昨年9月、スーパーコンピュータ「京」の共用が開始され、産業界による利用が進められている(図1)。2011年に計算性能世界1位を2期連続で獲得した「京」は、産業にどのように役立ち、私たちの社会や暮らしに恩恵をもたらすのか。
ダンロップなどのブランド名で事業を展開する住友ゴム工業株式会社(以下、住友ゴム)では、1990年代からスーパーコンピュータを活用したタイヤ開発を進めてきた。さらに2000年代後半、大型放射光施設「SPring-8」とスーパーコンピュータ「地球シミュレータ」を用いて、タイヤの素材であるゴムの構造を解析。そこで得られた成果をもとに「京」によるシミュレーションを行い、革新的な環境性能を持つタイヤを開発して、社会に貢献しようとしている。「京」の産業利用の具体例として、住友ゴムの取り組みを、住友ゴムの中瀬古 広三郎 常務執行役員、岸本浩通(ひろゆき) 主査、理研計算科学研究機構の伊藤 聡コーディネーターに聞いた。
シミュレーションで定量評価を行い、最適化を図る
―タイヤの開発に、なぜスーパーコンピュータが必要なのですか。
中瀬古:自動車の燃費や操作性、安全性、乗り心地などの性能は、路面とタイヤの間で起きる現象に大きく左右されます。その現象には、実験では正しく計測できなかったり、どこで何が起きているのか分からなかったりするものが多いのです。そのような見ることが困難な現象を分析するため、当社では1993年にシミュレーション専門部門を立ち上げ、スーパーコンピュータを導入しました。そしてタイヤが回転しているときに起きる現象をコンピュータ上に再現することを「デジタル・ローリング・シミュレーション」と名付け、研究を進めました。
―どのような現象を分析したのですか。
中瀬古:第1期では、曲がるときや突起を乗り越したときの、接地面やタイヤ内部に働く力や発熱を分析しました。第2期では、雪道やぬかるみなど、さまざまな路面環境でのシミュレーションを行いました。
そして第3期では、タイヤから発生する騒音問題などに取り組みました。高速道路の沿線で聞こえるサーという音は、タイヤから発生するもので、800ヘルツくらいの騒音です。エンジン音を除くと、自動車から出るノイズの最大の発生源はタイヤなのです。
タイヤ表面の溝のデザインによってタイヤから発生するノイズは変わります。さらに溝のデザインは、グリップ(摩擦力)や排水性にも関わります。
ある場所の溝の角度を1度変えたとき、ノイズは減ってもグリップ性能が悪くなる、といったことも起きます。タイヤを開発するには、それぞれの性能を最適化する必要があります。それには、溝の角度を1度変えたとき、ノイズとグリップ性能がそれぞれ何%増減するのか、といった定量的な評価ができなければいけません。
ところが実験では、タイヤの溝のどこから、どのようなノイズが発生するのか、といったことすら正確に計測するのは困難です。現象の本質を捉え、定量的な評価を行って製品開発につなげるには、実験だけでなく、スーパーコンピュータを使ったシミュレーションが必要なのです。
低燃費化とブレーキ性能の向上を両立するゴムを開発する
―タイヤのシミュレーション技術はどこまで発展してきたのですか。
中瀬古:私たちはデジタル・ローリング・シミュレーションを2000年代半ばまで続け、その成果を反映した商品「デジタイヤ」を順次、開発・販売してきました。タイヤの動的性能シミュレーションから始め、最終的には実際に自動車にタイヤを付けて走ったときのさまざまな性能を評価できるまでに発展させました。そして、タイヤの形状設計に役立つシミュレーションを完成させることができました。
時代の要請に応え、さらに性能の向上を図るには、素材のゴムに戻る必要がありました。
―タイヤには今、どのような性能が求められているのですか。
中瀬古:21世紀に入り、地球温暖化への対策から自動車の低燃費化が強く求められるようになりました。低燃費化は、タイヤでいえば、転がるときの抵抗に関係します。運輸部門のエネルギー消費の80%程度が自動車によるものであり、その自動車のエネルギーロスの約20%がタイヤの転がり抵抗によって生じます。
2008年に北海道洞爺湖(とうやこ)で開かれた主要国首脳会議(サミット)では、タイヤの改善で自動車の燃費を5%改善することが目標となりました。そのうち3%をタイヤの転がり抵抗の低減、2%を空気圧点検で実現することが提言されました。
―できるだけ転がりやすいタイヤが求められたのですね。
中瀬古:ただし、ブレーキをかけたときにはすぐに止まる必要があります。特に雨の日のブレーキ(ウエットグリップ)性能は安全性に直結します。
―転がり抵抗の低減とウエットグリップ性能の向上は矛盾するように思えます。
中瀬古:例えば時速80kmで走ると、1秒間にタイヤは10数回転し、そのたびごとに変形します。また、グリップ時にタイヤの表面は路面の凹凸により1秒間に10万回ほど変形します。
転がり抵抗は、10数回転するごとに起こる変形により、運動エネルギーが熱に換わることで発生します。一方、ブレーキ力は、10万回ほどの変形により運動エネルギーが熱に換わることで発生します。
転がり抵抗の低減とウエットグリップ性能の向上を同時に実現するには、比較的遅い変形速度に対しては発熱せずに転がり抵抗が小さくなり、速い変形速度に対しては大きく発熱して強いブレーキ力が発生するゴムが必要です。しかし、ゴム自体の内部構造や機能は分かっていないことが多いのです。
SPring-8の測定データを地球シミュレータで解析
―そもそもタイヤに使われているゴムは、どのような構造なのですか。

図2 タイヤゴムの構造と転がり抵抗
従来のゴムは、タイヤの回転に伴う変形による不要な発熱が多く、転がり抵抗が大きかった(左)。住友ゴムでは、新しい結合剤や、ポリマー両端に変性基を付けることで不要な発熱を抑え、転がり抵抗を低減した(右)。

図3 タイヤゴムにおけるシリカの分散構造
住友ゴムは、SPring-8の計測データを地球シミュレータで解析することで、タイヤゴムにおいて数百μmのスケールでシリカが凝集している構造を、初めて明らかにした。
中瀬古:長い糸のようなポリマーと、ポリマー同士をつなげる架橋剤、そこに補強材として、炭素の微粒子(カーボンブラック)が加えられています。さらに最近では、ウエットグリップ性能を高めるためにシリカ(二酸化ケイ素)も補強材として使われています(図2左)。シリカを加えると、ウエットグリップ性能だけでなく転がり抵抗も小さくなり、低燃費化とウエットグリップの両立が実現できます。
そのシリカが均一に分散するほど、ウエットグリップ性能は向上し、転がり抵抗も低減します。そこでポリマーに結合剤を付けてシリカをつかまえる構造にしています。しかし、シリカが完全に均一分散しているかどうかを判断する手法がなく、実験的に試行錯誤を繰り返していました。
そもそもシリカの3次元的な分布はどうなっているのか。それを見ることが電子顕微鏡などでは困難だったのです。そこで、私たちは理研播磨研究所にある世界最高性能の放射光(X線など)を発生する大型放射光施設「SPring-8」で、ゴムの中のシリカの3次元分布を観察することにしました。それを担当したのが、岸本浩通 主査です。
岸本:シリカは、数個から数十個が集まり凝集体をつくり、それらがさらに集まってより大きなスケールの凝集体をつくるといった階層構造を持ちます。私たちは、SPring-8のX線をゴムに照射して、計測データを得ました。ただし、その計測データからシリカの3次元分布図を得るには、膨大な計算が必要です。そこで2002〜2004年に計算性能世界1位を5期連続で獲得した(独)海洋研究開発機構のスーパーコンピュータ「地球シミュレータ」を用いて解析することにしました。
その地球シミュレータを使った計測データの解析結果をもとに、より詳細に解析することで、シリカが数百nm(ナノメートル、1nm=10億分の1m)のスケールで凝集体をつくっていることを発見しました(図3)。そのスケールのシリカの分散構造が、転がり抵抗やウエットグリップ性能に深く関係していると考えられます。
「京」によりスケールを横断したシミュレーションを行う
―SPring-8と地球シミュレータで得られた成果をどのように製品開発に結び付けたのですか。
中瀬古:私たちは、解明したシリカの分散構造を反映したシミュレーションを自社のスーパーコンピュータで行い、新しいゴムの分子設計を進めました。まず、新しい結合剤でポリマーとシリカをしっかりと結合させることで、シリカ同士が引き離されて、より均一に分散するようにしました。さらに、ポリマーの不要な動きを抑えて発熱を防ぐため、ポリマー両端と中央付近にシリカと結合や相互作用をする変性基を導入しました(図2右)。こうして低燃費化とウエットグリップ性能の向上を同時に実現した低燃費タイヤを開発し、「エナセーブ PREMIUM」という商品名で2012年2月から発売を始めました。
―最近、低燃費タイヤという言葉をよく耳にします。
中瀬古:日本では2010年から、タイヤ業界の自主基準としてラベリング制度が世界に先駆けて始まりました。転がり抵抗はAAA、AA、A、B、Cの5段階、ウエットグリップはa〜dの4段階で評価し、販売するタイヤ1本ごとにラベルに表示しています。転がり抵抗とウエットグリップ性能を統一基準で評価して、両方が一定以上(転がり抵抗がA以上、ウエットグリップ性能がa〜dの範囲内)の性能のものだけを低燃費タイヤと表示できる仕組みです。
欧州でも、転がり抵抗とウエットグリップに、ノイズ性能を加えたラベリング制度が法制化され、2012年から実施が始まりました。米国や中国でも同様の制度が検討されています。
―さらに高い環境性能が求められているのですね。

図4 タイヤゴムのスケール構造
住友ゴムでは、スケールごとのシミュレーションを行い、低燃費タイヤを開発した。さらに「京」によりスケールを横断したシミュレーションを行うことで、革新的な環境性能を持つタイヤを開発しようとしている。
中瀬古:そこで私たちには、「京」の利用がどうしても必要だったのです。「エナセーブ PREMIUM」用のゴムを開発するために、自社のスーパーコンピュータで行ったのは、スケールごとのシミュレーションです(図4)。ポリマーや変性基などの設計には、ナノメートルからオングストローム(Å、1Å=0.1nm=100億分の1m)のスケールで分子同士に働く力を計算する「分子動力学シミュレーション」や反応を予測する「分子軌道法」が必要です。ポリマーや結合剤、シリカの配置は数十nmのスケール、シリカの分散構造は数百〜数nmのスケールです。そしてタイヤの回転に伴う変形は、マイクロメートル(μm)のスケールで起きます。
それぞれのスケールごとのシミュレーションならば、自社のスーパーコンピュータで可能な計算量です。しかし本当に起きている現象を再現するには、各スケールを連結したシミュレーションが必須です。しかしそれは、自社のスーパーコンピュータや地球シミュレータでも困難な膨大な計算量になります。その膨大な計算は「京」でなければできません。
私たちがSPring-8と地球シミュレータでシリカの分散構造を解明したころ、「京」の開発が始まろうとしていました。そのころから、共用開始を待ち望んでいました。「京」によるシミュレーションでゴムの分子設計を行わなければ、私たちはトップランナーとして走り続けることができません。
「京」による材料開発と創薬
―「京」をどのように産業界に活用してもらう計画ですか。
伊藤:「京」の利用枠全体のうち、約30%が一般利用枠です。その中に産業利用枠があり、「京」利用全体の約5%を占めています。一般利用枠で「京」を利用するには、(財)高度情報科学技術研究機構(RIST)へ課題申請をしていただき、それを委員会で評価して選定する仕組みです。その評価・選定において、大学などから申請される課題と同じ科学的な価値基準で選定すると、産業界からの申請が落とされてしまう恐れがあります。産業界で解決すべき課題は、必ずしも科学的な価値が高いとは限らないからです。そこで異なる価値基準で選定する産業利用枠を設けたのです。
2012年、第1回目の募集(2012年9月末〜2014年3月末の利用期間)が行われ、産業利用枠に31件の応募があり、25件が選定されました(図1)。そのうちの1件が、岸本主査を研究責任者とする住友ゴムからのものです。それ以外にもタイヤメーカーからの応募が2件選定されています。タイヤ以外にも材料開発に関する課題申請が数多くありました。新しい材料の開発は産業全体にとって大変重要なテーマです。しかし、その開発に必要なシミュレーションは大学や公的研究機関の研究ではカバーし切れていないため、応募が多数あったのだと推測しています。
また、創薬に関する課題申請も多数ありました。その中には、製薬メーカー7社が共同で申請した課題も選定されました。「京」を使って薬の候補となる化合物を探すのです。そのような共同研究は、製薬業界では初めてのものです。
「京」をフル活用するソフトウエア開発
―住友ゴムでは、いつごろから「京」を用いたシミュレーションを本格的に開始する予定ですか。

「京」コンピュータ
1秒間に1京回(1兆の1万倍)、10ペタフロップスの速度で計算する性能を持つ。

左から、住友ゴム工業株式会社の岸本浩通 主査、中瀬古広三郎 常務執行役員、理研計算科学研究機構の伊藤 聡コーディネーター。
岸本:「京」は計算の基本単位であるプロセッサを約70万コアも搭載しています。その膨大な数のプロセッサをうまく使いこなすことで、高速に計算することができます。そこで重要なのが、各プロセッサコアに計算を命令するソフトウエアです。2012年から「京」の性能を最大限に引き出せるようにソフトウエアの調整を進めています。そしていよいよ今年初めから、大規模計算によるシミュレーションを開始する計画です。そこでどんな問題が発生してくるのかまだ分かりませんが、それを一つずつ克服していく必要があります。
中瀬古:私たちは「京」を使って新しいゴムの分子設計に役立つ成果を挙げるとともに、「京」のような最先端のスーパーコンピュータの性能をフルに引き出す最適なソフトウエアを開発したいと考えています。しかし、ゴムのような高分子複合系の大規模分子動力学シミュレーションは発展途上であり、日々研究を積み重ねているところです。
最先端のスーパーコンピュータを産業界が利用する際の大きな関門は、必要なシミュレーションに最適なソフトウエアを開発できる技術者を確保することです。
伊藤:私は地球シミュレータの産業利用の制度設計にも関わりましたが、そのときも一番の課題はハードウエアではなくソフトウエアでした。そこで、技術者によるソフトウエア移植支援の制度を実施しました。そして地球シミュレータでさまざまなノウハウを蓄積した超一流の技術者の何人かがRISTへ移り、「京」の産業利用でも支援する仕組みがつくられました。さらに私たち理研計算科学研究機構の技術者も、企業の人たちと一緒になって「京」をフルに活用するための仕組みを準備しています。
5年後くらいには、「京」レベルの大規模なスーパーコンピュータが企業に導入される可能性があると私は予測しています。それを使いこなすための技術を、各企業に「京」で培っていただきたいと考えています。
その先の夢へ
―今後の目標を教えてください。
中瀬古:ゴムで起きている現象をオングストロームからマイクロメートルのスケールにわたり再現し、2015年には新しいゴムの分子設計につながる成果を得る、と私たちは公表しています。
そして、「京」での成果を2017年以降順次適用し、革新的な環境性能を持つタイヤを製品化することが目標です。
伊藤:そのような成果が出てくることで、「京」の次の大規模スーパーコンピュータでは何が可能になるのか、具体的な議論に発展させることができます。
岸本:まずは、「京」によるシミュレーションで、ゴムの中で何が起きるか、何が分かるかが重要ですね。その上で、私たちにとって、さらに大規模なスーパーコンピュータが必要かどうかを議論することになるでしょう。
中瀬古:産業界では、シミュレーションができました、というだけでは意味がありません。製品に結び付く成果が出て、初めて次を議論できます。
ただし、私にはすでにその先の夢があります。ある分子構造を持つゴムを用いたタイヤを、特定の車種に取り付けて、気温5℃のドイツの高速道路で走ったときどのような性能を示すのか。そのようなことをシミュレーションで評価したいのです。つまり、自動車産業、タイヤ産業、素材産業にまたがるシミュレーションです。その膨大な計算には「京」の次の大規模スーパーコンピュータが必要でしょう。2020年ごろまでに、私たちのシミュレーション技術をそのレベルにまで発展させていきたいと考えています。
岸本:私たちにはまだ、見えていないこともあります。例えば、ゴムの中のポリマー1本1本がどのような構造になっているのか分かっていません。現在は、実験データなどから予測した構造でシミュレーションを行っています。
―理研播磨研究所では、SPring-8よりも10億倍も明るいX線レーザーを発振する“SACLA(さくら)”の共用を開始しています。
岸本:SACLAでゴムを構成する材料が原子レベルでどのような構造でどのような運動をしているか、さらに変形して発熱するときの様子などを見ることができれば、ゴムについての理解が革新的に進みます。その知見をシミュレーションに反映させることで、さらに新しいことが分かってくるはずです。
中瀬古:見るべきものにも、まだ先があるのです。それを取り入れていかなければ、製品開発に役立つ本当の意味でのシミュレーションにはなりません。
伊藤:住友ゴムは、SPring-8や地球シミュレータなど国の研究基盤を最もうまく活用してきた企業の一つです。「京」でもぜひ大きな成果を挙げて、その先の夢へつなげていただきたいですね。そのために、私たち理研計算科学研究機構としても、企業支援の取り組みを推進していきたいと思います。
(取材・構成:立山 晃/フォトンクリエイト)


