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理化学研究所(小林俊一理事長)は、ヒトとチンパンジー※1を比較する世界で初めてのゲノム地図を完成させました。理研横浜研究所ゲノム科学総合研究センター(和田昭允センター所長)ゲノム構造情報研究グループの榊佳之プロジェクトディレクター、藤山秋佐夫チームリーダらを中心とした研究グループによる研究成果です。
比較ゲノム地図は、ヒトとチンパンジーのゲノム情報を比較するため、人工染色体(BAC)※2上にクローン化されたチンパンジーゲノムDNA断片約64,000種を対象に末端配列を決定し、ヒトゲノム配列との相同性をもとにそれらの断片をヒトゲノム上に整列させました。その結果、ヒトとチンパンジーの間で大きく構造が変化している部分や、配列の変化の大きい領域が存在することが分かってきました。また、今回の解析結果からヒトとチンパンジーのゲノムの違いは1.23%(約3千7百万塩基)しかないことが明らかになりました。本成果は、ヒトとチンパンジーゲノムの配列比較の第一歩であり、配列決定を行う準備ができたことになります。今後、両者の配列情報の違いが明らかになることによって、ヒトがヒトであるための“智”の遺伝子探索にはずみがつくものと期待されます。
本研究成果は、米国の科学雑誌『Science』(2002年1月4日号)に発表されます。
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1.背景
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2003年の全構造解明を目指し、ヒトゲノムの高精度解読が、日本、アメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、中国の各ゲノム研究機関を中心に進められており、わが国では、理研横浜研究所ゲノム科学総合研究センター(GSC)と慶應義塾大学医学部が、計画の当初から参画しています。理研GSCは、2000年5月の『nature』誌に掲載された“ヒト21番染色体”の全構造解読で中心的な役割を果たし、その後も“ヒト11番染色体長腕※3”、“ヒト18番染色体短腕※3”構造解読で世界をリードしています。
ヒトゲノムのようにサイズが大きく構成も複雑なゲノムでは、きちんと整備された解析試料と、マップ情報に基づいた高精度な配列決定が行われて初めて、ゲノム配列からの情報抽出も正確に行われ、その後の応用研究への展開も可能になります。ヒトゲノムの構造情報は、われわれ自身の遺伝情報を理解するのみではなく、将来にわたって保健、医療、創薬、育種、遺伝子資源の戦略的確保などを進めるための基準となるものです。したがって、理研GSCのように、高精度な配列決定と共役したゲノムマップ作成やリソースの整備、バイオインフォマティクス※4による解析能力を持つ施設の存在意義は大きいのです。
私たちは、これまでのヒトゲノムの解読を通じ、ゲノムの構造情報の意味付け、解釈についていくつかのことを学んできました。人間の実社会では、他人を自分と比べて批評することはあまり褒められる行為ではありません。しかしながら科学的には、比較を通じて対象物の性質を際立たせ、理解を容易にするというのは常とう手段の一つです。
比較を行うに当たり、二つの戦略があります。一つは、ヒトとマウスのように進化的に離れた生物間の比較を行い、両者で共通に保たれている領域を解析して共通性が高い遺伝子領域や調節領域を推定し、さらに両者で共通に見られる性質の解釈に役立てようというやり方です。この方法は、さまざまな生物を通じて基本的に保たれている性質を明らかにするのに適した方法といって良いでしょう。もう一つは、進化的にヒトの最近縁種とされているチンパンジーゲノムとヒトゲノムとの比較を行い、両者でゲノム上の領域、遺伝子などについて違いが見られるかどうか調べる方法です。相違のある領域が見つけられれば、その付近をヒトゲノムもしくはチンパンジーゲノムの特徴を表す領域の候補として選び出すことができます。理研では、国立遺伝学研究所とともに、ヒトの“特徴”をゲノム構造情報のレベルで明らかにすることを目的とした研究プロジェクト「智の遺伝子探索計画※5」を推し進めており、2001年3月には世界各国の研究者を日本に集め、国際ワークショップ「GEMINI」を開催しました。
このようにヒトゲノムの構造情報を他種生物と比較するコンパラティブゲノミクス(比較ゲノム科学)は、DNA配列の持つ意味をより一層、深く理解することができることから、新しい研究分野に発展しつつあります。コンパラティブゲノミクス研究が進展することによって、ヒトや各種生物のゲノム配列に書き込まれた遺伝情報を、よりはっきりと理解できるようになることが期待されています。さらに今後は、共通性と特異性の解明という生物学研究の2つの柱について、本格的にゲノムレベルから研究を進める必要があります。
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2.研究手法
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どのような研究であれ、その研究に適した研究材料(リソース)が準備できていなければ何も始めることができません。今回の研究に用いているチンパンジーのBACライブラリは、研究チームで独自に開発したベクターを用いたライブラリと、他の研究グループによって作られたライブラリの両方を用いています。性格の異なるライブラリを併用することにより、より広くゲノムをカバーすることができるためです。また、ベクターの性質上、私たちの作成したライブラリは比較的遺伝子密度の高い“高GC領域”を多く含んでいると考えられます。
末端配列の決定には、私たちがヒトゲノムの構造解析で培った技術で開発された高効率システムを最大限、活用しました。比較的短時間で集中的にデータ生産ができたのは、本システムを用いたためです。また、本研究グループ内には情報解析研究、いわゆるインフォマティクス研究を行うゲノム情報比較解析研究チームを持っていることが大きな特徴です。生産された配列データの計算機処理と解析には、ヒトゲノム解析にも用いている計算機システムと各種ツール類、サポートシステムを活用したほか、分子進化の専門家が解析を行いました。今回の成果は、リソース、配列決定、インフォマティクスの3チームによる密接な協力の結果として生まれたものであり、まさにGSCの総合性という特長が存分に発揮されたといえます。
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3.研究成果
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今回の大きな成果は、大量のチンパンジーBACクローンの末端塩基配列を決定し、それをヒトゲノムの配列と比較整列することによって、ヒトとチンパンジーのゲノムを直接比較できる初めてのゲノム地図(整列クローン地図)ができあがった事です。BACと呼ばれるベクターに、クローン化されたチンパンジーのゲノムDNAクローン約64,000個についてインサート断片の両末端配列決定を試み、最終的には77,461個の配列をインフォマティクスを駆使してヒトゲノム配列上に整列させています(表1、図1)。これを基に作成した整列クローン地図は、ヒトとチンパンジーゲノムの構造比較研究を進めるための第一歩となるものであり、ヒトの特定遺伝子領域に対応するチンパンジークローンが容易に単離することが可能となります。さらに、ヒトとチンパンジーの間で大きく構造の変化している部分や配列の変化の大きい領域の探索に用いることができます。
また、今回得られた配列を基に、ヒトとチンパンジーのゲノム配列の平均一致度を算出すると、98.77%という値が得られました。この値は、基となる配列の総量が多いことと、全ゲノムにわたってランダムに配列決定が行われていることから、従来以上に正確な値と考えています。言い換えればゲノム中の1.23%、単純計算だと約3千7百万塩基について、ヒトとチンパンジーで違いがあるという結果が得られました。この結果を受けて次に問題になるのは、“この相違の内容は何か?”、
そして”この相違がゲノム全体に平均して分布するのか”、それとも“ある領域に局部的に集中して起きているのか”という問題です。最終的には、両方のゲノムの全構造を比較すれば正確な解が出てくるわけですが、研究チームが中心となって全構造決定したヒト21番染色体(チンパンジーでは22番染色体)について調べたところ、局部的に違いが集中していると思われる結果になりました(図2)。現在、このチンパンジー22番染色体については国際コンソーシアムを形成して配列決定を始めたところであり、いずれ正確な解答が得られると期待されます。
さらに末端配列を、ヒトゲノム上に染色体ごとに整列させ、その分布を調べると(図1)、男性を決定するY染色体の配列に一致するものがかなり少ないことが分かりました。チンパンジーのY染色体が、ヒトのY染色体に比べるとかなり小型なことは事実ですが、霊長類内での染色体の相違を解明し、ヒト進化の道筋を染色体レベルでも明らかにすることは今後の研究課題の一つといえるでしょう。また、末端配列の分布を詳細に調べたところ、ヒトの12番染色体に相当する部分でチンパンジー染色体の一部分が逆転している、まさに切れ目の部分に相当すると思われる配列を見つけました。
今回、発表する成果についてはインターネットを通じて、ヒトとチンパンジークローンを関係づけるデータなどを追加して、論文発表と同時に公開(http://hgp.gsc.riken.go.jp)する予定です。また、末端塩基配列データについては、すでにDDBJ(日本DNAデータバンク、http://www.ddbj.nig.ac.jp)を通して公開しています。
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4.今後の展開
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今回のクローン地図をもとに今後、私たちは次のような展開を図る予定です。まず第1点として、現在の地図を充実させることを行います。基準に用いているヒトゲノム配列の正確さが上昇するにつれ、ヒト・チンパンジー比較ゲノム地図も一層正確になることが期待できます。第2点目として、ヒト遺伝子のうち興味の持たれるもの、重要性の高いものに相当するチンパンジー遺伝子を単離し、詳細な構造・機能解析を行う予定です。また、今回の研究成果は、理研GSCを中心に、国立遺伝学研究所、韓国、台湾、中国、米国、ドイツの研究者たちとの協力により得られたものです。さらに今後は、国際コンソーシアムを形成し、チンパンジーの22番染色体について正確な配列決定と、それに基づく比較ゲノム解析を行っていきます。
ヒトの最近縁種として、チンパンジーは霊長類学、行動学、認知学などあらゆる分野で大きな興味が持たれ、研究の対象となってきました。また、“いったいわれわれヒトは、他の生物、特に近縁の霊長類とどこがどう違うのか”といった、一般的な興味も大きいものがあります。私たちは、ゲノムの構造情報研究でこれらのすべてに対する答えが得られるとは思っておりません。しかしながら一方で、ヒトとチンパンジーが5百万年前に共通の祖先から分かれて以来、双方の遺伝情報に起きた変化がゲノムに書き込まれていることも事実です。私たちの研究は、この違いを解明するための最初の一歩です。5百万年という時間に比べると小さな一歩ですが、ヒトがヒトであるための“智”の遺伝子探索を行う上での大きな一歩であり、確実に研究を進めることによって豊かで価値ある情報を得ることができるものと期待されます。
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(問い合わせ先)
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理化学研究所
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ゲノム科学総合研究センター ゲノム構造情報研究グループ
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プロジェクトディレクター
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榊 佳之
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TEL:045-503-9171
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FAX:045-503-9170
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TEL:03-5449-5623
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FAX:03-5449-5445
(東大医科研)
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チームリーダー
(ゲノム地図開発研究チーム)
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藤山秋佐夫
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TEL:045-503-9174
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AX:045-503-9170
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TEL:0559-81-6796
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FAX:0559-81-6716
(国立遺伝研)
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横浜研究推進部
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反町 耕記
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TEL:045-503-9121
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FAX:045-503-9113
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(報道担当)
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理化学研究所 広報室
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嶋田 庸嗣
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TEL:048-467-9272
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FAX:048-462-4715
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※1 ヒトとチンパンジー
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今からおよそ5百万年前に共通の祖先から分岐したと考えられている。染色体レベルでは、ヒトの2番染色体に相当する染色体がチンパンジーでは2本に分かれている点が大きな違いだが、これ以外にも逆転している部位などがいくつか見つけられている。
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※2 BACクローン(BAC clone)
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細菌人工染色体(BAC)ベクターを使ったクローンで、通常100−200kbのゲノムDNA挿入断片をもつ。配列決定に使われる長い挿入DNAを持つクローンの大部分は、BACである。
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※3 染色体の長腕と短腕(long arm、short
arm)
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染色体の狭窄部(セントロメア)の両側の部分は腕(arm)とよぶ。セントロメアは染色体の中央からずれているので、一方の腕はもう一方よりも長くなる。
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※4 バイオインフォマティクス
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生命現象に共通する情報構造を通して、そのメカニズムを解明しようとする学問(日本バイオインフォマティクス学会による)。
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※5 智の遺伝子探索計画(GEMINI)
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理研GSCでは、ヒトゲノムとチンパンジーおよび関連類人猿ゲノムとの比較解析から、ヒト固有の遺伝子型を発見し、それをヒト固有の表現型、特に高度の知的活動と結びつけることを目指している。本計画は、理研脳科学総合研究センター(BSI)と国立遺伝学研究所と共同で「智の遺伝子探索計画」として取り組み、ゲノム研究者のみならず、分子進化学、脳科学、人類学など学際的協力で推進しており、2001年3月14日、15日には日本で国際ワークショップが開かれた。
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BACクローン数
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末端配列数
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決定配列
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64,116
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114,421
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マッピング
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52,881
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77,461
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表1 末端塩基配列とマッピングの要約
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図1−1
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ヒト染色体上に配置したチンパンジークローンの全体像
パーセンテージはチンパンジーBACで被覆されるヒトの領域
(チンパンジーBACの両末端が確定しているものなど確度の高いもののみピックアップし、被覆割合を算定している)
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図1−2
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チンパンジークローン地図の拡大図(ヒト21番染色体に相当する部分の一部を示す)
上段のグレイの線がヒトゲノム。青い字で書かれている部分はヒトで予測された遺伝子の位置。
その下のPTB-,
RP43-と付いているのがチンパンジーのクローン。
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図2
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ヒト21番染色体上でのBACクローンの分布
上段○で示した部分からはチンパンジーゲノムで相当領域が検出できなかった部位を示す。
緑○は、その中でもヒトに特異性が高いと思われる部位。
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