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理化学研究所(小林俊一理事長)は、新潟大学脳研究所(辻省次所長)と共同でモルヒネの鎮痛効果に大きな影響を持つ遺伝子領域を新たに発見しました。理研脳科学総合研究センター(伊藤正男所長)情動機構研究チームの池田和隆研究員(現・非常勤研究員、財団法人
東京都医学研究機構 東京精神医学研究所
主任研究員)らの研究グループによる研究成果です。
本研究では、遺伝子の非翻訳領域と呼ばれ、その働きがよく分かっていない領域に違いがあることによって、モルヒネの鎮痛効果に大きな違いが生じることを見いだしました。この遺伝子配列の違いが、神経伝達物質受容体の一つである「ミューオピオイド受容体」の遺伝子非翻訳領域に存在することを世界で初めて突き止めました。さらに、この遺伝子配列の違いと、脳内におけるこの受容体の量とが関連していることも明らかにしました。今回の発見は、鎮痛などの脳の働きにおける個人差が、非翻訳領域の違いによって生じる可能性を示すもので、今後、鎮痛剤のオーダーメード処方の確立に道を拓くものと期待されます。
本研究成果は、平成13年2月15日に発行される米国の学術専門誌「The
Journal of Neuroscience」に掲載されます。
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1.背景
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遺伝子(DNA)の情報は、RNAに転写され(メッセンジャーRNA:mRNA)、そのmRNAの情報に従ってタンパク質が合成されます(図1:分子生物学のセントラルドグマ)。mRNAには、タンパク質のアミノ酸配列情報をコードする部分(翻訳領域)と、コードしない部分(非翻訳領域)とがあり、今まで非翻訳領域の役割はほとんど不明でした。
一方、モルヒネは、強い鎮痛効果を持ち、現在でも手術後や、がんのターミナルケアなどの疼痛に対する治療に広く用いられています。しかし、痛みを取り除くだけでなく、多幸感を発現させることから依存、中毒を引き起こすことが知られており、大量投与では呼吸抑制による死亡の危険性もあります。さらに、モルヒネの鎮痛効果は個人差が大きいため、患者個人ごとに適量を処方することが難しいことが知られています。従来の研究によりモルヒネの脳内標的がミューオピオイド受容体(図2)であることは明らかでしたが、この受容体のタンパク質構造の個人差はほとんどないため、なぜモルヒネ鎮痛効果に個人差があるのかは不明でした。
理研脳科学総合研究センターの情動機構研究チーム(二木宏明チームリーダー)の池田和隆研究員らは、モルヒネ鎮痛効果が減弱したマウス系統であるCXBKマウス(図3)に着目し、鎮痛効果が減弱する遺伝的メカニズムを検討しました。
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2.手法と成果
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1)手法
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CXBKマウスのミューオピオイド受容体mRNAの塩基配列をPCR法(複製連鎖反応法)*1を用いて検討しました。ミュー、デルタ、カッパオピオイド受容体のmRNA長と発現量は、ノーザンブロッティング法*2を用いて解析しました。さらに、CXBKマウスを正常マウス(C57BL/6)と交配し、その子供同士を交配させることで、CXBKマウス由来のミューオピオイド受容体遺伝子を0、1、2個有するマウスを同腹で準備しました。これらのマウスに対して分子生物学的解析および鎮痛効果テストなどの行動薬理解析を行っています。
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2)成果
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CXBKマウスのミューオピオイド受容体mRNAは、正常なタンパク質をコードしていました。しかし、CXBKマウスでは、ミューオピオイド受容体のmRNAの長さが約2500塩基分長いことが明らかになり、このマウスのミューオピオイド受容体mRNAの非翻訳領域に違いがあることがわかりました。デルタ、カッパオピオイド受容体に関しては、mRNA
長の違いは認められませんでした。また、CXBKマウスにおけるミューオピオイド受容体mRNAの脳内量は、正常マウスの脳内量の約60%に減少しています(図4)。
さらに、CXBKマウスのミューオピオイド受容体遺伝子が、このマウスにおける減弱したモルヒネ鎮痛効果の原因であることを生体レベルで検討しました。CXBKマウス由来のミューオピオイド受容体遺伝子を0、1、2個有する同腹マウスを比較したところ、この遺伝子を2個有するマウスでは、CXBKマウスと同様に、ミューオピオイド受容体mRNAの長さが長く、mRNAの脳内量が減少していました。また、CXBKマウス由来のミューオピオイド受容体遺伝子を2個有するマウスでは、正常な遺伝子のみを有する同腹マウスと比べて有意にモルヒネ鎮痛効果が減弱しています(図5)。
mRNAの非翻訳領域は、そのRNAの安定性に影響することが知られています。従って、今回の結果によりCXBKマウスでは、ミューオピオイド受容体mRNA非翻訳領域に違いがあるためにmRNAが不安定で脳内量が減り、ミューオピオイド受容体の脳内量が減少して、モルヒネの鎮痛効果が減弱すると考えられます(図6)。
一般に非翻訳領域は翻訳領域と比べて進化的に塩基配列が保存されていないので、ヒト個人間において多様性があります。今回、ミューオピオイド受容体の非翻訳領域における差異がモルヒネ鎮痛効果に大きく影響することが明らかになったことから、モルヒネ鎮痛効果個人差の遺伝学的原因の一つとしてミューオピオイド受容体mRNA非翻訳領域の多様性があると推測されます。また、ミューオピオイド受容体遺伝子に限らず、非翻訳領域の多様性はタンパク質の脳内量を多様化し、個人個人の多様性を作り出す遺伝子メカニズムである可能性があります(図7)。
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3.今後の展開
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本研究は、遺伝子の非翻訳領域という従来その重要性がほとんど不明であった遺伝子配列がモルヒネ鎮痛効果に大きな影響を与えることをはじめて示したものであり、脳研究だけでなく、遺伝子研究や、薬理研究においても大きなインパクトを与えるものと考えられます。今後、ヒトミューオピオイド受容体遺伝子配列の個人差と、モルヒネ鎮痛との関連を解析することで、患者の遺伝子配列を調べれば、副作用の少ない適切なモルヒネ投与量が計算されるような、オーダーメード医療につながるものと期待されます。また、本研究をきっかけとして、今後いろいろな遺伝子において非翻訳領域の重要性が検討され、個性の遺伝子メカニズムが明らかになると期待されます。
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(問い合わせ先)
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財団法人東京都医学研究機構
東京都精神医学総合研究所 精神薬理研究部門
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主任研究員・医学博士
池田 和隆
TEL:03-3304-5701(EXT:508) FAX:03-3329-8035
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理化学研究所
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脳科学総合研究センター 研究推進部 田中 朗彦
TEL:048-467-9596 FAX:048-462-4914
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(報道担当)
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広報室
嶋田 庸嗣
TEL:048-467-9272 FAX:048-462-4715
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*1 PCR法(複製連鎖反応法)
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生体外で特定の遺伝子領域を繰り返し複製する手法。
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*2 ノーザンブロッティング法
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変性アガロースゲル電気泳動によって分画したRNAをゲルからニトロセルロース膜などに吸着させ、固定する方法。RNAの塩基長と発現量の解析に用いられる。
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図1:分子生物学のセントラルドグマ
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遺伝子はDNAの塩基配列である。この配列には、RNAに転写されるエクソン部(黒ボックス)と転写されないイントロン部(黒線)がある。エクソン部はRNAの塩基配列に転写されてmRNAとなる。mRNAにはタンパク質のアミノ酸配列をコードする翻訳領域(赤ボックス)、非翻訳領域(黒線)、および末端にポリA配列を有する。タンパク質は翻訳領域の情報に従ってアミノ酸が結合されることにより合成される。
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図2:オピオイド受容体の紹介
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オピオイド受容体には、ミュー、デルタ、カッパの3種類があり、これらは、モルヒネが選択的作動薬であることからmのギリシャ文字のミュー、精管で最初に発見されたことからdのギリシャ文字のデルタ、ケトシクラゾシンが選択的作動薬であることからkのギリシャ文字のカッパと、それぞれ名付けられた。全て鎮痛に関与するが、情動面では異なる働きをする。膜7回貫通型の構造で、Gi,o型のGタンパク質と共役している。カリウムチャネルの開口、アデニル酸シクラーゼの抑制、カルシウムチャネルの抑制などにより神経細胞の興奮性を抑える。
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図3:CXBKマウスの紹介
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CXBKマウスは30年ほど前に樹立されたマウスの系統で、モルヒネの鎮痛効果が減弱していることで知られる。図に示すように、モルヒネを投与すると正常なマウスは痛みを感じにくくなり、熱い金属板の上でもおとなしくしているが、CXBKマウスではモルヒネの効果が弱く、すぐに逃げ出そうとジャンプをする。このようなモルヒネ鎮痛の減弱は原因が分かっていなかった。
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図4:CXBKマウスにおける遺伝子配列異常
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左のパネルは、ノーザンブロット解析の結果で、
CXBKマウス(CX)のミューオピオイド受容体mRNAは塩基長が約14,500(矢印)であり、正常マウス(B6)の約12,000(矢尻)と比べて異常に長いことを示している。また、脳内の量が減少していることもわかる。左の数値は塩基長(千塩基長)。右の模式図は、正常マウスとCXBKマウスのミューオピオイド受容体mRNAを示している。
CXBKマウスの非翻訳領域は異常に長い
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図5:鎮痛効果減弱の原因
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CXBKマウス(CX)と正常マウス(B6)を交配し、ヘテロ接合体(He)を得て、そのヘテロ接合体同士を交配することで、
CXBKマウス由来のミューオピオイド受容体を0個(B6m)、1個(
Hem )、2個( CXm )有するマウスを同腹で得た。
CXmマウスはCXBKマウスと同様に異常に長いミューオピオイド受容体mRNAをもち、その脳内量は減少していた。また、モルヒネ投与後に熱い金属板上に載せると、CXmマウスはジャンプするまでの時間が短く、モルヒネの鎮痛効果が減弱していた。従って、
CXBKマウスのミューオピオイド受容体遺伝子がこの受容体量の減少とモルヒネ鎮痛効果の減弱を引き起こすと言える。
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図6:CXBKマウスにおいて鎮痛効果が減弱するメカニズム
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CXBKマウスのミューオピオイド受容体mRNAは、非翻訳領域が異常であるため不安定となり脳内量が少ない。従って受容体の脳内量も少なく、鎮痛の指令が十分に伝わらないため、不十分な鎮痛しか起こらないと考えられる。Mor;モルヒネ
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図7:モルヒネ鎮痛効果個人差の遺伝子メカニズムに関する仮説
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非翻訳領域の塩基配列は、進化的にあまり保存されていないので、ミューオピオイド受容体のmRNAの非翻訳領域も個人間で多様であると考えられる。また、非翻訳領域は、RNAの安定性に大きく影響するので、RNA量に個人差が生じると考えられる。RNA量の大小はミューオピオイド受容体タンパク質量の大小に対応するので、タンパク質量にも個人差が生じ、最終的にモルヒネの効果に個人差が生じる可能性が考えられる。
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