私たちの体は、アミノ酸がつながったタンパク質や、核酸(DNAやRNA)などでできている。それら生命の材料が、約10K(ケルビン)(約−263℃)という極低温の宇宙空間で合成されているかもしれない。その発見を目指して、巨大な望遠鏡を使った天文観測がすでに始まっている。しかし、宇宙空間でアミノ酸や核酸のような分子がどのようにしてできるのか、その化学合成の過程を地上の実験で再現することはとても難しかった。2009年4月、理研に研究室を立ち上げた東(あずま) 俊行 主任研究員たちは現在、その実験を可能にする装置の製作を進めている(タイトル図)。2012年に完成予定のその実験装置を使い、原子や分子の本質に迫る研究が、間もなく始まろうとしている。

分子雲を再現できる世界初の静電型イオン蓄積リング
生成した分子ビームをこの装置に導き入れ、真空容器内のリングで周回させる。極低温冷凍機により10Kまで真空容器を冷やすことにより、分子雲で起きる化学合成を再現することができる。リング1周は約3m。
暗黒星雲で進む化学合成

図1 オリオン座の暗黒星雲「馬頭星雲」とアミノ酸の一種「グリシン」の分子模型
写真提供:NASA, NOAO, ESA and The Hubble Heritage Team (STScI/AURA)
天の川では無数の星々が輝いている。しかし、所々に黒い染みのようになって星がまったく見えない場所がある。その正体は暗黒星雲だ(図1)。
20世紀後半、宇宙からの電波を観測する電波天文学により、暗黒星雲にはさまざまな種類の分子が存在することが分かってきた。暗黒星雲は、星と星の間に広がる真空の星間(せいかん)空間に分子が集まってできた分子雲(うん)であり、それが背後の星からの光を遮るため真っ黒に見えるのだ。分子雲は、10K(約−263℃)ほどの極低温の世界だ。
「分子雲といっても星間分子の密度はとても低く、真空中にまばらにあるといったイメージです」と東 俊行 主任研究員。「ほとんどの星間分子は電気的に中性か、正イオンの状態です。そして中性の分子と正イオンがゆっくりと衝突して化学反応が起き、新しい分子がつくられています。私は、その化学反応の過程を調べたいのです。しかし、地上で衝突エネルギーを抑えた実験を行うのはとても難しかったのです」
従来、原子の中心にある原子核を真空中で加速してビームを発生させ、標的に衝突させたりすることで、原子核の性質や構造を調べるさまざまな実験が行われてきた。例えば、2006年に稼働を開始した理研の“RIビームファクトリー(RIBF)”は、水素からウランまで自然界にある全元素の原子核を、世界最大強度のビームとして発生させることができる加速器施設だ。RIBFでは、重い元素がどのように誕生するのかを調べる実験が行われている。
「RIBFのような加速器では、強力な磁場により原子核ビームの軌道を制御して実験を行っています。しかし、RIBFをもってしても、多数の原子から構成される大きな分子になると重過ぎて軌道を制御することができません。大きな分子のビームの軌道を制御するにはさらに強力な磁場を生み出す巨大な磁石が必要となり、現実的ではありません。これまでの磁場を使った装置で制御できた分子ビームは、せいぜい水分子のような3個の原子からできた分子程度まででした」
電場で分子を操る
1997年、デンマーク・オーフス大学のS. P. メラー博士が、電極が生み出す電場を使って大きな分子のビームを発生させて周回させる“静電型イオン蓄積リング”を開発した。「私たちは分子の実験でも磁場が必要だと思い込んでいましたが、電場を使えばよかったのです。それはコロンブスの卵のような発想の転換でした」
電場を使えば大きな分子ビームを制御できることは、以前から知られていた。「ただし、電場では高速ビームの軌道を制御することはできません。極めて小さい原子核などの実験では、ビームを光速近くまで加速します。その高速ビームの軌道を制御するには磁場が必要です。しかし、原子核よりも大きい原子や分子を調べる実験では、ビームをそれほど加速しません。低速ビームならば、電場でも軌道を制御できます。そのことに、メラー博士は気付いたのです」
しかし、電場で分子を扱うには、正もしくは負の電荷を持つイオンにしなければならない。「タンパク質のような巨大な分子にレーザーを当てて、壊すことなくイオン化する素晴らしい技術がすでに発明されています(マトリックス支援レーザー脱離法)。(株)島津製作所の田中耕一さんが質量分析器のために開発した技術です。また、対象の分子を溶かし込んだ溶液をスプレー状にして帯電させることでもイオン化できることを、米国のJ. B. フェン氏が見いだしました (エレクトロスプレー法)。それらの発明により、田中さんやフェン氏は2002年のノーベル化学賞を受賞しました」
静電型イオン蓄積リングの第2号は日本の高エネルギー加速器研究開発機構が2002年に製作した。「当時、首都大学東京にいた私は、世界で3番目の装置をつくることにしました。前の2基と同じような装置では、独創的な実験はできません。私は装置を小型化して自分たちの実験室に入るようにしました。そして、装置全体を極低温に冷やし、宇宙空間に近い環境で実験できるようにしたのです」
2003年、東主任研究員たちは液体窒素で77K(約−196℃)まで冷やして実験することができる世界初の静電型イオン蓄積リング“TMU E-ring”を完成させた(図2)。
宇宙空間の化学合成を地上で再現
最近の天文観測により、従来の星間分子に関する定説を覆す発見があった。負イオンの分子が宇宙に存在していることが確認されたのだ。「水溶液の中では負イオンの分子は周りの水分子によって安定化するため生成されやすいのですが、真空中ではそのような効果がないため負イオンの分子は極めて不安定です。従って、宇宙では負イオンの分子は存在していないだろうと考えられてきました」
発見されたのは、炭素(C)4個に水素(H)が1個付いたC4H−や、炭素6個に水素が1個付いたC6H−などだった。「私たちはそれらの負イオンの分子をTMU E-ringによって真空中で周回させて、どれくらい安定なのかを計測しました。その結果、C4H− やC6H−を周回させた数秒の間、ずっと安定に存在することを確認しました」
また、2010年には米国のスピッツァー宇宙望遠鏡の観測により、宇宙でフラーレン(C60)が発見された。C60は炭素60個で構成されるサッカーボール形の分子だ。1985年、英国のH. W. クロトー博士たちは宇宙の星間分子を合成する研究でC60を発見、1996年のノーベル化学賞を受賞した。「そのC60が実際に宇宙で合成されていたのです。C60は何万Kという宇宙の高温領域でつくられた分子が、極低温に冷える過程できれいなサッカーボール形になると考えられています。私たちはTMU E-ringでC60のイオンを周回させ、レーザーを当てて高温に加熱し、冷えていく過程を調べています。このような実験により、C60が宇宙でできる過程の一部を再現することができます」
宇宙における生命誕生の謎を探る

図3 理研で開発中の静電型イオン蓄積リングによる実験例
小さな分子や生体分子などの大きな分子を、向きをそろえたビームとして周回させ、そのビームの真横からアト秒レーザーを当てて壊す。壊れた破片を検出器で捉えることにより、元の分子の形を調べることができる。
2011年、日米欧などが共同でチリに建設を進めている巨大望遠鏡“アタカマ大型ミリ波サブミリ波干渉計(ALMA(アルマ))”での観測が開始された。ALMAは2013年までに完成し、本格的な観測が始まる。ALMAの大きな目的の一つは、生命の材料であるアミノ酸や核酸を宇宙で見つけることだ(図1)。地球に降り注ぐ隕石(いんせき)からは、アミノ酸や核酸が見つかっている。しかし、分子雲などの星間空間からは確かな報告例がない。
「分子雲の中で、アミノ酸や核酸がたくさんできている可能性があります。では、どのようにしてできるのか。私は、約10Kという極低温の宇宙で進む化学合成を、地上の実験室で再現してみたいのです。それを実現するため、2009年に理研に来ました」
東主任研究員たちは、真空容器全体を液体ヘリウムの温度である4K(−269℃)まで冷やすことのできる静電型イオン蓄積リングの開発を目指した。「当初、TMU E-ringとの大きな違いは、液体窒素で77Kまで冷やすか、液体ヘリウムで4Kまで冷やすかだと簡単に考えていました。しかし4Kまで冷やす装置の開発は、77Kまでのものと比べてとても難しいことが分かってきました」
超伝導コイルをそのまま液体ヘリウムに浸した装置や、小さな真空容器を極低温に冷やして実験する装置はこれまでもあった。「しかし私たちが製作中の真空容器は1周約3mもあります。このような大きな真空容器を液体ヘリウムで冷やした上で実験を行う装置は、今までありませんでした。私たちは液体ヘリウムで冷やすのではなく、極低温冷凍機により10Kを実現することにしました。また極低温の厳しい条件で真空を保つことができる材料がなかなか見つかりませんでしたが、さまざまな材料で試験を行い、つい最近、ようやくうまくいくめどが立ちました。2012年に装置を完成させて、実験を始める予定です」(タイトル図)
ドイツやスウェーデンの研究グループも2013年の完成を目指して、液体ヘリウム温度まで冷却する静電型イオン蓄積リングの製作を進めている。さらに米国やフランスにも同様の計画がある。「ライバルが増え、競争が激しくなるでしょう。ただし、私たちには強力な味方がいます。理研には、液体ヘリウムを用いる超伝導、大きな分子をイオン化する質量分析、レーザーや分光、低温科学、加速器などの専門家がそろっています。私たちの実験に欠かせないさまざまな分野の世界最先端の研究者が協力してくれるのです。例えば、私たちの新しい装置には、理研基幹研究所の緑川レーザー物理工学研究室が開発したアト秒(100京分の1=10−18秒)という最先端のレーザー技術を取り入れています。ほかでは実現の難しい、独創的な実験を進めるつもりです」(図3)
東主任研究員たちは、新しい装置により約10Kの真空中で中性の分子と正イオンをゆっくりと衝突させ、アミノ酸や核酸が合成される過程を再現する計画だ。「さらに極低温ではアミノ酸や核酸が出す電波信号(吸収スペクトル)を極めて精密に測定することも可能です。その測定データを天文学者に提供することにより、ALMAなどで分子雲からアミノ酸や核酸を発見することができるかもしれません。私たちはシンポジウムなどを開催し、天文学者との交流も深めています」
分子雲では、真空中だけでなく浮遊している氷の微粒子の表面でも化学合成が起きると考えられている。北海道大学低温科学研究所の渡部直樹教授たちは、その化学合成を地上で再現する実験を進めている。「渡部教授は都立大学(現・首都大学東京)の出身です。私たちは日々交流しながら、研究を進めています」
このような研究が進展すれば、宇宙で生命の材料がどれくらい合成されているかが分かってくる。「それは、宇宙における生命誕生を探る上で重要な知見となります」
極低温の真空中で原子や分子の本質が見えてくる

図4 分子雲における炭化水素の合成過程
炭素がつながった炭化水素がどのような過程を経て合成されるのか、東主任研究員たちは開発中の静電型イオン蓄積リングで再現しようとしている。
出典:山本智「分子の生い立ち」(『化学のすすめ』筑摩書房)
「私の本来の興味は、原子や分子の基本的な性質です。原子や分子には、まだよく分かっていないことが多いのです。例えば、宇宙で最初の水素分子がどのようにできたのか、そのメカニズムや合成の速度はまだ大きな謎です」
宇宙誕生のビッグバンで、電子や、水素の原子核そのものである陽子がつくられた。そして宇宙誕生から約38万年後、陽子と電子が結び付いて水素原子ができた。「その水素原子が衝突して水素分子がつくられ、宇宙で最初の星の材料となったと仮定すると、水素分子がつくられるとき、水素原子が持っていたエネルギーの一部を光のエネルギーとして捨てる必要があります。しかしそれは困難であることが、すでに分かっています。では極低温の環境下で、どうやって合成されたのか、その速度はどれくらいなのかが、まだ完全には分かっていません。アミノ酸やC60のような大きな分子だけでなく、水素分子のような小さな分子の反応でもよく分かっていないことが多いのです。私は新しい装置で、炭素を1個ずつつなげて、炭素5〜6個からなる炭化水素をつくる実験を行う予定です(図4)。炭化水素は天文観測で見つかっていますが、極低温の真空中でどのような速度で合成されるのか、よく分かっていません」
これまで原子や分子の性質は主に、溶液中や基板上で調べられてきた。「しかし、溶液の温度を厳密に設定しても、分子同士はさまざまなスピードで衝突して化学反応が起きます。また周囲の水分子などの影響も受けます。基板上の実験でも、基板からの影響は排除できません。静電型イオン蓄積リングを使えば、真空中で特定のスピード、つまり特定のエネルギーで分子を衝突させたり、特定のエネルギーのレーザーや電子を分子に当てたりしたときの反応を調べることができます。ほかの影響を排除して、原子や分子の性質を精密に測定することができるのです。このような精密測定により、従来の理論では説明できない現象が見つかる可能性もあります」
静電型イオン蓄積リングは将来、さらに小型化が進むはずだと東主任研究員は予測している。「原理的に小型化が可能なので、テーブルに置けるくらいの小さな装置にできるかもしれません。現在は、世界でも数グループしか静電型イオン蓄積リングによる実験を行っていません。小型な装置が製品として販売されるようになれば、たくさんの研究者がそれを使ってさまざまな実験を行えるようになるでしょう。調べるべき原子や分子、化学反応は山ほどあります」
原子や分子の本質に迫る研究は、これから大きな発展期を迎える。東主任研究員はその新しい時代への扉を開こうとしている。
(取材・執筆:立山 晃/フォトンクリエイト)


