脳の発達には抑制性の刺激が不可欠であることを発見

Press Release

理化学研究所
平成12年3月7日

脳の発達には抑制性の刺激が不可欠であることを発見
−脳も甘やかすと発達しない?−

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  理化学研究所・脳科学総合研究センター(伊藤正男所長)は、マウスの脳の発達時期を司る要因が情報伝達の抑制性であることを初めて発見した。
 マウス大脳皮質の視覚領(両目からの情報を最初に受取る領域)では、生後のある時期に限って視覚刺激により神経回路の再構成が起こる(この時期を臨界期という)が、臨界期を過ぎた後はこの現象は起こらない。しかし今回、情報伝達の抑制性(情報伝達を弱めるように働く機能)を人工的に押さえたマウスでは、薬剤により抑制性の刺激を与えると、大人に成長した後でも視覚刺激による神経回路の発達が起こることが初めて確認された。このことより、神経回路の再構成には抑制性の刺激が不可欠であることが明らかとなった 。この発見は脳の構成原理の解明に新たな知見を与えるとともに、脳の正常な発達手法や、再生・移植した脳組織を正常に機能させることへの可能性も期待される。
本研究の成果の詳細は、Nature誌(英国)3月9日号で発表される。

 

背  景

 

 一般的に大人が外国語を習得するのは難しいが、小さな子供たちはそれほど苦もなく習得することが出来る。このように、若い脳では経験に応じて神経回路の組み換えや再構成を行う能力(「可塑性」という)が高いが、この能力は大人になるにつれて衰えていく。大脳皮質の視覚領(後頭葉にあって両目からの情報を最初に受けとるところ)では、生後のある時期に限って目からの視覚刺激により可塑性が発現し、神経回路が発達して視覚が完成される。この時期を「臨界期」といい、臨界期の前や後では視覚刺激を受けても神経回路の再構成は起こらない。この臨界期が起こるメカニズムや意義についてはこれまで全く分かっていなかった。

 理化学研究所・脳科学総合研究センター・神経回路発達研究チーム(Takao. K. Hensch(タカオ・K・ヘンシュ)チームリーダーら)では、臨界期における可塑性の発現と神経回路の発達に関する研究を行ってきたが、その一環として、神経回路の発達と情報伝達の抑制性(注1)との関係に着目し、研究を行った。

 

手  法

 

 情報伝達の抑制性を押さえたマウス、具体的には抑制性を担う遺伝子を阻害したマウス(ノックアウトマウス)を用いて、視覚刺激による可塑性の発現を指標として臨界期と抑制性との関係をこのノックアウトマウスと通常のマウスについて調べた。

 視覚刺激による可塑性の発現については以下のようにして調べた。
マウスの片目を覆って数日間飼育し、片目を覆う前と後の時点で、左右の目ごとに光刺激(コンピュータ画面上に画像を表示する)を与え、視覚領の各神経細胞がどちらの目からの光刺激に良く応答するかを電気生理学的に測定した。
正常なマウスでは、視覚領の神経細胞は左の目からの光刺激に良く応答するものと右の目からの光刺激に良く応答するものとが一定の割合で存在している。また、臨界期にないマウスでは、片目を覆って飼育する前と後でもこの割合は変化しない。
しかし、臨界期のマウスの片目を覆って飼育すると、覆わなかった目からの視覚刺激により神経細胞に可塑性が発現して神経回路が発達するで、覆わなかった目からの光刺激に良く応答する神経細胞の割合が増加する。従って、片目を覆って飼育した結果、覆わなかった目からの光刺激に良く応答する神経細胞の割合の増加が起これば、臨界期が出現したことになる。

 

成  果

 

1)情報伝達の抑制性を押さえたノックアウトマウスでは、大人に成長するまでの間に可塑性は発現せず、従って臨界期も出現しなかった(図の左側)。しかし、この成長したマウスに、抑制性の刺激を与える薬剤(ジアゼパム:精神安定剤の一種)を投与すると可塑性が発現した(図の右側)。すなわち、成長したマウスに人工的に臨界期を出現させることに成功した。

2)正常なマウスに、臨界期が出現する前の、生まれて間もない時期に同じ薬剤を投与することにより、通常よりも早く臨界期を出現させることが出来た。生まれて間もない時期では、脳内神経回路の抑制性が充分に発達していないこと、及び1)の結果から、可塑性の発現(臨界期の出現)には一定のレベルの抑制性の刺激が不可欠であることが明らかとなった。

3)臨界期を経た正常なマウス及び薬剤により人工的に臨界期を出現させたマウスのどちらも、臨界期を過ぎた後では薬剤を投与しても再び臨界期を出現させることは出来なかった。これより、臨界期は生涯のうち1回しか出現しないということが分かった。

 これらの結果より、マウスの視覚領では神経回路の発達が起こる臨界期の出現には一定のレベルの抑制性の刺激が不可欠であり、また抑制性を操作することにより臨界期の出現時期を変化させることが出来る、ということが初めて示された。

 

今後への期待

 

 本研究の成果は、これまで不明だった臨界期のメカニズムに情報伝達の抑制性という一つの要因を初めて示したものであり、今後の臨界期のメカニズムひいては脳の構成原理の解明の研究に新たな知見を与えるとともに、脳の正常な発達手法や再生・移植した脳組織を正常に機能させることへの可能性も期待される。また、神経回路の発達に、抑制性という、一見反対方向に思える要因が必須であるというのも興味ある点である。さらには、臨界期が生涯のうち1回しか出現しない、ということも臨界期の意義というものを考える上で興味深い。現在、これらに関して引き続き研究を進めている。
また、視覚刺激による神経回路の発達における臨界期の存在は、鳥の刷り込み現象に代表される親子関係といったことにも関わりがあると考えられており、このような方面への貢献も期待される。

 

 

(注1)情報伝達の抑制性

神経細胞には、情報伝達を強める方向に働くもの(興奮性)と弱める方向に働くもの(抑制性)の2種類があり、抑制性の神経細胞は神経回路中の情報伝達に何らかの調節を加えているものと考えられている。脳の中では興奮性の神経細胞が80%、抑制性の神経細胞が20%の割合で存在している。

 

 

  (問い合わせ先)

  理化学研究所 脳科学総合研究センター(BSI)

  神経回路発達研究チーム

  (Takao. K. Hensch(タカオ・K・ヘンシュ)チームリーダー、Ph. D.)

  tel 048-462-1111 内線 7211

 

  (報道担当)

  理化学研究所広報室 吉垣

  tel 048-467-9271、fax 048-462-4715

  WWWページ:

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  Email: koho@postman.riken.go.jp

 

 


図 情報伝達の抑制性を押さえたノックアウトマウスの片目覆い飼育による視覚領神経細胞の可塑性の発現

  

 

 左:成長した大人のノックアウトマウスに薬剤(ジアゼパム)による抑制性の刺激を与えないで、左目を数日間覆って飼育した後のそれぞれの目からの光刺激に対する神経細胞の応答性の分布。少し左目の方に片寄った応答性の分布をしている。なお、覆う前や、さらには正常なマウスの臨界期にない時期に左目を覆って飼育した前後でも同様な分布となる。

 

 右:成長した大人のノックアウトマウスに薬剤(ジアゼパム)による抑制性の刺激を与えて、左目を数日間覆って飼育した後のそれぞれの目からの光刺激に対する神経細胞の応答性の分布。応答性の分布が、覆っていない右目の方に移動しており、視覚刺激により右目からの光刺激に対する神経細胞の可塑性が発現して神経回路が発達したことを示している。なお、正常なマウスの臨界期に左目を覆って飼育した後でも同様な可塑性が発現する。