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[理研ニュース 2011年1月号]

研究最前線

ナノの世界の本質に迫り、応用へつなげる

約10年前から、物質をナノ(10億分の1)メートルのスケールで制御する技術“ナノテクノロジー”が社会の大きな期待を集め、世界中で盛んに研究が行われてきた。「しかし、これまでの研究成果が社会の期待に及ばず、期待がしぼみかけています。ナノメートルという分子スケールの世界では、実際に何が起きているのか──。ナノの世界の本質に迫る実験は極めて難しいのです」。こう語る金 有洙(キム ユウス) 准主任研究員は、物質表面上の分子1個ずつの性質を調べる独自の技術を開発。その技術を駆使してナノサイエンスをさらに切り拓き、有機太陽電池や光触媒などへの応用につなげようとしている。

金 有洙 Kim表面界面科学研究室 基幹研究所

化学反応を分子1個レベルで見たい


 「中学校で、H2O→H2+1/2O2という水の電気分解の化学式を習いました。なぜ酸素ガス(O2)が1/2になるのか不思議に思い、先生に質問しました。すると“水を電気分解すると水素ガス(H2)と酸素ガスが2対1の割合で生成される。その比率に合わせるため、1/2になっている”と教えてくださいました。でも実際に、水分子1個を分解したらどうなるのか? その疑問を抱いたとき、分子1個ずつのスケールで化学反応の過程を見てみたいと思ったのです」
 その後、ソウル大学の化学科へ進学、大学院では電気化学を専攻した。「水の電気分解のように、電気回路によって溶液中の化学反応をコントロールして、その生成物から化学反応の過程を調べる実験をしていました。しかし、その方法では分子1個ずつがどのように化学反応しているのか分からないため、推測するしかありません」
 修士課程を修了した後、1996年に来日した金 准主任研究員は、“光触媒の父”と呼ばれる東京大学の藤嶋 昭 教授(現 東京理科大学 学長)のもとで研究を始めた。酸化チタンに光が当たると、その表面に付いた有機分子などが分解される。この酸化チタンのように、光が当たったときに化学反応を促進する物質が光触媒だ。「光触媒の研究を徹底的にやろうと思っていました。しかし、藤嶋教授から“君は理学系の出身なのだから、もっと基礎的な研究をしなさい”と指示を受け、光が物質表面に当たったときに起きる物理現象を研究することにしました」

分子1個に化学反応を引き起こす


 「1998年、博士課程3年生で結婚して間もないころに、衝撃的な論文を目にしました。STM(走査型トンネル顕微鏡)を使って分子1個の“分子振動”の観測に成功した、という論文です。“やりたかったのは、これだ!”と思いました」
 STMを使うと、物質表面を構成している原子1個1個の配列に対応した凹凸を見ること、つまり物質表面の微細構造を観察することができる。しかし、STMの機能はこれだけではない。分子振動から分子の種類を同定することもできるのだ。その仕組みを紹介しよう。
 まず、STMの探針と呼ばれる細い針を物質表面上の分子に近づけて電圧をかけると、探針と物質表面の間にトンネル電流が流れる(図1図2)。そのトンネル電流により、物質表面上の分子に電子が注入される。すると、分子を構成している原子同士の距離が伸び縮みする分子振動が起きる。電圧値ごとの分子振動の強度は、分子の種類や分子内の化学結合によって異なるため、分子振動を観測することで、分子の種類を同定できるという仕組みだ。
 「日本でSTMを使った研究ができる研究室を探したところ、藤嶋先生の紹介で理研の川合眞紀 主任研究員(現 理研理事)が率いる表面化学研究室(当時)を知ったのです」
 1999年に表面化学研究室の一員となった金 准主任研究員は、米田忠弘 研究員(現 東北大学教授)とともにSTMの技術開発を進めた。そして2002年、分子振動を観測し、分子の種類の同定に成功。さらに、分子の特定部位に電子を注入して、異なる分子に変化させることにも成功した(図3)。
 「炭素原子4個と水素原子8個からなるトランス-2-ブテン(C4H8)から、水素原子2個を切り離し、炭素原子4個と水素原子6個の1,3-ブタジエン(C4H6)をつくりました。STMを使って分子1個に対して意図した通りの化学反応を引き起こし、反応前後の分子の分子振動を観測して種類を同定することに、世界で初めて成功したのです」
 なぜ意図した通りの化学反応を引き起こすことができたのか。「私たちはパラジウム(Pd)の表面に分子を置きました。このPdが触媒となり、化学反応が促進されたのです。表面化学研究室は、もともと触媒の研究室です。物質表面上の分子や触媒に関する膨大な知識の蓄積があったからこその成果です」


STMの探針と物質(金属)表面上の分子のイメージ
STMの調整を行う金准主任研究員と分子1個の化学反応

分子1個ずつの動きを制御する

 STMによる分子振動の観測には、まだ解決すべき課題があった。「STMから分子に電子を注入すると、分子振動を観測する前に、移動してしまう分子があります。そのような不安定な分子をどうやって観測するのか、それが大問題でした」
 金 准主任研究員たちは、どのくらいのエネルギーの電子を注入すると分子が移動するのかを調べた。「すると、その分子が最も強く分子振動するエネルギーの電子を注入したときに、移動することが分かりました」。このような実験に基づき、分子の種類を同定することができる“アクションスペクトル測定法”を確立。「この測定法により、物質表面上の安定な分子から不安定な分子まであらゆる分子の種類を同定し、その性質を調べることが可能になりました」
 STMで電子を注入して分子が移動するとき、その方向には複数の可能性がある。「どの方向へ移動するかは制御できません。ただしそれは、STMの探針を分子の真上に置いた場合です。私たちは、探針を分子の斜め上に置き、探針と分子に働く静電気力を利用することで、分子の移動方向を制御することにも成功しました」
 金 准主任研究員たちは、その技術を用いて、分子を移動させて文字を描いた(図4)。1980年代末、STMにより分子を構成している原子を移動させて文字を描いた実験例があった。しかし、それは原子を引き付けた状態で探針を移動させたり、探針で原子を削ったりして描いた文字だった。「私たちは、物質表面上で分子自体を任意の方向に移動させて文字を描きました。この技術は、物質表面上の分子の性質や、電子と分子の相互作用を熟知していないと実現できません」
 これは将来、分子を並べてコンピュータなどの回路をつくることに応用できる可能性がある。

STMで分子を移動させて描いた文字

新しい反応経路で水分子1個を電気分解


 2009年、いよいよ金 准主任研究員は、中学生のころに思い描いた、水分子1個を電気分解する実験に取り組んだ。「水分子の分解には、H2O→2H+OとH2O→H+OHという二通りの反応経路があり得ます」
 H2O→2H+Oは酸素原子(O)から2個の水素原子(H)が引き離され、ばらばらになる反応だ。これは大きなエネルギーの電子を注入することで、すでに実現されている。難しいのは、酸素原子から水素原子1個だけを引き離すH2O→H+OHという反応だ。
 STMの探針から分子に電子が注入されると、分子振動が起き、励起(れいき)状態となる。その励起状態の持続時間(振動寿命)が長いと、振動によって分子をつくる原子同士の結合がちぎれ、化学反応が起きる確率が高くなる。「しかし、水分子を普通の金属表面上に置くと、振動寿命が短くなってしまい分解にまで至りません。それは水分子と金属表面が化学結合することで、STMから注入した電子のエネルギーが、金属表面へ吸い取られてしまうからです」
 水分子を金属ではなく絶縁体の表面に置くと、化学結合が起きないため、電子のエネルギーが吸い取られず振動寿命は長くなる。しかし、絶縁体なので、電圧をかけても探針からトンネル電流が流れない。「そこで私たちは、金属表面の上に、絶縁体の酸化マグネシウム(MgO)で原子2個分の厚さを持つ超薄膜をつくり、そこに水分子を置きました。すると、辛うじてトンネル電流が流れました」
 水分子の分解には、0.77eV以上のエネルギーの電子を注入する必要があることが理論的に見積もられている。しかしMgO超薄膜上では、0.45eVで分解が起きた。なぜ、半分程度のエネルギーで水分子が分解するのか。「電子のエネルギーが吸い取られずに振動寿命が長くなることで、最初に注入された電子によって励起状態になっている間に、次に注入された電子がさらに励起を起こす“振動の多段励起”が起きたのです」
 分解後にできたのはOHだった(図5)。「世界で初めて、物質表面上で水分子1個から水素原子1個を引き離すH2O→H+OHという反応経路で水を分解することに、成功したのです」
 この研究は、少ないエネルギーで水を分解して水素燃料を生み出す技術開発につながる可能性がある。

新しい反応経路での水分子1個の分解

有機太陽電池・光触媒の応用につなげる

 2010年、金 准主任研究員は理研基幹研究所にKim表面界面科学研究室を立ち上げた。「新しい研究テーマとして、光と物質の相互作用を探る研究を始めています。すでに多くの研究者がこのテーマの研究を進めてきました。しかし、分子を1個ずつ観測しながら光と物質の相互作用を調べた実験例はほとんどありません」
 具体的な研究対象の一つは、光触媒だ。「私は藤嶋先生の研究室で光触媒の研究を、常にそばで見ていました。理研で培った技術と経験をもとに、今度こそ自分の手で光触媒の本質に迫りたいと考えています」
 分子1個のスケールで見たとき、酸化チタン上のどこで光触媒反応が起きるのか、分かっていなかった。「長年、酸化チタンの表面上で、酸素が抜けた欠陥部分に電子が集まり、光触媒反応が起きると考えられてきました。しかし、私たちはSTMを使った実験により、実際には欠陥の周りの広い範囲に、光触媒反応を引き起こすと考えられる電子状態が広がっていることを明らかにしました」
 Kim表面界面科学研究室では、有機太陽電池の研究も進めている。「どのような種類の分子をどのように並べると発電効率が高くなるのか。世界中の研究者が、分子を1個ずつ観測しながら調べる実験を行いたいと考えてきました。しかし、それは技術的に難しく実現できなかったのです。私たちがこれまで蓄積してきたSTM技術を用いれば、そのような実験を行うことができます」

サイエンジニアリング研究を受け継ぐ

 「これまで私は、化学の本質に迫る研究に集中してきました。これからは、本質から応用へつなげる研究も本格的に始めます。そう思うようになったきっかけは、理研基幹研究所 エネルギー変換研究チームの福島孝典チームリーダー(TL)との出会いです。福島TLは有機合成が専門で、あらゆる有機分子を合成することができます。彼と夢を語り合っていると、楽しくて仕方がありません」
 物質をナノメートルという分子1個ずつのスケールにすると、それまでとは異なる性質が現れる。その性質を利用するナノテクノロジーが、約10年前から大きな期待を集め、世界中で盛んに研究が行われてきた。
 「しかし、これまでの研究成果が社会の期待に及ばず、期待がしぼみかけています。ナノの世界では、実際に何が起きているのか。理論的な研究はたくさんありますが、分子1個ずつの性質や働きを直接観測することが技術的に難しかったことが、研究成果が出にくい原因です。これまでのナノテクノロジーの研究の多くは、メカニズムを十分に解明しないまま、応用研究が進められてきたのです。私は、STMを使って分子1個ずつの性質を調べ、ナノの世界の本質に迫るナノサイエンスを切り拓いていこうと思っています」
 金 准主任研究員は、「理研はナノサイエンスを組織的に始めた世界で最初の研究所です」と指摘する。「1993年、川合理事は、青野正和 主任研究員(現 物質・材料研究機構フェロー)、青柳克信 主任研究員(現 立命館大学教授)とともに、原子スケール・サイエンジニアリング研究推進グループを立ち上げました。まずサイエンスで本質に迫り、そこからエンジニアリングにつなげるという方針が、“サイエンジニアリング”という造語に示されています。私はKim表面界面科学研究室を、サイエンジニアリング研究を受け継ぐ研究室にしていきたいと考えています」