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理化学研究所(小林俊一理事長)は、脳の食欲をつかさどる情報伝達にはムスカリン性受容体が必須であることを世界で初めて発見しました。理研脳科学総合研究センター(伊藤正男所長)細胞培養技術開発チームの山田真久研究員と、米国・国立衛生研究所のユーグン・ウェス博士らの共同研究グループによる研究成果です。
本研究では、人工的に脳の重要な神経伝達物質であるアセチルコリンの受容体(ムスカリン性受容体)の一つを欠損させたマウスを製作したところ、特異的に体脂肪が少ないマウスができました。体脂肪の減少は、食事量の変化にともなうもので、皮下脂肪細胞などの末梢組織から脳に送られる「もっと食べたい」という情報が、食欲を調整する視床下部で遮断されたためと考えられます。
この発見は、アセチルコリンが記憶や情動といった脳高次機能以外に、脂肪の蓄積と食欲をコントロールしていることを示すとともに、拒食症の発症機構の解明に新たな知見を与えるものです。さらに、ムスカリン性受容体に特異的な拮抗(きっこう)薬※1の開発は、過食症の治療薬の開発につながる可能性も秘めています。
本研究成果の詳細は、英国の科学雑誌「nature」3月8日号で発表されます。
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1.背景
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マウスの脳視床下部の食欲を制御する領域は、複雑な神経回路を構成しており、体温や摂食など生命維持に重要な機能を果たしています。食欲は、末梢組織から血流にのって脳視床下部にもたらされる糖やインスリン、そしてレプチン(脂肪細胞由来因子)によってコントロールされており、視床下部からは、脳神経伝達物質によって“食欲の情報”が受け渡されていることが分かってきました。この神経回路の一つであるアセチルコリン性神経伝達経路は、中枢および末梢神経系ともに主要な生理的機能を担っています。この化学物質の情報を伝達している受容体には、イオンチャンネル型のニコチン性アセチルコリン受容体と、G
タンパク質共役型のムスカリン性アセチルコリン受容体があります。
ムスカリン性受容体遺伝子は、1980年代中ごろにクローニングされ、神経科学の分野において分子生物学的な解析が早くから行われていました。ムスカリン性受容体には、5種類の異なったサブタイプ(M1−M5)※2が存在し、いずれのサブタイプも脳内で発現していることが知られています。さらに、膨大な薬理学的解析から、すべての生理学的機能も解明されたと考えられていました。しかしながら、特定のサブタイプに選択性を示す拮抗薬がいくつか知られていますが、特異性は絶対的ではなく、高濃度では選択制がなくなってしまうという問題があり、サブタイプの特異的な機能は依然として不明でした。
そこで、脳科学総合研究センターの培養技術開発チーム(小川正晴チームリーダー)の山田真久研究員と、米国・国立衛生研究所の宮川剛、ユーグン・ウェス両博士らの共同研究チームは、ムスカリン性受容体遺伝子おのおののサブタイプに対する遺伝子欠損マウスを作製し、サブタイプの特異的な生理機能を解析しました。
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2.研究手法
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本研究では、サブタイプごとにムスカリン性受容体遺伝子をクローニングし、ノックアウトベクターを作製し、それぞれのムスカリン性受容体遺伝子を欠損したマウスを作製しました。その中でも、ほかのマウスに比べ体重が特異的に少ない、M3ムスカリン性受容体を欠損したマウスを研究のターゲットとし、体重減少の原因をさまざまな角度から検討しました。
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1)
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“体長”、“体重”、“脂肪組織の重量”、“摂餌量”の測定
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2)
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M3ムスカリン性受容体遺伝子欠損マウスが健康体であるか、否かを調べるため、血液中のさまざまな成分の検討
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3)
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末梢機能テスト(だ液分布、腸管の蠕(ぜん)動運動※3などの機能、代謝機能)の実施
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4)
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高次機能である記憶学習テスト(ムスカリン性受容体は脳高次機能に重要であると考えられているため)の実施
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5)
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レプチン情報の下流に位置する視床下部由来の神経伝達回路網において、どの神経回路が不活化されているか調べるため、食欲を刺激する神経伝達物質の投与
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3.研究成果
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M3ムスカリン性受容体遺伝子欠損マウスは、ほかのムスカリン性受容体サブタイプ遺伝子欠損マウスにみられない特徴として、摂食量の減少(約25%の食事量の減少)による体重の減少(約23%の体重減少)が認められました。さらに、成熟したマウスと体長は同じにもかかわらず、体重が少ないため、雄の睾丸の上部にある脂肪組織の固まり(epididimal
fat
pat)の重量を測定しました。すると脂肪組織の減少は50−60%にもなりました。
血液検査の結果からは、血中トリグリセライドとレプチンが有為に減少していました。トリグリセライドとレプチンは、脂肪組織の成分であることから、脂肪組織の減少が原因と考えられます。レプチンの減少は、「お腹が減っている」という末梢からの情報であるにもかかわらず、食欲がありませんでした。また、この遺伝子欠損マウスは、末梢機能において体重の減少と結びつく顕著な特徴は見いだせず、記憶や運動能力などの脳の高次機能の面においても特別な異常はありませんでした。こうしたことは、M3ムスカリン性受容体遺伝子欠損マウスの中枢神経系において、食欲の情報が遮断されていることを疑わせる決め手となりました。
さらに、レプチンの下流に位置し、食欲をコントロールする神経伝達物質(agouti-related
pedtide[AGRP]、melanin-concentrating
hormone[MCH]、orexin)を投与したところ、正常マウスではすべての神経伝達物質に反応して食事をしました。しかし、M3ムスカリン性受容体遺伝子欠損マウスではAGRPにはまったく反応しない一方、AGRP以降の下流に位置する神経伝達物質であるMCH、orexinには、正常マウスと同様に反応し、食事をしました。
このことから、AGRP受容体が発現しているMCH神経細胞、またorexin神経細胞での情報の遮断が推測されます。そこで、MCHやorexin遺伝子欠損マウスの解析からMCHが摂餌機能の中心的な役割を演じていることが明らかになっているため、M3ムスカリン性受容体遺伝子欠損マウスとMCH遺伝子欠損マウスの表現型※4を比較しました。その結果、表現型が酷似していることから、M3ムスカリン性受容体欠損マウスでは、MCH神経細胞の機能不全が示唆されます。
このMCH神経細胞の周辺には、神経伝達物質アセチルコリンを放出する神経細胞の軸索末端があることが、最近の解剖学的研究で知られています。本研究では、MCH神経細胞がM3ムスカリン性受容体タンパク質を発現していることを突き止めており、はじめてM3ムスカリン性受容体タンパク質が食欲の調節を行っていることが明らかになりました。
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4.今後への期待
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本研究から、拒食症の発症機構に中枢のアセチルコリン作動性神経系が関与していることを示す結果が得られました。拒食症の主な発症原因としては心理的な要因が挙げられますが、特効的治療薬はなく、おもに精神療法を用いた治療が行われています。この摂餌障害の生理的な発症原因を考えるうえで、本研究成果は新たに重要な知見を示すものです。また、これまで神経中枢におけるアセチルコリンの研究は、アルツハイマー病やパーキンソン病を中心に進められておりましたが、摂餌機能と関連する研究はほとんどありませんでした。今後、M3ムスカリン性受容体のみに効く機能阻害薬の開発が、過食症治療薬の新たな方向性を示していくものと考えられます。
従来、ムスカリン性受容体サブタイプは、受容体タンパク質が非常に酷似しているため、それぞれのサブタイプに働きかける機能阻害薬開発が困難でした。受容体サブタイプの働きを遺伝子レベルで解析することにより、本研究チームではターゲットとなる受容体サブタイプの生体機構をさらに明らかにすることを可能にしました。このような遺伝学的アプローチは、目的に効く新薬の効率的な開発を促すとともに、今後、さらに重要性が増すものと考えられます。
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(問い合わせ先)
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理化学研究所
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脳科学総合研究センター 細胞培養技術開発チーム
BSI研究員・理学博士 山田 真久
TEL:048-467-5594 FAX:048-467-5496
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脳科学総合研究センター
脳科学研究推進部 田中 朗彦
TEL:048-467-9596 FAX:048-462-4914
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(報道担当)
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広報室
嶋田 庸嗣
TEL:048-467-9272 FAX:048-462-4715
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※1 拮抗(きっこう)薬
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ある物質の作用を他の物質を用いて弱める働きを拮抗作用と呼び、ムスカリン性受容体に結合し、この発表ではアセチルコリンによるムスカリン性受容体の働きを遮断する薬品のことを示している。
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※2 ムスカリン性受容体のサブタイプ
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現在、アデニル酸シクラーゼの抑制、カリウムイオンチャネルの活性、ホスフォリパーゼの活性とそれによるIP3(イノシトール3−リン酸)とDAG(ジアシルグリセロール)の生成など、それぞれのサブタイプが相互に関連しながら多様な働きを示しており、現在、解明が進められている。
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※3 蠕(ぜん)動運動
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消化管が摂取した食物を食道から肛門へ運ぶ運動のこと。
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※4 表現型
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生物の外見に現れた形態的・生理的な性質のこと。生物個体の特性を決定する遺伝子構成の型をあらわす「遺伝子型」に対応する語。
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図1 神経伝達物質アセチルコリン受容体の活動パターン

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図2 M3ムスカリン性受容体遺伝子欠損マウス
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2ヶ月の対照マウス(左)とM3ムスカリン性受容体遺伝子欠損マウス(右)毛並みなどは対照マウスと変わらないが、摂餌量の減少による脂肪組織による脂肪組織に顕著な減少が認められる。
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※脂肪細胞から分泌されるレプチンは、食欲を抑制する。

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※
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絶食状態の脳内では、食物摂取を促すように神経伝達物質が変動する。
しかし、ノックアウトマウスでは情報が遮断されていることが示された。
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図3 脳視床下部における摂餌機能回路の概略図
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脂肪細胞から分泌されるペプチドホルモンであるレプチンは、血流にのり脳視床下部に到達し、視床下部弓状核(arcurate
nucleus:ARC)に存在するレプチン受容体に結合する。その結果、メラノコルチン(αMSH)の合成と分泌を促進します。このメラノコルチンは、AGRP(agouti-related
pedtide)と標的受容体において拮抗し、MCH(melanin-concentrating
hormone)の合成や放出を抑えて摂食を抑制します。
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白のカラム:対照マウス
黒のカラム:M3ムスカリン性受容体遺伝子欠損マウス
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※
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AGRP83-132:アミノ酸残基83から132番までの合成AGRP
oexin-A:orexinにはAとBの2種類のホモログが存在する
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図4
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食欲を促進する神経伝達物質を脳内に投与したときのノックアウトマウスの摂餌行動
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図3に示した神経回路の断線がMCHニューロンで確かに起こっていることを機能的に解析した。対照マウスでは、AGRP、MCHそしてorexinの脳室投与によって餌を食べる行動を示した。一方、M3ムスカリン性受容体遺伝子欠損マウスでは、AGRPにまったく反応を示さず、餌に近寄る行動も示していない。しかし、神経回路の下流に位置するorexinやMCHには、対照と同じように反応し、餌を摂取しました。この実験結果から、MCHニューロン機能不全が示された。
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