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研究最前線

量子のへんてこな世界を見て、操作して、理解する


現在のスーパーコンピュータで数千年もかかるある種の問題をわずか数十秒で解ける、そんな夢のコンピュータ。それが量子コンピュータだ。理研和光研究所 基幹研究所の蔡 兆申(ツァイ ゾァオ シェン)チームリーダーは、2004年4月号の『理研ニュース』で「あと2〜3年もすれば、量子コンピュータの実現がどのくらい難しいのか、いつごろ実用化できそうか予言できるでしょう」と語っている。あれから8年。量子コンピュータの開発はどこまで進んでいるのだろうか。そして、「今回は、量子コンピュータ以外の話もしましょう」と蔡チームリーダー。その一つが、量子コンピュータに使用する量子ビットを“人工原子”として使った画期的な研究だ。そのほかにも、世界初の成果を紹介しよう。


蔡 兆申
基幹研究所 単量子操作研究グループ 巨視的量子コヒーレンス研究チーム

コヒーレント量子位相スリップ効果を確認
タイトル図 コヒーレント量子位相スリップ効果を確認


へんてこな世界

 巨視的量子コヒーレンス研究チーム。それが蔡 兆申チームリーダー(TL)が率いる研究チーム名である。“巨視的量子コヒーレンス”とは、聞き慣れない言葉だ。
 巨視的とは、私たちの日常生活の感覚で認識することができる程度の大きさのこと。量子とは物質的な量の最小単位で、電子や光子がその代表的なものだ。そして、コヒーレンスとは、波の干渉のしやすさをいう。
 「さらに分からなくなった」という声があるかもしれない。電子や光子は、日常生活の感覚では認識することができない大きさ、微視的である。また、私たちの感覚では、電子は粒子である。粒子と波の干渉というのもつながらない。蔡TLは、こう解説する。「微視的な世界では、電子や光子は“粒子”と“波”の二つの性質を持ちます。ところが、巨視的な世界では微視的な量子の振る舞いは覆い隠され、私たちが意識することはありません。しかし、巨視的な世界で量子の波の性質が現れることがあるのです。それが、超伝導状態です」
 超伝導とは、特定の物質を冷却していくと、ある温度以下で電気抵抗がゼロになる現象のことだ。そのような性質を持つ物質を、超伝導体と呼ぶ。電子は物質中をばらばらに動き回っている。それが、超伝導状態になった途端に、電子が対をつくって全体が波のように振る舞うのだ。「超伝導状態の電子の波は、重ね合わせたり、絡み合わせたりすることができます。そのような状態を“量子コヒーレント”と呼びます。私たちは、量子コヒーレントをつくり、見たり、操作したりして、理解しようとしています」
 電子が波のように振る舞い、それを重ね合わせる——そんな様子を想像してみてほしい。うまく想像できた方はいるだろうか。「私はできますよ(笑)」と蔡TL。「とはいえ、へんてこな世界だと思います。アインシュタインですらそのような世界に納得しなかったのですから、皆さんがピンとこなくても仕方がありません。でも、ミクロの世界や超伝導状態では、実際にへんてこなことが起きているのです」
 量子の不思議な振る舞いを説明する量子力学が完成したのは1930年代。一方、古典力学の根本を成すニュートン力学が完成したのは17世紀だ。「ダーウィンの進化論もそうですが、新しい理論が常識レベルになるまでには時間がかかります。でも常識は教育で変えられます。小学生も量子の振る舞いを思い浮かべることができる。そんな時代が早く来てほしいと思いながら研究をしています」

世界で初めて量子コヒーレントを実現

図1 ジョセフソン素子
図1 ジョセフソン素子
絶縁体の薄膜を超伝導体で挟んで結合したジョセフソン接合を含んでいる。超伝導状態にしてゲート電極から単一電子対箱に向かってパルス電圧を当てると、絶縁体をすり抜けて電子対が単一電子対箱と超伝導ループの間を出たり入ったりする。ジョセフソン接合を用いた回路には、この電荷を使うタイプのほか、磁束を使うタイプがある。

 量子コヒーレントをつくり出し、見たり、操作したりできるのが、ジョセフソン接合である。ジョセフソン接合とは、2個の超伝導体を薄い絶縁体を挟んで結合させた構造のことだ。この構造では、“ジョセフソン効果”によって、絶縁体の層を電子対がすり抜けるという現象が起きる。
 理研に着任する前の1999年、蔡TLら日本電気株式会社(NEC)の研究グループは、量子コヒーレントを実現するためにジョセフソン接合を用いた回路、ジョセフソン素子を作製した(図1)。超伝導体はアルミニウムの薄膜、絶縁体は酸化アルミニウムの薄膜である。これを超伝導現象が起きる温度よりさらに低温にして実験を始める。このとき、単一電子対箱に電子対は入っていない。この状態を“0”とする。ゲート電極から単一電子対箱にパルス電圧を当てると、電子対が絶縁体の層をすり抜けて超伝導ループから単一電子対箱に入ってくる。この状態を“1”とする。パルス電圧を当てている間、電子対は単一電子対箱と超伝導ループの間を出たり入ったりする。
 「日常生活の感覚では、電子が入っていないか入っているか、つまり“0”か“1”かどちらか一方の状態しか取ることができません。しかし量子状態では、“0”と“1”の二つの状態が同時に存在できます。これを“量子重ね合わせ”といいます。私たちは、パルス電圧の当て方を工夫し、“0”と“1”の状態を重ね合わせること、つまり量子コヒーレントの実現に、世界で初めて成功しました」
 蔡TLがジョセフソン素子を使った研究を始めたのは、大学院生のときだ。「ジョセフソン素子を使うことで見える量子的な振る舞いの面白さに引かれ、1983年にNECに入社した後もジョセフソン素子を使った研究を続けてきました。2001年からはNECとの兼務で、理研フロンティア研究システム(当時)に発足した単量子操作研究グループに、量子コヒーレンス研究チームを率いて加わりました。そして、NECをこの春に定年退職。40年近く研究をしてきても、まだやるべきことが山ほどあります。ジョセフソン素子はとても奥が深く、大きな可能性があるのです」

量子コンピュータは簡単にはできない

 ジョセフソン素子の可能性とは? 「量子コンピュータのビットとして使えるのです」と蔡TL。“ビット”とはコンピュータの情報処理の基本単位であり、それを組み合わせて演算を行う。普通のコンピュータでは、1個のビットは“0”か“1”か、どちらかの状態しか取れない。一方、ジョセフソン素子をビットとして使えば、重ね合わせによって1個のビットが“0”と“1”の二つの状態を同時に実現することができるので、情報量は倍になる。さらに、重ね合わせ状態にある複数の波を相互作用させる“絡み合わせ”によって、情報量は急激に増加する。ビットが2個であれば、“00”“01”“10”“11”という四つの状態が同時に存在することができるので、情報量は4倍だ。N個のビットがあれば2のN乗通りを一度に演算できる。そのため量子コンピュータは、現在のスーパーコンピュータで数千年もかかる300桁の素因数分解をわずか数十秒で解くことができる、夢のコンピュータといわれている。
 量子コンピュータの始まりは1980年代だ。当時は量子コヒーレントを用いた演算が可能という原理が示されただけで、大きな発展もなかった。それが1994年、量子コンピュータを使って素因数分解を効率的に行う演算手順(アルゴリズム)が発見され、夢が現実味を帯びてきた。そして、蔡TLらが1999年に量子重ね合わせ、2003年に量子絡み合い、そして2007年には二つの量子ビットを結合回路でつないだ演算回路も実現。最近では、蔡TLらの量子ビットとは異なるタイプの量子ビットも製作されるようになった。量子コンピュータの実現が近いのではないかと、期待が高まっている。
 しかし、蔡TLは「量子コンピュータは、そう簡単にはできません」と言う。課題の一つが、量子コヒーレントの継続時間だ。演算を行えるのは量子コヒーレントが継続している間だけだ。量子コヒーレントは、外からの雑音などによってすぐに壊れてしまう。それでも蔡TLらは、数十マイクロ秒〜ミリ秒間、継続させることができるようになってきた。これは世界トップレベルだ。
 「回路やパルスの当て方を変えてみたら、たまたま継続時間が延びた。どの研究グループも、そんな状況です」。そうした中、蔡TLらは2011年、量子ビットに影響を及ぼす雑音を詳しく測定することに成功。「雑音の特性を詳細に知れば、雑音がどこから来るのか、その手掛かりが得られるでしょう。局所的な磁束のゆらぎが関わっているらしいことも分かってきました。継続時間が制限されている原因を明らかにし、その延長を目指します」
 もう一つの課題が集積化だ。現在のコンピュータでは1枚のチップの上にビットを数億個も並べて演算速度を上げている。「量子ビットにはイオンや分子、光子を使うものもありますが、私たちの素子は固体です。固体素子の量子ビットは集積化がイオンなどに比べて容易です。しかし、私たちがつなぐことができたのは、まだ数個。少なくとも数百個の量子ビットを集積する必要があります」
 量子コンピュータ実現の見込みは?「量子コンピュータの実現はとても難しいことが分かってきました。一方で、実現には何が必要かも分かってきた。その課題を地道な努力で解決していくだけです。そして重要なのは、私たち物理の研究者だけでは量子コンピュータをつくれないということ。物理学者は、どれだけ難しいか、基本的なことを調べます。この先は、工学の研究者の手助けが必要です」

人工原子でレーザーを発振

図2 人工原子を用いたレーザー発振システム
図2 人工原子を用いたレーザー発振システム
人工原子である量子ビット(点線部分、一部しか見えていない)と共振器をコンデンサーで強く結合してある。プローブ電極から量子ビットに電流を流すと、光子が共振器に放出される。光子は、共振器の二つのスリット(右のスリットは見えていない)の間を往復して増幅され、レーザーが発振する。

 「量子ビットというと量子コンピュータと結び付けて考えられることが多いのですが、量子ビットを巨大な“人工原子”と見立てて、さまざまな研究に使っています」と蔡TL。
 原子は、原子核とその周りを回る電子から成る。電子は自由に回っているのではなく、軌道が決まっている。その軌道はとびとびで、外側ほど高いエネルギーを持つ。一方、量子ビットは、原子核を持たないが電子の動きは制限され、その軌道とエネルギーは自然の原子と似ている。「原子を人工原子に変えることで、今までできなかったことが可能になります。まず、光との相互作用に注目しました」
 原子と光の相互作用を利用した代表的なものが、レーザーである。原子に光を当てると、電子は光のエネルギーを受け取り、一つ上の軌道にたたき上げられる。しばらくすると元の軌道に戻るが、そのとき電子は差分のエネルギーに対応した波長の光子を放出する。その光を向かい合った鏡などの共振器で増幅させて取り出した光が、レーザーである。
 レーザーは加工など、さまざまな用途に使われているが、発振装置が大掛かりな上にとても複雑である。それは、原子が小さく、かつ共振器との相互作用が弱いため、多くの原子が必要となるからだ。「レーザー発振装置を単純化できれば、用途が広がるでしょう。究極は1個の原子からレーザーを発振する単原子レーザーですが、実現は極めて困難だといわれてきました。それを、私たちは人工原子で簡単に実現したのです」。蔡TLらは、量子ビット1個と共振器を微細加工技術によって強く結合させることで相互作用を高めた発振システムを構築(図2)。そして2007年、量子ビットにマイクロ波を当てて放出された光子を利用して、マイクロ波領域のレーザー発振に世界で初めて成功した。
 「量子ビットを人工原子として使うことで、新しい量子光学デバイスが実現するのです。2010年には、量子ビットが光スイッチとして動作することも発見しました。量子ビットを並べることで新しい機能を持つ物質をつくることもできます。また、“人工原子量子音響学”の研究を始めています。音は振動という波ですが、微視的な世界では粒子として振る舞い、“音子(おんし)(フォノン)”と呼ばれます。量子ビットに機械的な振動を与えることで、音子のレーザーを実現できるかもしれません」
 音子のレーザーは、どんな用途があるのだろうか。「分かりません」と蔡TL。「レーザーを発明した人だって、それが何に使えるのか分からなかったと思いますよ。私たち物理学者は、新しい現象を発見し、それを理解するのが仕事です。用途を考えるのは使う人。音子のレーザーも、きっと驚くような用途があるはずです」

磁束が超伝導細線をすり抜ける現象を確認

 最後に、今年4月に発表した研究成果を紹介しよう。「物理学には“双対(そうつい)”という言葉があります。裏返しの関係にあることを示します。ジョセフソン効果によって電荷が絶縁体をすり抜けられるのならば、その双対な現象、つまり磁束が超伝導体をすり抜けることもできるはずです。この現象は“コヒーレント量子位相スリップ効果”(タイトル図A)と呼ばれ、以前から予言されていたものです。今回、私たちが初めてその実証に成功しました」
 蔡TLらは、酸化インジウム薄膜で超伝導ループと細線を組み合わせた量子ビットを作製(タイトル図B)。これに磁場とマイクロ波を外部から与えたところ、磁束が細線部分をすり抜けたことを確認した(タイトル図C)。
 「超伝導現象の発見は1911年。ジョセフソン効果が発見されたのは、その51年後の1962年。そして、その50年後の2012年にコヒーレント量子位相スリップ効果を発見。不思議な縁を感じます」。さらに蔡TLは、「この成果は、“量子電流標準”を構築するというとても大きな意味があります」と言う。時間や長さ、質量などは国際単位系(SI)で標準が定められている。これまで、ジョセフソン効果によって“量子電圧標準”が、量子ホール効果によって“量子抵抗標準”が構築されている。量子電流標準はないので、量子電流の値は現在、量子電圧標準を量子抵抗標準で割ったもので定義している。今回、コヒーレント量子位相スリップ効果によって量子電流標準を構築できれば、量子電圧・量子抵抗・量子電流の“量子三角形”という完結した量子電気標準系が実現できることになる。
 ジョセフソン効果を発見したブライアン・ジョセフソンは1973年に、量子ホール効果を発見したクラウス・フォン・クリッツィングは1985年に、それぞれノーベル物理学賞を受賞している。コヒーレント量子位相スリップ効果の発見が、いかに大きな成果かが分かるだろう。「量子電流標準の構築に向けた研究を進めています。とても難しい実験ですが、やり遂げたいですね」
 研究が、ジョセフソン効果からコヒーレント量子位相スリップ効果へと広がった。蔡TLにとって研究のゴールとは? 「工学であれば、このシステムをつくる、というのがゴール。でも、物理学はいろいろなものを発見すること。発見は思ってもいなかったことで起きるので、ゴールはないんじゃないかな。だから、これからも走り続けます」