:048-462-4715


補足説明

※1 分子コンピューティング

 シリコンなどの無機半導体材料の代わりに、有機材料を用いた電子デバイスによるコンピューターという意味でも用いられるが、ここでは従来、電子の動きが情報のビットを伝達していたのに代えて、分子の動きで同じような情報伝達を行おうとするもの。集積度の増加と、現行電子デバイスの最大の弱点である、情報の集積化によって増えつづける発熱・電力消費の増加を低減できる特徴が考えられている。


※2 情報伝達

 従来の電子デバイスの場合、ソースからドレインに電流が流れるか流れないかが、その間にあるゲートの電圧で決定される。ゲートが開くとき、つまりスイッチがONの場合、電流が流れて情報を伝達するが、この電流は浪費され発熱の原因となっている。分子の動きで情報を伝達しようとする場合、分子の列をつくり、ソースで分子を押した動きが、ドレインの分子が押されるか、押されないかで情報が伝わるが、それはゲートの状態によって決定される(ゲートに動かない分子を挿入したり、引き抜いたりすることで実現)。そこには電子デバイスでみられる電力の浪費がないことが大きな特徴である。


※3 分子の振動モード間の非調和結合

 分子は、たとえ絶対零度でも安定な構造付近で動いており、温度の上昇とともにその動きは激しくなる。複雑な分子の動きも、決まった数の基準振動モード(normal mode)と呼ばれる動きの組み合わせとして捉えることができる。各normal modeはそれぞれに固有の振動エネルギーを持っている。さらに各normal modeは独立で互いに混じらない性質を持っている。しかしこれは、分子が気体として孤立して存在している場合であり、弱い結合であっても表面に吸着した場合には対称性が崩れ、normal mode間に混じりあう現象が出てくる。これを振動モード間の非調和結合と呼ぶ。

 


 

 

 

 

図1 トンネル電子注入で起こった一酸化炭素(CO)分子の表面移動

この分子の動きはSTM短針で分子を押したり引いたりしたものではなく、分子の内部振動モードを励起することで、エネルギーが分子に蓄積され、それが横方向の運動に変化したもの。そのエネルギーの伝達メカニズムは、振動モード間の非調和結合による。同じCO分子を用いても、銅(Cu)表面では、非調和結合が弱いことなどの理由でこの動きは起こらない。

1.

電子注入前

下地パラディウム(Pd)表面上に吸着している一酸化炭素(CO)分子が白く観察される。図に青で示した位置で1秒間、7nA、350mVの電子を注入する。

2.

電子注入後

CO内部のC-O伸縮振動が励起され、それが表面横方向への運動に変化。ターゲットのCO分子だけが左の方向に移動した。

 

 


 

 

 

 

 

図2 振動励起による分子ビリヤード

1.

パラディウム(Pd)金属表面上に一酸化炭素(CO)を吸着させるとき、条件によって1次元の鎖のような構造を作ることができる。下の図に示したのは7つのCO分子が並んだ様子をSTMで観察した像。

2.

この7つのCO分子の配列を時間の経過を縦方向にとって示したのが上の図。
しばらくは何の変化もみられないが、Aの場所で黒丸の分子にトンネル電子を注入し、この分子の振動モード(C-O伸縮振動)を励起した。

3.

その後の配列を見ると、トンネル電子を注入した分子は静止しているが、他の6つの分子は集団で右にPd原子間距離(2.75オングストローム)だけ動いている。

4.

鎖の端の分子を励起することで、並んだ分子をビリヤードのように集団で運動させることが可能であると示された。