理研では、生きた細胞を使わずに試験管の中でタンパク質を合成する「無細胞タンパク質合成システム」を開発してきた。その優れた技術を多くの人に使ってもらおうと、理研横浜研究所 生命分子システム基盤研究領域 のNMRパイプライン高度化研究チーム と大陽日酸(株)が連携し、キット化に取り組んできた。そして2011年11月、無細胞タンパク質合成キット「無細胞くんQuick」と「無細胞くんSI」が大陽日酸から発売された。さらに、キットの改良と新たな技術の製品化を目指し、2012年4月、理研の産業界との融合的連携研究プログラム に無細胞技術応用研究チームが発足。11月には2商品の海外販売が開始され、新たに「無細胞くんSI SS」が国内で発売された。無細胞技術応用研究チームの横山順チームリーダー(大陽日酸(株))と、木川隆則 副チームリーダー(理研NMRパイプライン高度化研究チーム)に、「無細胞くん」誕生までの道のり、その特徴、今後の展望を聞いた。
「無細胞くん」とは
―大陽日酸から販売されている「無細胞くん」シリーズとは。
横山:試験管の中でタンパク質を合成できるキットです。タンパク質を合成するとき、普通は大腸菌などの生きた細胞につくりたいタンパク質の遺伝子を導入して合成します(図1左)。しかし、生きた細胞の調製や培養には手間がかかり、培養条件などさまざまな制約もあります。「無細胞くん」は、大腸菌から抽出した成分やアミノ酸など、タンパク質の合成に必要なものをすべて試験管の中に再構築してあります。冷凍庫から出して解凍し、その中につくりたいタンパク質の遺伝子を加えて反応させるだけでタンパク質を合成できます。「無細胞くん」は、理研が開発した無細胞タンパク質合成技術について、私が勤務する大陽日酸が、理研とライセンス契約を結びキット化したものです(図2)。
木川:無細胞タンパク質合成システムは細胞のように閉じていないので、必要な成分を加えたり不要なものを除いたりして反応条件を操作することが可能で、毒性のあるタンパク質など生きた細胞では合成が難しいものも合成できます(図1右)。
2000年にヒトゲノムの解読がほぼ完了し、ポストゲノムとして注目されたのが、ゲノムに書かれた遺伝情報からつくられるタンパク質の構造と機能を明らかにしようという構造ゲノム科学研究です。この研究では、あらゆる種類のタンパク質を大量に迅速に合成する必要があります。そのために理研では、世界に先駆けて無細胞タンパク質合成システムを開発してきました。
無細胞の技術を広めたい
―無細胞タンパク質合成技術をキット化しようと考えたきっかけは。

図2 「無細胞くん」シリーズ
「無細胞くんQuick」(左上)は遺伝子を加えて37℃で1時間反応させるだけで、タンパク質を合成できる。「無細胞くんSI」(右上)は、透析膜を用いて安定同位体で標識したタンパク質を大量に合成できる。「無細胞くんSI SS」(下)は、安定同位体で標識した分泌タンパク質を合成できる。
木川:私たちは無細胞タンパク質合成技術を広めようと、2002年ごろから国内外でワークショップを開いていました。手順を示して実演し、参加者にもやってもらうのですが、皆さんなかなかうまくできません。私たちが開発したシステムでは、大腸菌から抽出した成分など50種類もの溶液を最適な濃度で調合する必要があります。量がわずかに違ったり、調合する順番が変わったりしただけで、タンパク質の合成がうまくいかなくなることもあるのです。その場でできても研究室に戻るとうまくいかない、ということも多くありました。
やり方を教えるだけでは限界があると痛感し、誰でもできるようにキット化して販売するくらいのことをしなければ、この技術は広まらないと感じたのです。しかし、構造ゲノム科学研究の国家プロジェクト「タンパク3000」の研究で忙しく、そもそも研究者が簡単に製品化できるはずがない、と具体的な行動は起こせずにいました。
―そのころ、大陽日酸は理研とつながりがあったのですか。
横山:大陽日酸は産業ガスメーカーです。その技術を応用し、酸素や炭素などの元素の安定同位体を分離する技術や安定同位体標識化合物の合成技術の開発、輸入販売をしています。タンパク質の構造をNMR(核磁気共鳴)装置で解析する際、タンパク質を安定同位体で標識する必要があることから、世界最大規模のNMR施設を有する理研ともお付き合いがありました。また、ワークショップにも参加していました。無細胞タンパク質合成技術が普及すれば、安定同位体標識アミノ酸の販路も広がると思いましたが、当時はキット化までは考えていませんでした。
木川:安定同位体標識は化学の知識が必要で、生命科学の研究者にとっては弱いところです。そこで、大陽日酸と2002年ごろから共同研究を始めました。数年たったころ、どちらからともなく無細胞タンパク質合成技術をキット化しよう、という話になったのです。そして2007年、(独)科学技術振興機構(JST)の「産学共同シーズイノベーション化事業」に応募し、無細胞タンパク質合成技術のキット化に向けた共同研究を開始しました。
誰でもどこでも簡単に
―「無細胞くん」は発売までスムーズに進んだのでしょうか。
木川:ライセンス契約を結んだ後、私たちが持っている無細胞タンパク質合成技術を大陽日酸に移転しました。技術移転はとてもスムーズにいきました。
横山:ところが、いざキット化しようとすると、やはり難しいことがいくつもありました。50種類もの溶液をピペットで計量して試験管に入れ、混ぜていきます。しかし、溶液によって粘度が違うので、うまく混ざらないのです。ピペットの扱いに熟練していないと失敗してしまいます。ワークショップでうまくいかない人が多かったのも、もっともです。
マーケティング調査を行ったところ、生きた細胞を使ってタンパク質を合成している研究者は、無細胞のシステムを取り入れることに、扱いづらさから抵抗感を持っていることが分かりました。敷居を下げるには、品質や価格はもちろんですが、扱いやすくすることが最重要と考えました。誰でもどこでも簡単にタンパク質を合成できるキット。それを目指して試行錯誤した結果、すべての成分を1本の試験管に入れたキットがようやく完成しました。ユーザーが溶液を調合する必要は一切ありません。そして2011年11月、「無細胞くんQuick」と「無細胞くんSI」の発売に至ったのです。
―それぞれの特徴は。
横山:「無細胞くんQuick」の特徴は、名前の通り反応が速いことです。遺伝子を加えて37℃で1時間反応させるだけで、タンパク質を合成できます。「無細胞くんSI」は、安定同位体(SI)で標識したタンパク質を合成できます。「無細胞くんQuick」では遺伝子を溶液中に直接入れますが、「無細胞くんSI」では遺伝子を透析膜に入れます。反応時間が長くなり、そのため大量のタンパク質を得ることができます。また、安定同位体標識の導入効率を高める技術も組み込んであり、他社の無細胞タンパク質合成キットにはない特徴です。
木川:生きている細胞での合成や他社のキットでは、クローニングといって合成したいタンパク質の遺伝子を生きた細胞を使って増やす必要があります。我々の技術では、PCRという方法で増幅した遺伝子をそのまま使うこともできるので、「無細胞くん」ではより簡単にタンパク質を合成できます。
―発売後の反響はいかがですか。
横山:とても評判がいいです。理研の無細胞タンパク質合成技術は、これまで多くのタンパク質を合成し、構造ゲノム科学研究に貢献してきました。世界で一番実績がある無細胞タンパク質合成技術でしょう。安心して使える、という声が多いですね。簡単なので、研究の現場だけでなく、大学の生物学の授業でも使っていただいています。
―「無細胞くん」はとてもインパクトのある名前ですね。
木川:私のチームで名前を募集したら、いろいろな案が集まり、「無細胞くん」もその一つでした。ふざけ過ぎかなと思いつつ横山さんに相談すると、「いいですね」と決まってしまったのです。
横山:多くの人に使っていただきたいので、覚えやすく親しみやすい名前がいいと思っていたのです。なぜこんな名前にしたんだとおっしゃる方もいますが、興味を持っていただくきっかけになるので、この名前にしてよかったと思っています。
海外販売開始と新商品発売
―2012年4月、企業主導のもとに研究課題の提案およびチームリーダーを受け入れて理研内に時限的研究チームを編成する「産業界との融合的連携研究プログラム」に、無細胞技術応用研究チームが立ち上がりました。
横山:「無細胞くん」のユーザーに話を聞くと、私たちが想定していなかった用途で使っているケースも多いことが分かるとともに、さまざまな要望も寄せられました。用途の拡大や要望に応える改良をしたいのですが、JSTのプロジェクト終了が2012年3月と迫っていました。私たちだけでは高度な課題の解決は難しいと思っていたとき、理研の産業界との融合的連携研究プログラムを知ったのです。
採択していただいたおかげで、無細胞タンパク質合成技術の普及を目指した技術開発を継続することができました。そして今年の11月には、「無細胞くんQuick」と「無細胞くんSI」の海外販売を開始するとともに、新しく「無細胞くんSI SS」を発売しました。先行の2商品で合成できるのは、細胞の中で働くタンパク質です。「無細胞くんSI SS」は、免疫で働くサイトカインや抗体など細胞外に分泌されるタンパク質を合成することができます。
―想定しなかった用途とは。
横山:一つは、質量分析計の内部標準用のタンパク質合成です。質量分析計でタンパク質を正確に定量する際には、標準物質とする安定同位体で標識した既知のタンパク質が必要です。ところが、市販品では安定同位体の標識率が低いという問題があったそうです。「無細胞くんSI」ならば安定同位体で標識したタンパク質を高い標識率で合成できるので、安心してご使用いただけます。現在の「無細胞くんSI」はNMRを使ったタンパク質構造解析での利用を想定したものなので、質量分析計用にも改良を加え、利用の拡大を図っていきたいと思っています。
PET用バイオマーカーの開発も
―新商品では、なぜ分泌タンパク質なのですか。
木川:血液や尿などに含まれる細胞外に分泌されるタンパク質は、疾患や薬の効果・副作用を調べる目印、バイオマーカーになります。無細胞タンパク質合成技術をバイオマーカーの探索や作製にも使えるようにしたかったのです。特にPET(陽電子放出断層撮像法)診断用のバイオマーカーに注目しています。
横山:現在PETでは、FDG(フルオロデオキシグルコース)というバイオマーカーを使ったがん診断が一般的です。FDGはブドウ糖の類似化合物を放射性同位体のフッ素18(18F)で標識したものです。18Fは酸素同位体(18O)を含む水(水-18O)にサイクロトロンで加速した陽子を照射してつくります。大陽日酸は、水-18Oの国内唯一のメーカーで、PET診断用のバイオマーカー向けに水-18Oを販売する事業も進めてきました。その特徴も活かし、タンパク質の新しいバイオマーカー研究ツールを開発したいと考えています。
―そのほかに、今後どのようなことを計画していますか。
横山:例えば、界面活性剤を添加した方がよい、しない方がよいなど、タンパク質によって合成の最適条件は異なります。さまざまな条件を1枚のプレートに用意し、最適条件を調べることができるスクリーニングキットを商品化したいと思っています。
木川:無細胞タンパク質合成システムでは、まだすべての種類のタンパク質を合成できるわけではありません。細胞膜にあり情報伝達に関わっている膜タンパク質は、薬のターゲットとして注目されていますが、合成が難しいものの一つです。創薬ターゲットとなるタンパク質をつくれるように技術を改良し、キット化まで達成したいですね。
企業と理研がバトンゾーンを併走
―産業界との融合的連携研究プログラムについて、企業側と研究者側からの意見を聞かせてください。
横山:大学や公的研究機関が開発した技術を企業が実用化する場合、ライセンス契約を結び技術移転を受けるだけ、というケースがほとんどです。しかし、技術を渡されただけではうまく進まず、実用化までに時間がかかったり、途中で諦めざるを得ないこともあります。このプログラムでは、実用化が軌道に乗るまで理研の研究者が企業の研究者・技術者と併走するバトンゾーンを設けているので、とても心強いです。
木川:自分の育てた技術が普及していくことは、研究者としてとても喜ばしいことです。しかし、私たち研究者だけで製品化まではできません。製品化には研究とは違う考え方やノウハウが必要ですし、研究者には市場の動向をつかむ手段もありませんから。互いの得意分野を活かして力を合わせて進み、研究から生まれた技術を製品化できるこのプログラムは、とてもいい制度だと思います。
―連携を成功させるポイントは何だと思いますか。
木川:いいパートナーに恵まれるかどうかに尽きます。共同研究などを通して互いの技術力や考え方をよく知った上でスタートさせた方が成功率は高いかもしれません。理研と大陽日酸との付き合いは長いので、安心して組むことができました。
横山:理研、そして木川さんは、技術を世に出していこうという思いを強く持っています。これ以上のパートナーはいません。それでも企業と研究者では立場や考え方の違いは当然あります。だからこそ互いを尊重しながら進めることが重要ではないでしょうか。
チームの期限は3年間。短いですが、確実な成果が求められる企業としては、いつまでに商品化するという明確な目標があるのはよいことです。理研の無細胞タンパク質合成という優れた技術を社会に広め、生命科学研究や医療などを発展させるため、短期集中で緊張感を持って進めていきます。
(取材・構成:鈴木志乃/フォトンクリエイト)



