世界が注目する研究成果を生み出し続ける 理研和光研究所 脳科学総合研究センター(BSI)。 その大きな特徴の一つが、1997年の設立当初から、 研究基盤センター(RRC)を設置していることだ。 「脳研究に必要なあらゆる技術や研究試料をそろえた 総合力において、RRCは世界屈指の 技術支援組織です」と板倉智敏(ちとし)センター長は胸を張る。 そして2011年2月には、新しい動物実験施設を備えた “神経回路遺伝学研究棟”が完成した。 BSIの研究力の源泉、RRCを紹介しよう。
技術と研究がBSIの両輪
脳科学総合研究センター(BSI)は1997年10月に設立された。初代所長は、小脳研究の世界的権威である伊藤正男BSI特別顧問。「理研には1921年(大正10年)から研究機器類などを製作し、研究を支える技術支援部門がありました。伊藤先生も“脳科学研究においても良い研究成果を生み出すには、研究を支える技術が不可欠。研究よりもむしろ技術を優先しなければいけない”とおっしゃっていました」。研究基盤センター(RRC)の板倉智敏センター長はそう振り返る。
板倉センター長は、北海道大学で獣医学を学んだ後、1961年に理研に入所した。「理研で初めてがん研究に関する動物実験を行うにあたり、獣医学研究者が必要となり、呼ばれたのです」。その後、岐阜大学や鳥取大学を経て北海道大学へ戻り、獣医学部で病理学の研究を進めるとともに多くの獣医学研究者を育成、さらに学部長や副学長を歴任した。「北海道大学を定年になる年に、再び理研から声が掛かりました。BSIの設立と同時に、大規模な動物実験施設を運営する技術支援組織を立ち上げるためです」
BSI設立前の1997年5月、板倉センター長は理研で活動を開始。「“日本の大学や研究機関では、研究者よりも技術者を軽視する傾向があるが、それでは駄目だ。BSIでは研究者と技術者が対等の立場で脳研究を進めていきましょう”と伊藤先生に言われました。私は欧米の一流の大学や研究機関の技術支援組織を視察し、その良いところを採り入れる形でRRCの前身である先端技術開発センターを立ち上げたのです」
世界屈指の総合力
現在、RRCは四つのユニットで構成されている。その概要を紹介しよう(図1)。
一つ目は動物資源開発支援ユニット。このユニットでは、マウス、ラット、ネコ、マカクザル、マーモセットといった哺乳動物と、ゼブラフィッシュの各実験施設を運営するとともに、遺伝子改変マウスの作製など動物実験に関わるさまざまな技術支援を行っている。
「設立時、マウスを5匹まで飼育可能なケージの数は約2万6000個でした。BSIでは、行動遺伝学技術開発チーム(糸原重美チームリーダー)だけで約3000ケージを使用しています」と板倉センター長。
なぜ、それほどのマウスを必要とするのか。現在、脳研究の有力な手法は、外部から特定の遺伝子を導入したトランスジェニックマウスや、特定の遺伝子を働かないようにしたノックアウトマウスを使って遺伝子の役割を調べ、脳機能のメカニズムを探ることだ。これら遺伝子改変マウスの行動を解析して、例えば学習・記憶の能力が変化していれば、その遺伝子は学習・記憶に重要な役割を果たしていると推定できる。
「遺伝子改変技術があるからこそ、脳研究は急速に進展しているのです。1種類の遺伝子改変マウスをつくるだけで50〜100ケージが必要です。調べるべき遺伝子はたくさんあるので、いくらケージがあっても足りません」
二つ目の生体物質分析支援ユニットでは、核酸(DNAとRNA)、アミノ酸やタンパク質などの生体物質を分析する支援業務を行っている。
「例えば脳の機能が変化した遺伝子改変マウスでは、脳内のさまざまな生体物質の量や働き方が変化している可能性があります。それを詳しく分析することで、脳機能のメカニズムの解明に迫ることができるのです」。また、このユニットでは、生体物質を分析するための共用実験施設の維持・管理も行っている。
三つ目は機能的磁気共鳴画像測定支援ユニット。「機能的磁気共鳴画像装置(fMRI)は、脳を傷付けることなく、脳の活動部位を測定することができるため、脳研究に欠かせない装置です。ただし、測定には高度な技術を必要とするため、このユニットの熟練の技術者が支援を行っています」
BSIでは、fMRIを利用してヒトやサルの脳活動を測定している。例えばプロ棋士が瞬時に将棋の問題を解くときに脳のどの部位が働くかを測定することで、直観のメカニズムに迫る研究が進められている(『理研ニュース』2011年4月号「研究最前線:直観をつかさどる脳の神秘」参照)。
最後は脳形態解析支援ユニット。このユニットでは、高度な技術を必要とする電子顕微鏡などによる脳の形態学的解析を支援している。
「例えば脳の機能が変化した遺伝子改変マウスでは、特定の神経回路網や神経細胞の形態に変化が起きている可能性があります。電子顕微鏡などにより、そのような変化を調べることができるのです」。また、脳の基本構造の理解を補助するためのデータベース(脳アトラスなど)の構築も進めている。
「上記の四つのユニットによる研究支援のほかに、RRCでは、実験動物などの研究試料移転契約書の作成など、専門知識を必要とする事務手続きの支援も行っています」
板倉センター長は、RRCのメリットとして、①研究をスピードアップできること、②多角的な研究手段を駆使できること、③すべての研究室が均一で高いレベルの技術支援を受けられること、④研究試料やデータをストックしてデータベースなどを構築できること、⑤研究者の事務負担を軽減できること、などを挙げた。
「BSIへ共同研究に訪れた研究者の中には、RRCの支援体制により、実験が円滑かつスピーディーに進むことに驚く人が大勢います。また、RRCは優れた研究者をBSIへ引き寄せる大きな要因にもなっています。BSIで新しく研究室のリーダーを公募するとき、候補者には必ずRRCを見学してもらいます。その研究環境に感嘆して、応募を決める人がたくさんいます」
RRCは、国内外のトップ・サイエンティストで構成される外部評価委員会“BSIアドバイザリー・カウンシル”からも、世界屈指の技術支援組織との評価を受けている。「個々の施設や機器で比べれば、ほかの研究機関や大学の方が優れている部分もあるでしょう。脳研究に必要なあらゆる技術や研究試料をそろえているところに、RRCの最大の特長があります。その総合力において高い評価をいただいているのです。さらに、分析装置などを共有することで研究・実験スペースを節約したり、機器・装置をリサイクルしたりと、予算の効率的活用にもRRCは大いに貢献しています」
BSIの7〜8割の研究室がRRCを利用しているが、RRCではBSI以外の研究室にも技術支援を行っている。例えば生体物質分析支援ユニットの利用研究室の半数は、基幹研究所を中心とする理研内のBSI以外の研究室だ。また、動物資源開発支援ユニットが運営するゼブラフィッシュ施設は、ナショナルバイオリソースプロジェクトの中核機関として、日本でつくられた有用なゼブラフィッシュ系統の収集・保存を行い、国内外に提供している。
行動解析を重視した神経回路遺伝学研究棟
2011年2月、動物実験施設を備えた神経回路遺伝学研究棟が和光研究所に完成した(タイトル図)。「この新しい研究棟建設の検討は、2003年から開始されました。BSI設立時に設けた2万6000ケージのマウス飼育施設がいっぱいになったことに加え、行動解析のための実験室が不足していたのです。米国では10年ほど前から、行動解析を重視した動物実験施設が登場し始めていました」
近年、遺伝子改変の技術が大きく進展しているが、それらを使って脳機能のメカニズムを解明するには、行動解析が重要となる。
「マウスなどの実験動物は微生物学的にコントロールする必要があり、また感染を防ぐためにも無菌状態の飼育室で育てる必要があります。施設の外に持ち出した実験動物は、感染の恐れがあるので再び飼育室へ戻すことができません」。従って行動解析を行うには、飼育室のある施設内に行動解析のための実験室を設ける必要があるのだ。
「米国では、飼育室と行動実験室の面積比が、3対1から4対1が良いとされています。ところが既存のRRCの施設では、その比が13対1でした。BSIの利根川進センター長は行動解析の大家です。利根川センター長の強い意向もあり、行動解析を重視した神経回路遺伝学研究棟を完成することができました」
神経回路遺伝学研究棟では、飼育室と行動実験室の面積比を1対1にした。マウスは2万ケージ、ラットは3000ケージ(1ケージに3匹まで飼育可能)の収容能力を持つ。また、6室の行動実験室と1室の飼育室(420ケージ)が併設された“行動解析スイート”(約250m2)が四つ設けられている。
スイートとはフロア内の一続きの区画であり、一つのスイートで感染症が発生しても、ほかのスイートには感染が広まらない構造になっている。「飼育室と行動実験室の面積比が1対1という動物実験施設は世界で初めてだと思います。また行動実験室の延べ床面積も世界最大規模です。行動解析のために、同じマウスやラットを半年から1年かけて繰り返し訓練させ、実験を行う場合があります。神経回路遺伝学研究棟では、行動解析スイート内で実験動物を飼育室と行動実験室を行き来させて、感染を防ぎながら、長期にわたる行動解析を行うことができるのです」
では具体的に行動解析の実験では、どのような装置が使われているのか。代表的な二つを紹介しよう。
一つ目はモーリス型水迷路(タイトル図B)。この装置は、記憶・学習の実験に使われる。プールの中に1ヶ所だけ、マウスに見えないように水面下約1cmのところに休憩場所(プラットフォーム)が設けられており、マウスは天井からつり下げられた目印を頼りに、プラットフォームの位置を学習する。その学習過程を観察することで、学習・記憶の能力を調べることができる。
二つ目は高架式十字迷路(タイトル図C)。この装置は、不安や恐怖心といった情動を調べる実験に使われる。50cmの高さで十字路の片方の道だけに壁が設けられており、マウスが壁のない道と壁のある道にいる割合を観察することで、不安や恐怖心を調べることができる。
「神経回路遺伝学研究棟には、行動解析で使われているほとんどの実験装置をそろえました。記憶・学習の実験装置はさまざまな種類がありますが、情動に関する実験装置の開発は遅れています。また、現在の脳研究の大きな目標の一つは、アルツハイマー病やうつ病などの神経・精神疾患の克服です。BSIでは、ヒトの神経・精神疾患と同じような症状を示すモデルマウスを作製し、発症メカニズムの解明や治療法の開発が行われています。そのために、マウスの症状を行動解析するための新しい実験装置の開発も進められています」
技術革新を行い、技術者を育てる

図2 マーモセット
マーモセットは小型で繁殖能力に優れ、1歳半で性的に成熟して1回で2〜3匹の子どもを産むという、実験動物として有利な性質を持つ。
「RRCの技術支援を高いレベルに維持するには、技術革新が欠かせない」と板倉センター長。
「私たちは研究者からの要望に応じて、新しい技術や研究試料の導入を常に検討しています。一方、私たち自身も、これからの脳研究で重要になりそうな技術や研究試料にいち早く着目して準備を進めています。その一つの例が、マーモセットの導入です」
マーモセットは、霊長類の中で最も小型のサルだ(図2)。1980年、公益財団法人 実験動物中央研究所(神奈川県川崎市)がマーモセットを実験動物として確立することに成功した。「ヒトの脳の理解や神経・精神疾患の克服には、霊長類の実験動物を用いた脳研究が重要になる、と私たちは予想しました。その有用性を疑問視する人もいましたが、2007年にマーモセットの飼育・繁殖を始めました」
板倉センター長たちの予測は的中した。2009年、慶應義塾大学医学部の岡野栄之教授は、実験動物中央研究所と共同で遺伝子改変マーモセットの作製に成功。その技術を用いて、脳の進化の解明や、アルツハイマー病、自閉症、統合失調症などの神経・精神疾患の克服を目指す研究が、国が力を入れる最先端研究開発支援プログラム(FIRSTプログラム)に選ばれた※。その研究支援担当機関として理研が指名され、現在、BSIの研究者も参加して、RRCの支援のもと研究が行われている。
「RRCの大きなテーマは、高いレベルの技術者を育成し続けることです。そして技術者が正統に評価され、報いられるようにすること。それは日本の研究機関全体の課題でもあります」
世界屈指の脳科学の研究拠点であるBSIの研究力を支えるため、RRCは不断の技術革新と人材育成を続けていく。
(取材・執筆:立山 晃/フォトンクリエイト)



