Press Release

  理化学研究所
平成12年8月11日

体性感覚野の正常な発達にはNMDA型グルタミン酸受容体の機能が必須であることを発見

− 大脳皮質の生後発達の基本メカニズムの一端を解明 −

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 理化学研究所・脳科学総合研究センター(伊藤正男所長)は、マウスの大脳皮質の興奮性神経でのみ目的の遺伝子をノックアウトする技術を開発しました。さらにそれを用いて、大脳皮質の体性感覚野(触覚などの体性感覚が最初に入力される領域)が正常に発達するためには、NMDA型グルタミン酸受容体が重要な働きをすることを明らかにしました。
 マウスの体性感覚野は、人間など哺乳類の大脳皮質発達の基本原理を理解するための重要なモデル系として注目されています。しかし、これまで実験技術上の制約のため、研究が遅れていました。今回、新しい方法が開発され、記憶の獲得など脳の機能において幅広く重要な働きをすることが知られているNMDA型グルタミン酸受容体が、体性感覚野の生後発達にも鍵となることが明らかになりました。この結果は、今回開発された手法とともに、人間を含めた哺乳類の大脳皮質が生後どのように発達するかを、表面的な観察ではなく遺伝子のレベルで理解するための強力な手がかりとなることが期待されます。
 本研究成果は、英国の科学雑誌「Nature」8月17日号で発表されます。


1. 背 景

 高等動物では、生まれたとき脳(特に大脳皮質)は未完成の状態であり、その後外界から様々な刺激を受けることによって、環境に適した形で脳を完成させることができます。『三つ子の魂百まで』という諺もあるように、そうした可塑性に富んでいるのは、子供のある一定の時期だけであり、その時獲得したものは一生持続されます。そうした大脳皮質の生後発達のメカニズムはまだ良くわかっていません。

 近年の分子生物学の進歩は、生命現象を単なる表面的な現象の記述ではなく、分子レベルで根本的に理解することを可能にしつつあります。脳の発達に関しても同様です。遺伝子操作法が進歩しているマウスは、脳発達の分子レベルの理解のために最も適した動物モデルといえます。近年、マウスの体のある特定の領域でのみ遺伝子を不活化(ノックアウト)する技術が開発されてきています。脳科学総合研究センター・行動遺伝学技術開発チーム(糸原重美チームリーダー)の岩里琢治研究員らは、この原理を応用し、マウスの発達期の大脳皮質の興奮性神経で特異的に目的の遺伝子をノックアウトする技術の開発に成功しました。そして、その方法を用いて記憶の獲得など脳機能の様々な局面で鍵となる働きを持つNMDA型グルタミン酸受容体※1(以下「NMDA受容体」という)が、体性感覚野の発達にどのように関わるのかを検討しました。

 

2. 手 法

 まず、Cre組換え酵素(ファージ※2由来の遺伝子組換え酵素)を、Emx1という大脳皮質特異的な遺伝子のプロモーター※3の制御下に発現させることのできる遺伝子操作マウス(Creマウス)を作製しました。詳細な解析により、このマウスは、大脳皮質の興奮性神経特異的に、2個のloxP(Cre組換え酵素によって認識されるファージ由来の塩基配列)で挟まれた遺伝子を切り出す能力を持つことがわかりました。このCreマウスと、NMDA受容体の遺伝子(NMDAR1)が 2個のloxPで挟まれたマウス(loxPマウス)とを交配しました。交配の結果生まれたCreとloxPの両方を持つマウスでは、大脳皮質でのみCre組換え酵素が働いて、loxPで挟まれたNMDAR1遺伝子を切り出し脱落させました。結果として、大脳皮質の興奮性神経特異的なNMDA受容体のノックアウトマウスが得られました(図1)。

 夜行性の動物であるマウスでは、ヒゲが人間の目と同様に外界を認識するために主要な働きを担います。そのため、体性感覚野は大脳皮質の最も大きな領域を占め、高度に発達しています。マウス体性感覚野では、神経細胞はどのヒゲからの刺激を受けるかによってグループを作り、グループ毎に明確に分離したそれぞれ樽のような形に集合します(バレル: barrel)。その結果、一本のヒゲと一個のバレルを形成する神経細胞群とは一対一の対応をすることができる(図2)。このことは、体性感覚の正常な情報処理のために重要と考えられます。こうしたバレルは、生後一週間にヒゲから受ける入力のパターン(ヒゲの本数など)に応じて形成され、それを過ぎてから、ヒゲを抜くなどの処置をしてもバレルは変化しません。今回の研究では、開発した大脳皮質興奮神経特異的NMDA受容体ノックアウトマウスを用いて、バレル形成を大脳皮質発達のモデルとして解析しました。

 

3. 成 果

1)

 Cre組換え酵素とloxP配列を用いて遺伝子をノックアウトする手法(Cre/loxP システム)を応用し、大脳皮質の興奮性神経特異的に遺伝子をノックアウトするシステムの構築に成功。さらに、このシステムを用いてNMDA受容体を、大脳皮質の興奮性神経細胞特異的にノックアウトしたマウスの開発に成功しました。

2)

 体性感覚野に注目して解析したところ、このマウスでは、大人になっても、体性感覚野にバレルが形成されず幼児の状態のまま止まっていることがわかりました(図3)。このことから、体性感覚野の生後発達には、NMDA受容体を介した入力が必要なことが初めて明らかになりました。

 これまでに、従来の遺伝子ノックアウト法によって、マウスの全身でNMDA受容体をノックアウトする研究はありました。その場合、大脳皮質以外でも遺伝子がノックアウトされるため、その間接的な影響によって、皮質での遺伝子の働きが隠れてしまいます。今回、大脳皮質に限定して遺伝子をノックアウトすること(領域特異的ノックアウト)に成功したことで、大脳皮質でのNMDA受容体の働きが初めて明らかになりました。

 

4. 今後への期待

 NMDA型グルタミン酸受容体は、中枢神経系のシナプスにひろく分布し、記憶の獲得など脳の多くの機能で中心的な働きをすることが知られている分子です。今回、それの体性感覚野の発達における働きが分かったことは、今後、大脳皮質の生後発達をさらに解明するための強力な手がかりとなります。さらに、高度な遺伝学的手法を容易に用いることが可能な点で、マウスはそのための最適な動物モデルといえますが、今回開発された方法は、マウスの大脳皮質の生後発達の機構を調べるための貴重な手法を提供します。

 人間とマウスの脳は、基本的な機構は共通と考えられますので、マウスの体性感覚野の発達を深く理解することは、人間の赤ん坊や幼児が、外界からの刺激を受けて脳を発達させていくとき、脳の中で何が起きているのかを単なる表面的な観察ではなく、どのような遺伝子がどのように働くかという根本的なレベルで理解することにつながると期待されます。



 

(※1)NMDA型グルタミン酸受容体 (N-methyl-D-aspartate receptor)

中枢神経系では、グルタミン酸が主要な興奮性神経伝達物質である。その受容体の一つであるNMDA型グルタミン酸受容体は、記憶の形成など様々な脳の機能に中心的な働きをする。

(※2)ファージ

大腸菌などの細菌に感染するウィルスをファージという。P1というファージはCreという遺伝子組換え酵素とloxPというCreに認識される塩基配列を用いて大腸菌の染色体に入り込んだり抜け出たりする。

(※3)プロモーター

遺伝子を発現させる機能を持つ塩基配列。プロモーターがないと遺伝子は発現しない。


(問い合わせ先)    

理化学研究所 脳科学総合研究センター(BSI)
 行動遺伝学技術開発チーム
  岩里琢治(BSI研究員、理学博士)
  TEL:048-462-1111(内線7712)

(報道担当)

広報室 嶋田 庸嗣
TEL:048-467-9271 FAX:048-462-4715



 

(図1-1の説明)Cre/loxPシステムによる大脳皮質特異的NMDAR1ノックアウト

 NMDA受容体の遺伝子であるNMDAR1を2個のloxP配列で挟んだマウス(loxPマウス)とCre組み換え酵素の遺伝子をEmx1プロモーター(大脳皮質特異的プロモーターの一つ)の下流に配置したマウス(Creマウス)を作製した。loxPマウスは1996年に発表済みのものを利用した。
 これらを交配することによって、両方の遺伝子を持つマウスが作製できる。そのマウスの大脳皮質では、Cre酵素が働いてNMDAR1は切り出されノックアウトされる。一方、大脳皮質以外の領域では、Cre酵素は働かないので、NMDAR1は正常のまま保存される。従って、大脳皮質特異的にNMDA受容体が不活化(ノックアウト)される。原理的には単純だが、脳の領域特異的にCre酵素を働かせることが技術的に困難で、脳での領域特異的ノックアウトの成功例はほとんどない。

 

(図1-2の説明)脳の断面とNMDAR1遺伝子の発現パターン

A:

野生型マウスにおけるNMDAR1遺伝子の発現パターン。ほとんどすべての神経細胞で発現している。

B:

大脳皮質特異的NMDAR1遺伝子ノックアウトマウスにおけるNMDAR1の発現パターン。大脳皮質以外では野生型と同程度の発現があるが、大脳皮質では、NMDAR1遺伝子の発現は大きく減少している。詳細な解析により、このマウスの大脳皮質でNMDAR1遺伝子を発現している細胞は、抑制性の神経細胞であることが分かった。すなわち、このマウスでは、大脳皮質の興奮性神経細胞特異的にNMDAR1遺伝子がノックアウトされている。

(図2の説明)体性感覚野第四層のバレル構造

 マウスなどげっ歯類の大脳皮質体性感覚野第四層(大脳皮質は六層構造を取るが、第四層には脳幹、視床を経由したヒゲからの情報が最初に入力される)の神経細胞は、どのヒゲからの入力を受けるかによってグループに別れ、それぞれ樽(バレル)のような構造を形成する。皮質に入力する視床からの軸索は第四層で枝別れし、バレルの内部を満たし、第四層の神経細胞の樹状突起とシナプスを形成する。したがって一本のヒゲからの刺激が直接伝わるのは、一個のバレルを形成する神経細胞のみとなる。バレルは生まれた時にはまだ見られず、生後一週間のヒゲからの入力のパターンにしたがって形成される。その後、ヒゲのパターンが変化してもバレルは変化しない。こうした特徴から、バレルは(人間を含めた)哺乳類の大脳皮質の生後発達のモデルシステムとして注目されている。

 

(図3の説明)バレル構造の写真

A:

生後7日の正常マウスの大脳皮質体性感覚野第四層 ─ バレル構造が発達している。

B:

大脳皮質興奮神経特異的にNMDA受容体をノックアウトしたマウスの同部分(生後7日) ─ バレル構造が発達していない。