Press Release 理化学研究所
平成13年11月20日
アルツハイマー病の原因となる酵素の働きを新たに発見
- 原因酵素"βセクレターゼ"は糖鎖の合成を調節していた -

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 理化学研究所(小林俊一理事長)は、アルツハイマー病発症の原因となる酵素の新たな働き(生理作用)を発見しました。理研フロンティア研究システム(丸山瑛一システム長)糖鎖機能研究チームの橋本康弘チームリーダー、北爪(川口)しのぶ研究員、および理研脳科学総合研究センター(伊藤正男所長)の西道隆臣チームリーダーらによる研究成果です。
 アルツハイマー病は、脳内にベーターアミロイド(Aβ)と呼ばれるペプチドが蓄積して引き起こされると考えられています。Aβの産生は、アミロイド前駆体タンパク質がベータ(β)セクレターゼ(BACE1)という酵素で切断され開始されます。BACE1は、このAβを作り出す(病的な)作用しか知られていませんでした。研究グループでは、BACE1が糖鎖※1を合成する酵素を生理的に切断して、糖鎖の構造を変えることを世界で初めて見いだしました。糖鎖は、細胞膜上にあって細胞どうしのコミュニケーションを仲介する情報分子ですが、BACE1は、その合成を調節していたことが分かったのです。
 アルツハイマー病を克服するため、BACE1の働きを抑える薬物を開発し、Aβの蓄積を低下させる研究が精力的に行われています。本研究によってBACE1を阻害する薬物は、同時に高次機能に関わる糖鎖をも阻害することが示唆され、その結果生じる副作用を予測することができます。また、その副作用に対する対策を講じることで、より人体に害の少ない薬の開発につながることが期待されています。
 本研究成果は、米国の科学アカデミー紀要「Proceedings of the National Academy of Sciences USA: PNAS(11月20日号)」で発表されます。

 

1.背景

 ヒトの体は、60兆個にも及ぶ種々の細胞によって構成されています。それぞれの細胞は、"同じ体を作る仲間"と互いに認識しあう必要があります。この認識は、神経系や免疫系のように細胞どうしが複雑なネットワークを作るシステムでは、ことのほか重要です。この認識をつかさどる物質として細胞膜表面の糖鎖が注目されています。糖鎖はゴルジ装置※2と呼ばれる細胞内小器官で作られます。例えば細胞膜上のタンパク質は、ゴルジ装置を通過するときに糖鎖が付加され、その後に細胞膜に運ばれます。この糖鎖の付加を行うのが糖転移酵素です。その中のひとつである"シアル酸転移酵素※3"は、糖鎖の末端にシアル酸という糖を付加します。付加された糖鎖上のシアル酸は、細胞膜に運ばれ、情報分子として働いており、抗体を作る細胞(Bリンパ球)では、シアル酸転移酵素の働きが大切であることが知られています。糖転移酵素は、ゴルジ装置の膜に埋め込まれて存在していますが、興味深いことにシアル酸転移酵素など一部の糖転移酵素は、ゴルジ装置の膜からタンパク質分解酵素によって積極的に切り出され、細胞外に活発に分泌されています。糖転移酵素を切り出してしまえば糖鎖の合成を停止できるため、この反応は糖鎖合成の重要な調節機構と考えられています。しかしながら、この切断と分泌にかかわるタンパク質分解酵素の本体はまったく不明でした。
 一方、アルツハイマー病を引き起こす原因物質と考えられるAβは、アミロイド前駆体タンパク質(APP)が2種類の酵素により2カ所で切断されて生じます。そこで、この酵素の切断作用を抑えることによりAβの生産を低下させ、アルツハイマー病を治療する方法が考えられています。しかし、このうち一方の酵素(γセクレターゼ)は、神経の分化に重要な働きをしていることが知られており、この作用を抑えてしまうと極めて重い副作用が引き起こされると予想されます。それに対して、もう一方の酵素であるBACE1(βセクレターゼ)に関しては、生理的な作用が知られておらず、薬物によって作用を抑えても副作用は出ないと考えられていました。よって、BACE1の阻害剤は現在もっとも有効なアルツハイマー治療薬になると期待されています。

 

2.研究手法

 研究チームの北爪(川口)しのぶ研究員は、シアル酸転移酵素をモデルとしてその切断・分泌にかかわるタンパク質分解酵素の性質を研究していました。その結果、シアル酸転移酵素を切断するタンパク質分解酵素は、"N-末端から40番目のアミノ酸(リジン残基)と41番目のアミノ酸(グルタミン酸残基)の間を切断すること"、"切断部位付近のアミノ酸を遺伝子工学的に置き換えると切断の効率が著しく低下すること"がわかりました。さらに、脳科学総合研究センターの西道チームリーダーは、アルツハイマー病研究の観点から、この切断がBACE1による切断の特徴を示していることを指摘しました。そこでBACE1がシアル酸転移酵素を切断するか否かを調べるために、BACE1とシアル酸転移酵素の遺伝子を培養細胞のゴルジ装置中で同時に発現させました。BACE1がこの切断をする場合には、シアル酸転移酵素がゴルジ装置から切り出され細胞外への分泌が増加するはずです。また、BACE1とシアル酸転移酵素のそれぞれを遺伝子工学的に作成し、試験管の中で切断反応が起こるか否かも同時に調べました。

 

3.研究成果

 BACE1とシアル酸転移酵素を培養細胞のゴルジ装置中で同時に発現させた結果、シアル転移酵素がゴルジ装置から切り出され、細胞外へ分泌される量が著しく増加しました。これは、ゴルジ装置内でBACE1がシアル酸転移酵素の切断に深く関わっている事を意味しています。また、試験管内で、精製されたシアル酸転移酵素とBACE1を作用させると、期待通りにシアル酸転移酵素が切断されることが分かりました。これらの結果からBACE1は、確かにシアル酸転移酵素を切断しているとの結論に達しました。すなわち従来BACE1は、Aβの産生という病的作用しか知られていませんでしたが、生理的な作用としてシアル酸転移酵素の切断を行っていることを世界で初めて示したことになります。また、この切断が起こると、シアル酸の転移が行われず、細胞のシアル酸を含む糖鎖が減少することも示されました。
 以前から抗体を作る細胞(Bリンパ球)では、シアル酸が適当量存在していることが重要であり、その量をコントロールするためにシアル酸転移酵素の働きが大切であることが知られていました。シアル酸転移酵素がゴルジ装置内にあるときにだけシアル酸は、糖タンパク質に付加され、BACE1によって切り出され細胞外へ分泌されるとシアル酸は付加されなくなります。言い換えれば、BACE1がスイッチの役割(付加するか否か)を果たし、シアル転移酵素によるシアル酸の付加量をコントロールしていると考えられます。
 さらに、遺伝子工学的にBACE1の作用を失わせたマウスでは血液中の抗体量が異常になることが知られていましたが、その原因は不明でした。本研究により、BACE1の作用を抑えると抗体が正常に作れなくなるのは、シアル酸転移酵素の切断が低下するためであると考えられます。またこの事実は、アルツハイマー病治療のためにBACE1の働きを抑えすぎると抗体が正常に作られなくなり、重篤な感染症を引き起こす可能性があることを示しています。あらかじめ感染症に対する対策を立てることで、この副作用を未然に防げると考えています。

 

4.今後の展開

 ゴルジ装置には、シアル酸転移酵素以外にも多数の糖転移酵素が存在しており、シアル酸転移酵素と同様に活発に切断・分泌を受けているものがあります。これらの糖転移酵素はBACE1の基質となる可能性が高く、高次機能に関わるさまざまな糖鎖がBACE1阻害剤の影響を受けることが考えられます。アルツハイマー病治療の対象が脳という高次の精神・神経作用を司る臓器であることを考えると、ヒトでの副作用は、慎重に検討しなければなりません。BACE1の生理作用をきちんと調べて、起こりうる副作用をあらかじめ予想することが大変重要です。本研究は、その対策に有効で重要な知見を与えてくれる成果として注目されています。

 


(問い合わせ先)
理化学研究所

フロンティ研究システム 糖鎖機能研究チーム

チームリーダー
橋本 康弘
TEL: 048-467-9613 FAX: 048-462-4690

脳科学総合研究センター 神経蛋白制御研究チーム

チームリーダー
西道 隆臣
TEL: 048-467-9715 FAX: 048-467-9716

フロンティア研究推進部 山田 鏡司
TEL: 048-467-9594 FAX: 048-465-8048
(報道担当)

広報室 嶋田 庸嗣
TEL: 048-467-9272 FAX: 048-462-4715


補足説明

※1 糖鎖
糖鎖は、細胞社会における"細胞の顔"にしばしば例えられる。すなわち、糖鎖は細胞膜の表面に存在し、それぞれの細胞に特徴的な構造を外界に示すことで、どんな細胞が存在しているかを周囲の細胞に伝えている。この糖鎖を目印に使って白血球が細菌感染の場に移動したり、神経ネットワークの形成に糖鎖が働いていることが示されている。

※2 ゴルジ装置
ゴルジ装置は、扁平な袋状の構造がいくつも積み重なった形をした細胞内小器官。袋の内側には数十種類の糖転移酵素が存在している。ゴルジ装置の中を輸送されるタンパク質はこれらの糖転移酵素によって糖鎖が付加される。このように糖鎖を付加されたタンパク質を糖タンパクと呼ぶが、体を作っているほとんどのタンパク質が糖タンパク質である。

※3 シアル酸転移酵素
ゴルジ装置に存在する糖転移酵素のひとつ。糖鎖の末端にシアル酸を付加する反応を行う。B細胞では、シアル酸転移酵素の作用により、適当量のシアル酸が糖鎖の末端に付加されることが正常の抗体生産には必要である。

 



βアミロイド(Aβ)の産生




細胞の膜表面に存在する糖鎖




糖鎖はゴルジ装置で作られる




BACE1はシアル酸転移酵素を切断する