がんはゲノムの病気
日本人の死因の第1位は悪性新生物、つまり、がんである。がんによる死亡者は年々増加しており、2010年の全死亡者に占める割合は29.5%で、3人に1人が、がんで亡くなっている。治癒する人も含めると2人に1人が、がんを発症する。がん患者やがんによる死亡者の増加は日本だけでなく、世界中で問題になっている。がんの発症を予防したり、治療法を確立したりしてがんによる死亡者数を減らすことは、人類にとって緊急に対応すべき課題だ。
「私は1999年まで外科医として、多くのがん患者さんを診てきました。臨床の現場を離れても、がんの治療に貢献したいという思いは変わっていません。そのために、がんの設計図をつくってカタログ化しようとしています」と中川チームリーダー(TL)。がんの設計図とは、どういうものなのか。
がんには、遺伝性のものとそうでないものがある。1980年代から遺伝性のがんの原因遺伝子が次々と発見され、がんが遺伝子の変異によって起きることが明らかになっていった。遺伝性のがんでは、がん細胞だけでなく、患者の体を構成するすべての細胞で原因遺伝子に変異が起きており、その変異は親から子へと伝わっていく。
一方、遺伝性でないがんの場合は、正常な細胞の遺伝子に何らかの原因で変異が生じ、それが蓄積していき、細胞機能が破綻してがん細胞になる。そして、無秩序に細胞分裂を繰り返して増殖し、腫瘍をつくる。遺伝子に変異が起きているのはがん細胞だけで、その変異が親から子へと伝わることはない。がんの多くは、このような遺伝性のないものだ。
「がんはゲノムの病気なのです」と中川TL。ゲノムとは、生物が持っている遺伝情報全体をいう。その実体はDNAであり、A(アデニン)、T(チミン)、G(グアニン)、C(シトシン)という4種類の塩基が連なってできている。このDNAはすべての細胞の核の中にあり、DNAの中でタンパク質をつくる情報を持っている領域を遺伝子と呼ぶ。
「遺伝性でないがん患者さんについて、正常細胞とがん細胞のゲノムの塩基配列をすべて解読して比較し、ゲノムのどこがどのように変異しているかを明らかにする。それが、がんの設計図です。変異している場所や内容が分かれば、それを指標にした早期診断や、そこを標的とする新しい薬の開発が可能になると期待されます」
がんの設計図のつくり方
がんの設計図づくりは、国際共同プロジェクト“国際がんゲノムコンソーシアム(International Cancer Genome Consortium:ICGC)”のもとで進められている。ICGCは、2008年に発足し、現在14ヶ国と欧州連合(EU)が参画している。「ICGCでは、重要ながんについて、正常細胞とがん細胞の全ゲノムを解読して比較し、がん細胞のゲノム変異を明らかにしてカタログ化することを目指しています。現在20種類のがんについて47個のプロジェクトが進行中で、日本からは理研ゲノム医科学研究センター(CGM)と国立がん研究センターが参画し、肝臓がんの解析を行っています」と中川TL。
肝臓がんは、アジアやアフリカに多く、世界全体の死亡率は、肺がん、胃がんに次いで第3位だ。日本では年間約4万人が肝臓がんと診断され、3万人以上が亡くなっており、B型やC型の肝炎ウイルスに感染し、慢性肝炎、肝硬変を経て肝臓がんを発症することが多い。また、輸血や血液製剤から肝炎ウイルスに感染して肝臓がんを発症することが多く、社会問題になっている。肝臓がんの治療法はいくつかあるが、いずれも効果が十分でない。こうした理由から中川TLらはターゲットを肝臓がんに決めたのだ。
中川TLらは、25人の肝臓がんの患者から、27例のがん細胞と正常細胞を収集し、解析を行った。正常細胞は血液中の白血球を用いた。ヒトゲノムは約30億個の塩基対から成る。その塩基配列を次世代シーケンサー(図1)という最新鋭の装置で読み取っていくのだが、解読漏れや間違いをなくすために30回繰り返す必要がある。そのため、今回読み取った塩基配列の総数は約7兆個にも上った。新聞の文字数に換算すると約4万年分、広辞苑に換算すると約47万冊分になる。
「これほど大量の塩基配列を読み取ることは、数年前は不可能でした」。ヒトゲノムの解読を目指した国際プロジェクト“ヒトゲノム計画”は、1990年から始まり、完了したのは2003年である。30億塩基の読み取りに13年かかっている。「シーケンサーの性能向上は目覚ましく、解析速度が毎年10倍くらいずつ速くなっています。その技術革新のおかげで、がんの設計図づくりが可能になったのです」
その膨大なゲノムデータの解析は、CGMの情報解析研究チーム(角田達彦チームリーダー)が担当し、東京大学医科学研究所ヒトゲノム解析センターのスーパーコンピュータを用いて行う。このスーパーコンピュータはゲノム解析用に特化したもので、高速解析が可能だ。こうして、がん細胞のゲノムのどこが、どのように変異しているかを明らかにし、がんの設計図をつくっていく。
がんのゲノム変異は多様
解析の結果、1個のがん細胞にポイント変異が平均で約1万1000ヶ所あることが分かった。ポイント変異とは、ゲノム上の塩基が1個〜数個入れ替わったり、抜けたり、挿入されたりする変異である。
ゲノム構造異常は平均で21ヶ所だった。ゲノム構造異常とは、通常は2本ある染色体が増えたり減ったりするコピー数異常や、染色体の一部や全体がほかの染色体と結合してしまう転座(てんざ)、塩基配列が逆になってしまう逆位(ぎゃくい)などの変異をいう。
「この数は、あくまでも平均です。がん細胞によってポイント変異が多いもの、少ないものがあります。ゲノム構造異常も多様で、コピーの数、さらには転座や逆位を起こしている塩基配列の大きさや場所もさまざまです(タイトル図A・B)。がんが発生する臓器によってゲノム変異が違うのは分かりますが、同じ肝臓がんなのにこんなに違うものかと驚きました」
特に中川TLを驚かせたのは、2人の患者からそれぞれ2例ずつ収集したがん細胞の解析結果だった。肝臓がんでは、多中心性腫瘍といって肝臓のいろいろな場所に腫瘍が複数できることがある。転移とは違う。収集したがん細胞は、それぞれこの多中心性腫瘍から採取したものだ。「同じ患者さんの、同じ肝臓がんの細胞です。ゲノム変異には共通する点があるだろうと予測していました。ところが、ゲノム変異の場所や内容が、同じ患者さんにもかかわらずまったく違っていたのです(タイトル図C・D)。とても驚きました。がん細胞のゲノム変異は、多様性がとても高いようです」
がんの原因が塩基置換パターンに影響?

図2 肝臓がんのゲノムの塩基置換パターン
23人の肝臓がんの患者から収集した25例のがん細胞と正常細胞のゲノムを比較し、塩基置換のパターンについて解析した。欧数字はサンプル番号。同じ患者の多中心性腫瘍では、塩基置換のパターンはよく似ている(青丸)。収集した25人27例のうち2人の2例は、ほかと明らかに異なるゲノム異常を示していたので排除している。
中川TLは、ポイント変異で塩基配列がどのように置換されているか、そのパターンに注目して解析した。塩基置換パターンとは、4種類ある塩基のうち、AがTに換わる、TがCに換わるといったことを指す。「多中心性腫瘍のがん細胞は、同じ患者さんの肝臓に発生したにもかかわらず、変異を起こしている場所がまったく違っていました。ところが、塩基置換パターンは、とても似ているのです」(図2)。これは、何を意味しているのだろうか。
「多中心性腫瘍は同じ患者さんの肝臓に発生したのだから、ゲノムの変異の原因はおそらく同じでしょう。塩基置換パターンは、肝臓がんの原因の影響を受けているのではないかと考えています」
肝臓がんの原因には、肝炎ウイルスのほか、アルコールや肥満、糖尿病、さまざまな毒物などが知られており、多種多様である。患者の飲酒習慣の有無に注目して解析すると、飲酒の習慣がある患者のグループは、塩基置換パターンが似ていることが分かった。肝炎ウイルスの種類と塩基置換パターンとの関連も認められた。「塩基置換パターンを解析することで、肝臓がんの原因を推定できる可能性があります」
さらに中川TLは、塩基置換パターンで多中心性腫瘍の発生を予測できるかもしれないと考えている。手術で腫瘍を切除した後、数年転移がなければ完治したものと安心するだろう。ところが肝臓がんの場合、切除から10年ほどたって多中心性腫瘍が発生することが多いのだ。「切除した腫瘍のゲノムを調べて塩基置換パターンが多中心性腫瘍特有のものであれば、その患者さんは多中心性腫瘍を発生する可能性が高いと分かります。定期検査の間隔を短くしたり、生活習慣に気を付けたりすることで、早期発見や予防に役立つかもしれません」。ただし、塩基置換パターンと肝臓がんの原因に本当に関連があるのかどうか、これから詳しく調べていく必要がある。
クロマチン制御遺伝子に変異
肝臓がんのゲノムの変異は、その原因と同様に、多様性にとても富んでいるようだ。では、共通性はないのだろうか。中川TLは、27例の肝臓がんのがん細胞でゲノム変異を起こしている遺伝子をピックアップしていった。その結果、27例中16例、つまり約60%でクロマチン制御に関わる遺伝子に変異が起きていることが分かった(図3)。
DNAは、ヒストンというタンパク質に巻き付いて“クロマチン”という構造をつくっている。クロマチン構造が緩んでいるときにDNAからRNAが転写され、構造がしっかりしているときには転写されない。クロマチン制御遺伝子に変異があるということは、DNAからRNAへの転写が正常に行われない可能性がある。「肝臓がんの60%でクロマチン制御遺伝子に変異があったことから、クロマチン制御遺伝子を標的にした新しい肝臓がんの治療薬を開発できる可能性があります」
中川TLらは、肝臓がん27例の全ゲノム解読の結果を今年5月、科学雑誌『Nature Genetics』で発表し、プレス発表も行った。「新聞でも取り上げていただきました。また、理研ホームページにも、多くのアクセスがありました。その中には、治療法の進展を期待してアクセスした肝臓がんの患者さんやご家族の方もいらっしゃったでしょう。期待に応えられるようにしたい。患者さんの期待に応えられないのだったら、がんの研究をやっている意味がありません」
ICGCでは1種類のがんについて500例の解析を行うことになっている。CGMと国立がん研究センターで250例ずつ解析を進め、肝臓がんの設計図をカタログ化していく計画だ。
ゲノム変異に基づいた医療を
ICGCのプロジェクトで解析した結果は、ICGCのホームページ
で迅速に公開することが義務付けられている。日本のチームは、すでに77例の肝臓がんの全ゲノムの情報を公開している。「公開されたデータは学術研究だけでなく、製薬企業の医薬品開発にも、無償で自由に使うことができます。がんの設計図は、新しいがん治療に向けた基盤データであり、人類共通の財産です。私たちができるのは、がんの設計図づくりまで。それをもとに、製薬企業などが新薬を開発してくれることを期待しています」
中川TLが外科医だったことは、冒頭で紹介した。当時、中川TLにとってがんの治療といえば外科的切除であり、化学療法は補助的なもので、あまり効果がないと感じていたという。ところが、その考えを変えざるを得ない出来事があった。「父が肺がんになったのです。しかも外科手術のできないものでした。化学療法が有効だというのでやってみたら、なんと腫瘍が縮小したのです。2年後には亡くなりましたが、外科的切除だけが治療ではないと、実感しました。優れたがんの治療薬が開発されれば、もっとたくさんの人に貴重な時間をもたらすことができるのではないか。そういう仕事がしたいと思い、基礎研究の道に進むことにしました」
今、分子標的薬という新しいタイプの薬が注目されている。従来の化学療法薬は、がん細胞を攻撃し死滅させる。しかし、同時に正常な細胞も殺してしまうため、副作用が出るという問題があった。分子標的薬は、がん細胞に特有な分子だけに働き、正常細胞を攻撃することはない。
「分子標的薬はあらゆる患者さんに効果がある万能薬ではありません。しかし特定の患者さんにはとても高い効果が期待できます。分子標的薬が続々と開発され、今ではがん治療薬の主流になっていますが、がん細胞のゲノム変異の多様さに対応するには、まだまだ足りません。がん細胞のゲノム変異を調べ、その変異に応じた分子標的薬を選んで治療する。そういう日が、1日でも早く来るように、私は今、がんの設計図をつくり続けているのです」
(取材・執筆:鈴木志乃/フォトンクリエイト)




