“未踏の光”と呼ばれていたテラヘルツ光。テラヘルツ光を発生させる光源や検出器の開発が進み今、その応用が注目されている。その利用は、通信や工業、医療、セキュリティー、農業など幅広い分野にわたるとされているが実際、テラヘルツ光で何ができるのだろうか。「テラヘルツ光の応用研究では、日本は世界のトップを走っています」と理研和光研究所 基幹研究所 テラヘルツイメージング研究チームの大谷知行(ちこう)チームリーダー。テラヘルツ光が照らし出す一歩先の世界をのぞいてみよう。
“未踏の光”テラヘルツ光とは
「“テラヘルツ光”あるいは“テラヘルツ波”という言葉を見たり聞いたりすることが増えたと思いませんか」と、大谷知行チームリーダー(TL)。「私がテラヘルツ光の研究を本格的に始めたのは2001年です。当時、テラヘルツ光は“未踏の光”と呼ばれ、まさにフロンティアでした。この研究の先に何があるのだろうと、わくわくしていたことを覚えています。それから12年余り。一歩一歩ですが、確実にフロンティアが切り拓かれてきました」
テラヘルツ光は、なぜ未踏の光と呼ばれていたのだろうか。テラヘルツ光は電磁波の一種である。電磁波は周波数によって分類され、周波数の低い方から電波、赤外線、可視光線、紫外線、X線、ガンマ線と呼ばれている。テラヘルツ光は、周波数が0.1〜100THz(T:テラは1兆=1012)の電磁波で、電波の一部と赤外線の一部に当たる(図1)。
「テラヘルツ光は電波側から見ると周波数(エネルギー)が高過ぎ、光や赤外線の方から見ると周波数が低過ぎます。エレクトロニクスとレーザー技術のはざまにあったテラヘルツ光の発生・検出技術は未開拓のまま取り残されてしまったのです」と大谷TL。「一方でテラヘルツ光は、電波と光の両方の特徴を持っています。つまり、物質をよく透過し、空間分解能が適度に高い。こうした特徴から、工業、医療、農業、天文学など、とても幅広い分野での応用が期待されています。一番身近な応用分野はセキュリティーと通信でしょう」(タイトル図)
携帯電話で使用している電波の周波数は1.5GHzや2GHzだ。周波数が高いほど、たくさんの情報を送ることができる。1THzは1GHzの1000倍に当たるので、単純計算で、テラヘルツ光を使えば現在の携帯電話の1000倍ものデータを送ることができるのだ。「テラヘルツ光は大気中の水蒸気に吸収されやすいため長距離の通信には向きませんが、室内での無線通信には大きな威力を発揮します。小型で省電力のテラヘルツ光発生装置と検出装置の開発が進めば、映画1本のデータを数秒で送る、といったことができるようになるのです」
郵便物検査は実用化の一歩手前
大谷TLが率いるテラヘルツイメージング研究チームは、理研の仙台支所で活動している。「仙台支所では、ほかのチームの研究者も含め40人ほどがテラヘルツ光の研究に取り組んでいます。人と装置がこれほどそろっているところはほかにありません。仙台支所は世界有数のテラヘルツ光の研究拠点です」と大谷TL。「その中で私たちのチームは、究極の感度を持ったテラヘルツ光やミリ波の検出器開発や、テラヘルツ光をどう使うか、その応用について研究を進めています」
研究チームが狙う応用とは? 「そのキーとして私たちが着目しているのは、ソフトマテリアルを対象としたテラヘルツ分光計測です」と大谷TL。ソフトマテリアルとは、プラスチックやナイロンなどの高分子、ゲルやコロイド、タンパク質といった軟らかい物質を指す。物質にテラヘルツ光を照射すると、特定の周波数だけが吸収される。物質を透過してきたテラヘルツ光を周波数ごとに分光し、どの周波数がどのくらい吸収されたかを計測するのが分光計測である。そして、周波数ごとの吸光度を示した図が、吸収スペクトルだ。「テラヘルツ光の吸収スペクトルは物質ごとに異なるので、吸収スペクトルから物質を特定することができます。この技術は、すでに実用化の一歩手前まで来ています」
それが、研究チームが開発した“テラヘルツ光郵便物検査装置”である(タイトル図)。X線でも封筒の中を透視し、紙以外のもの、例えば粉が入っているかどうかを調べることはできる。しかし、その粉が砂糖なのか、違法な薬物なのか、爆発物なのかまでは分からない。一方、テラヘルツ光を使うと、砂糖のラクトース、医薬品のアスピリン、覚醒剤のメタンフェタミン、麻薬のMDMA、爆発物のジニトロトルエンなど、それぞれの吸収スペクトルから物質を識別することができるのだ。
成田空港には1日20万通もの郵便物が届く。すべての郵便物にテラヘルツ光を当て、吸収スペクトルの解析をしていたのでは配送が滞ってしまう。そこで、テラヘルツ光郵便物検査装置は、まずテラヘルツ光の散乱光を利用して粉末が入っている封筒だけを選別し、次に選別した封筒の吸収スペクトルを測定する仕組みにし、税関の現場での試験も実施済みだ。
物性を決める結晶構造が見える

図2 スクロースのテラヘルツ光の吸収スペクトル
左は粉砂糖で、分子が結晶構造になっている。右は綿菓子で、分子がアモルファス構造になっている。テラヘルツ光の吸収スペクトルは、分子内の骨格構造や分子間構造を反映するため、同じ分子式の物質でも構造によって変わる。

図3 生分解性プラスチックのラメラ結晶のテラヘルツ偏光吸収スペクトル
らせん構造に平行な方向の偏向光を入射したとき(0°)に現れる2.4THzと2.9THzの吸収ピークは、分子鎖のらせん構造のばね振動に由来し、らせん構造に垂直な方向の偏向光を入射したとき(90°)に現れる2.5THzの吸収ピークはらせん構造間の水素結合の振動に由来している。
「吸収スペクトルで物質を特定できることは、テラヘルツ光の大きな特徴であり早い時期から注目されていましたが、私たちはもう一歩踏み込んで、物質のさまざまな性質と吸収スペクトルとの関係を調べています」と大谷TL。
図2は左と右どちらも、糖の一種であるスクロースのテラヘルツ光の吸収スペクトルである。同じ物質でありながら、吸収スペクトルはまったく違う。なぜだろうか。左は粉砂糖、右は綿菓子の状態で計測したものである。粉砂糖は、分子が規則正しく並んだ結晶になっている。一方の綿菓子は、分子の並び方に規則性がないアモルファスになっている。「赤外線の吸収スペクトルからも物質を特定できます。それは、赤外線の吸収スペクトルが官能基のような局所的な分子内構造を反映しているからです。一方、テラヘルツ光の吸収スペクトルは、分子内の骨格のような大きな構造や、結晶のような多数の分子にまたがる分子間構造を反映します。つまり、同じ分子式の物質でも構造によってテラヘルツ光の吸収スペクトルは変わるのです。綿菓子を冷まして粉砂糖に戻すと結晶に戻るため、吸収スペクトルも元に戻ります」
研究チームでは、さまざまな物質について温度や結晶状態などを変えたときに吸収スペクトルがどのように変化するかを計測し、構造と吸収スペクトルの関係について調べている。
現在力を入れているテーマの一つがポリマーなどのテラヘルツ分光で、手始めとして生分解性プラスチックの分光を進めている。「生分解性プラスチックは、分子鎖がらせん構造をつくり、らせん構造が水素結合によって規則正しく並んでいるラメラ結晶と、ランダムに絡まっているアモルファスが混在しています。その割合によって耐久性などの物性が変わります。この物質をテストケースとして、構造と吸収スペクトルの関係に迫りたいと考えています」と大谷TL。
生分解性プラスチックについて、らせん構造に平行な方向から垂直な方向に徐々に偏光方向を変えたときに、それぞれのテラヘルツ光の吸収スペクトルを測定した結果が図3だ。らせん構造に平行な方向の偏向光を入射したときには2.4THzと2.9THzに強い吸収が見える。一方、らせん構造に垂直な方向の偏向光を入射すると、2.4THzと2.9THzの吸収が見えなくなり、2.5THzに吸収ピークが現れてくる。「この結果と計算による検証から、2.4THzと2.9THzの吸収ピークは分子鎖のらせん構造がばねのように伸び縮みするような運動、2.5THzの吸収ピークは隣り合うらせん構造の間にある水素結合が伸び縮みするような運動に由来していることが分かってきました。このように分子鎖や結晶構造内の大きくゆっくりとした運動とテラヘルツ光の吸収スペクトルとの関係が明らかになれば、分子の種類ではなく構造に由来する共通のスペクトル形状の発見や利用につながっていくでしょう」
導電性ポリマーの非破壊検査
研究チームでは、導電性ポリマーの非破壊検査にも取り組んでいる。「この研究は、“理化学研究所と産業界との交流会(理研と親しむ会)”で知り合った企業の方から、“テラヘルツ光で導電性ポリマー薄膜の非破壊での品質評価ができませんか”と相談を受けたことから始まりました」と大谷TL。
導電性ポリマーは白川英樹博士(2000年ノーベル化学賞受賞)が発見した物質で、電気を通すプラスチックとして、タッチパネルや携帯電話のリチウムイオン電池の電極など、さまざまな用途で使われている。「導電性ポリマーの最も特徴的な性質は電気伝導率です。しかし、導電性ポリマーの電気伝導率を非破壊で簡単に調べるよい方法がないそうです。企業の方は、ホール効果測定など思い付く方法を片っ端から試したそうですがうまくいかず、テラヘルツ光の分光計測ならできるのではないか、と考えたようです」
導電性ポリマーに電気が流れる機構には、まだまだ分からないことが多い。「導電性ポリマーにおいて、導電率が高い場合と低い場合とでテラヘルツ光の吸収スペクトルに顕著な違いがあることが分かりました。テラヘルツ光が電気伝導機構の解明に役立つのではないかと、詳しい研究を進めているところです」。また、導電性ポリマーはエチレングリコールという薬品を加えると電気伝導率が劇的に高くなることが知られているが、その理由は分かっていない。大谷TLは、エチレングリコールを加えると、テラヘルツ光の吸収スペクトルがどのように変化するかを調べることで、品質改良のヒントが得られるのではないかと考えている。「導電性ポリマーだけでなくナイロンやゲルなど、さまざまな物質について結晶構造と物性の関係を明らかにし、テラヘルツ光を評価や改良に役立てていきたいと思っています」
テラヘルツ光で分子構造を変え、機能を創る
「野望のようなもので、本当にできるかどうか分かりませんが」と前置きして大谷TLは続けた。「物質の機能は分子構造や結晶構造と密接に関わっています。そして、分子構造や結晶構造が変われば、テラヘルツ光の吸収スペクトルが変わります。ならば、特定の周波数のテラヘルツ光を物質に照射すれば、分子構造や結晶構造を意図的に変えられるのではないか。構造を変えることができれば、機能が変わる。つまり、テラヘルツ光を照射することで新しい機能を持つ物質をつくり出せないかと考えています」
例えば、生体分子のタンパク質は形の違いによって機能が変わる。BSE(ウシ海綿状脳症)の原因であるプリオンというタンパク質もそうだ。正常なプリオンは、αヘリックスと呼ばれるらせん状の構造が四つある。異常なプリオンは二つのαヘリックスがほどけてβシートという構造になっている。大谷TLが目指すのは、異常なプリオンにテラヘルツ光を照射すると元の構造に戻る、そんな画期的な技術である。
テラヘルツ光を照射して分子構造を変えるには、強力な光源が必要だ。そこで研究チームは、エアプラズマを利用した新しいテラヘルツ光の光源を立ち上げている。レーザーを空気中に集光すると空気中の分子が電離してプラズマになり、そのプラズマから強力なテラヘルツ光が発生する。この仕組みを利用した光源で、今後、そのテラヘルツ光をさまざまな試料に当て、何が起きるかを調べていきたいと考えている。
宇宙の始まりから来る光を捉える

図4 高性能超伝導検出器アレイ
高性能超伝導検出器は、リソグラフィー技術で微小アンテナが描かれた1000個の素子を並べる。検出器をマイナス273℃の極低温に冷やして雑音をなくすことで、超高感度を実現する。
大谷TLは、文部科学省のプロジェクト“背景放射で拓く宇宙創成の物理”に参画している。「宇宙はビッグバンで始まったといわれています。では、ビッグバンの前には何かあったのか。そんな、誰もが知りたい疑問に答えるプロジェクトです」と大谷TL。ビッグバン以前には、インフレーションと呼ばれる急膨張があったというのが現在最も有力だ。
ビッグバン直後の宇宙は高温高圧で、物質がプラズマ化していたため、光はすぐに散乱されて不透明な状態だった。宇宙誕生から38万年ほどして温度が下がってくると、原子核と電子が再結合して、ようやく宇宙の中を光が直進できるようになった。そのときの光の痕跡が、宇宙背景放射だ。インフレーションがあったならば、膨張の過程で原始重力波が発生し、その揺らぎが宇宙背景放射に残されていると考えられている。「宇宙背景放射はマイクロ波からミリ波の光として観測されます。私たちは、テラヘルツ光検出器技術を活用して究極の感度を持つミリ波超伝導検出器を開発し、宇宙背景放射の偏光パターンを調べます。原始重力波の存在が明らかになれば、インフレーションの決定的な証拠になるだけでなく、この宇宙を支配する根本的な物理法則の解明に迫ることができると考えられています」と大谷TL(図4)。
大谷TLは、テラヘルツ光の研究を始める前は、X線天文学が専門だった。「“宇宙はどうやって始まったのか”という誰もが抱く疑問に、テラヘルツ光の研究から答えられたら、とてもうれしいですね」
今後、どのような展開を考えているのだろうか。「生命科学での応用を広げたい」と大谷TL。生命科学の分野では、目的のタンパク質と結合するタンパク質や分子を選別する技術の開発が課題になっている。現在の主流は、蛍光タンパク質を付けておき、結合したら光るというものだ。「目的のタンパク質に分子が結合したら分子構造が変わるので、テラヘルツ光の吸収スペクトルで簡単に分かるのではないか、と考えて研究を進めている人がいます。私たちも、そのような画期的な応用を実現していきたいですね」
(取材・執筆:鈴木志乃/フォトンクリエイト)


