将棋プロ棋士は刻々と変化する局面の何手も先を読み、最善の一手を導き出す。
また、経験豊富な放射線科医はMRI画像から的確な診断を下し、熟練した会計士は一見矛盾のない帳簿の偽装を一目で見抜く。エキスパートは素人にはない直観を発揮するが、彼らは先天的に特別な脳を持っているわけではない。長年の鍛練で大脳皮質と大脳基底核が鍛えられ、直観を導く神経回路として結実したのである。
理研脳科学総合研究センター 認知機能表現研究チームは、2007年から行われてきたプロジェクト"将棋における脳内活動の探索研究"の一環で、これまで思考に関与するとはあまり考えられていなかった大脳基底核が直観の創出に大きく関与していることを発見した。



1951年、東京都生まれ。医学博士。大阪大学基礎工学研究科修士課程修了。日本放送協会放送科学基礎研究所研究員、理研フロンティア研究システム チームリーダー、理研情報科学研究室 主任研究員。1997年、理研脳科学総合研究センター グループディレクター兼チームリーダー。2003年より同研究センター副センター長兼任。主な研究テーマは、物体の視覚認識のメカニズム、目的指向的行動の制御のメカニズム、高空間分解能の機能的磁気共鳴画像法開発。
将棋プロ棋士を対象に直観のメカニズムを研究
直感と直観。同じ発音の言葉だが、意味は異なる。直感とは"inspiration"。降って沸くがごとくひらめくもので、誰にでも起こり得るが、極めて偶発的なものだ。一方、直観とは"intuition"。ひらめきのように見えても、実は冷静な状況分析や論理的思考の上に成り立つものだ。直観を働かせるには一定レベル以上の経験や知識が必要になる。
この直観のメカニズムを探求しているのが、"将棋における脳内活動の探索研究"、通称、将棋プロジェクトだ。これは理研脳科学総合研究センター(BSI)が(社)日本将棋連盟の協力の下、富士通(株)、(株)富士通研究所と共同で進めているプロジェクト。三つのチームに分かれて研究を行っており、山口陽子チームでは主に脳波に基づく研究を、伊藤正男チームでは主に心理学的実験を、そして、今回取材した田中啓治チームは、fMRI(機能的核磁気共鳴画像)を使って脳の活動を研究している。
世界レベルのトッププレイヤーの特別な能力
今年1月、田中チームは将棋プロジェクトとして初の学術論文を米国の科学雑誌『Science』に発表した。
「将棋のプロ棋士と、トップクラスのアマチュア棋士の脳活動の間に、劇的な差はないように思えるかもしれませんが、実験の結果、両者には決定的な違いがありました。プロ棋士は、盤面を瞬時に判断して最善の一手(最善手)を導き出す直観的思考のための神経回路を持っていたのです」と田中チームリーダー。
現在、日本には161人のプロ棋士がいる。そのほとんどは幼少期から将棋に親しみ、小中学生のころから本格的に腕を磨いて20歳前後でプロデビューを果たす。10代のほぼ10年間をどっぷり将棋漬けで過ごすわけだが、「この集中的な訓練期間があるからこそ直観が育つ」と田中チームリーダーは言う。
研究の詳細を紹介する前に、まずは過去の関連する研究成果を簡単に紹介しておこう。1940年代のオランダで、チェスの"読み"に関する実験が行われた。読みとは先々に指す手とゲーム展開を考えること。この精度が高ければゲームを有利に進められる。実験の結果、世界レベルのトッププレイヤーには、最善手の導き方に顕著な特徴が見られることがわかった。一般のプレイヤーでは、最善手を思いつくタイミングに目立った傾向はなかったが、世界レベルのプレイヤーは読みの初期段階で最善手を思いつく傾向が強く、直観によって最善手が導かれることが明らかになったのだ。
その後、世界レベルのトッププレイヤーはチェスの盤面を覚える短期記憶が優れていること、盤面をいくつかの部分(チャンク)に分けて記憶し、長期記憶と照らし合わせて最善手を呼び出していることなどがわかった。これら過去の知見は主に認知心理学に基づくものだが、田中チームでは脳科学的観点から、世界レベルのトッププレイヤーが特別な能力を発揮するメカニズムに迫った。

タイトル図:大脳基底核の尾状核
プロ棋士の直観的思考を司る重要な器官の一つ、大脳基底核は脳の内側にあり、大脳皮質や脳幹などにつながっている。大脳基底核はオタマジャクシのような形状の尾状核や、視床に情報を伝達する役目の淡蒼球などからなる。直観的思考の際に活動するのは尾状核の中でも前頭葉側にある尾状核頭部。楔前部から届く情報をもとに、長期記憶の情報なども組み合わせて「最善の一手」を直観的に導き出す。
似て非なる盤面も見分ける将棋プロ棋士の優れた知覚
将棋は、二人で対戦すること、駒の動かし方にルールがあること、最後は相手の王を追い詰めることなど、基本的な要素はチェスとほぼ同じだが、相手から奪った駒を再利用して盤面に置けるため、終盤になるほどチェスよりも局面のバリエーションが豊富となる。
最初に行ったのは知覚に関する実験だ。被験者となるプロ棋士とアマチュア棋士にはfMRIの中で0.2秒という、ごく短時間に映し出される画像を見てもらう。用意した画像は、将棋の序盤の盤面、終盤の盤面、ランダムに駒を並べた盤面、チェスの盤面、人の顔、風景など9種類。そして、それら画像を見たときに被験者の脳のどの部位が働くのか、fMRIの画像から割り出した。
「プロ棋士が将棋の序盤と終盤の画像を見たときにだけ、大脳皮質の楔前部(けつぜんぶ)の活動が活発になりました。ほかの画像を見たときや、アマチュアの被験者ではこの現象は起きていません。楔前部は空間視覚に関係する部位です。風景の中に動物などのイラストが溶け込んだ、"だまし絵"を見たことがありませんか。隠された像を認識するには、無関係に見える線や点を組み合わせ、ある塊として認知する必要があります。この空間視覚の能力と、盤面のチャンクを認識する能力は非常に近い関係にあると言えます」
チャンクの知覚に楔前部を使ったのはプロ棋士だけだった。人間の顔や風景はともかく、実際の対戦で絶対に見ることがない、無意味でランダムな盤面にも楔前部が反応しなかったということは、プロ棋士の盤面に対する知覚能力が際立って優れていることの証と言える。
大脳皮質の楔前部と大脳基底核の尾状核の相関性が重要
続いて、実験用につくった180問の詰将棋課題を使って直観的思考に関する実験を行った。問題が表示される時間はわずか1秒。そして、次の2秒で問題に答える。解答は四択で、"わからない"という選択肢も用意した。その後、被験者の解答に対する自信の有無の確認と、見覚えのある問題だったかどうかも答えてもらう。これらの結果と、解答の正否とを照らし合わせれば、調査結果の精度が高まる。つまり、勘でたまたま正解したのか、見覚えのある問題だから正解できたのか、直観的思考によって正解が導かれたのかが明らかになる。
「プロ棋士が直観的思考課題に取り組むとき、前頭連合野を始め大脳皮質のいくつかの領野と、大脳基底核にある尾状核(びじょうかく)の活動が認められました(タイトル図、図1)。大脳皮質は思考に関わる部位なので当然の結果ですが、大脳基底核は運動のコントロールに関わる部位と考えられていましたから、直観的思考の際に尾状核が活動したのは予想外でした」
直観的思考課題の後に、被験者にはコントロール(対照)課題に取り組んでもらった。直観的思考課題で得られたデータを正しく分析するベースとなるデータを得るためである。コントロール課題は問題を1秒見て2秒で答え、自信や見覚えを尋ねられるという流れは同じだが、盤面には相手の駒だけがあり、詰将棋ではなく、相手の"玉"の位置を答えてもらう。次の一手を考える課題ではないので、プロ棋士の場合、実戦的な盤面として知覚する大脳皮質の楔前部は働くが、直観的思考は必要ないため大脳基底核の尾状核は働かないはずだ。実際、コントロール課題中は楔前部が活動し、尾状核では活動がなかった。
図1:直観的課題でのプロ棋士とアマチュア棋士の脳活動の違い
プロ棋士とアマチュア棋士では直観的思考課題に取り組んでいるときの脳の活動が異なる。プロ棋士の場合は大脳皮質のほかに、脳のほぼ中心部にある大脳基底核の尾状核が活発に活動している(①)。直観的思考課題に取り組むプロ棋士の脳活動データから、コントロール課題で得たデータを差し引くと尾状核の活動だけが残る(②)。先々のゲーム展開を考える"読み"においてはプロとアマチュアの間に差はなかったが、最善手を導くまでのスピードはプロが格段に速かった。
「プロ棋士が直観的思考課題に取り組んでいるときの脳活動データから、コントロール課題のデータを差し引いたところ、はっきりと尾状核の活動を捉えることができました。一方、アマチュア棋士では、プロ棋士のような明白な尾状核の活動は見られませんでした(図1)」
さらに、プロ棋士には直観的思考課題よりも考える時間を長くした課題にも挑戦してもらった。直観的思考課題は問題表示が1秒で、正答率は平均70%程度。プロといえど、それだけの短時間で詰将棋を完全に解くのは容易ではない。そこで、被験者が間違えた問題を抽出し、最大8秒かけて解いてもらった。問題の後の2秒間で四択から選ぶという解答方式は同じである。このときの脳活動は大脳皮質のみ。大脳基底核の尾状核には活動が認められなかった。
以上の三つの課題に関するデータが今回の研究成果の要(かなめ)になるものだ。田中チームではこのデータを使って、知覚にかかわる大脳皮質の楔前部と、直観的思考にかかわる大脳基底核の尾状核の相関性を調べた。その結果、プロ棋士が直観的思考課題に取り組んでいるときは両者の相関性が高いことがわかった。コントロール課題中と比べると、2倍の強さがある。アマチュア棋士の場合は楔前部と尾状核の間に特異な相関性は見られない。このことから、楔前部と尾状核の相関性は、プロ棋士の直観的思考が働くための条件だということがわかる。
ベテランエンジニアの直観的思考のモデル化を目指す
大脳基底核は脳の内側にあり、行動や判断に関わる前頭連合野を含む大脳皮質とつながった部位である。その中の尾状核はオタマジャクシのような形をしていて、2匹のオタマジャクシが視床を挟むようにして存在する(タイトル図)。プロ棋士が直観的思考課題に挑戦しているときに確認された尾状核の活動は、主にオタマジャクシの身体の部分にあたる尾状核頭部で見られた。
ヒトをはじめとする霊長類は大脳皮質が発達している。アマチュア棋士が大脳基底核の尾状核を使っていなかったように、思考の際に大脳基底核はあまり重要ではない。むしろ大脳基底核は運動に関連する部位だと考えられている。例えば、パーキンソン病の運動機能障害はこの部位でのドーパミン不足が原因であることが知られている。
大脳皮質よりも大脳基底核が発達しているのはネズミなどのげっ歯類。大脳皮質が発達したヒトの脳と比べて、大脳基底核が優勢なネズミの脳は原始的だと言える。となると、大脳基底核を使って直観を働かせるプロ棋士の脳の活動は、"先祖返り"のようなものなのだろうか?
「能力に秀でたプロ棋士が、ある意味原始的な大脳基底核を活用しているのは逆説的かもしれません。ただ、実際には大脳皮質と大脳基底核の相関性があって初めて直観が働くわけですから、プロ棋士の脳が原始的なわけではありません。ちなみに、プロ棋士の大脳基底核の尾状核の活動の大きさを縦軸に、直観的思考課題の正答率を横軸にプロットすると、明らかな相関関係にあります。つまり、尾状核が活発に活動する人ほど、正答率が高いのです」
一連の研究成果からわかったプロ棋士の直観のプロセスは以下のようになる。(1)盤面を見る、(2)視覚情報が後頭部の視覚野を経て大脳皮質の楔前部に届く、(3)楔前部で盤面の情報(チャンク)として知覚される、(4)知覚情報が大脳基底核の尾状核に届く、(5)最善手が導かれる。文章で書くと面倒なイメージだが、現実には電気信号として一瞬のうちに伝わる(図2)。対局の際にプロ棋士が時間をかけて考えているのは最善手をひねり出すためではなく、直観で導かれた最善手を検証するためだという。
図2:盤面を素早く理解し次の最善手を直感的に導出する神経回路
将棋のエキスパートであるプロ棋士は盤面を素早く理解し、次に打つべき最善手を直観的に導き出せる特別な神経回路を持っている。その神経回路とは、目から入った視覚情報が視覚野へ届き、さらに楔前部に伝わって盤面の情報(チャンク)として知覚され、その知覚情報が尾状核に伝わって最善手を導くというもの。これまでエキスパートの直観は概念的に論ぜられてきたが、今回の研究成果によって関係する器官や具体的な回路が初めて明らかになった。
「先ほど述べたように、プロ棋士の多くは子どものころに将棋のトレーニングを毎日3〜4時間、およそ10年間にわたって受けています。その結果、楔前部や尾状核などが鍛えられ、この特別な神経回路が確立されます。そしてプロ棋士ならではの直観として機能するようになるのです」。田中チームリーダーは今回の研究の成果をこう結論付けた。20世紀半ば、海馬が記憶の中核的役割を担うことが明らかになって記憶の研究が一気に進んだように、この成果が脳科学を新しいステージに引き上げる可能性は十分考えられる。
「プロ棋士のようなエキスパートの能力を一朝一夕に身につけることはできません。やはり努力が必要です。また、プロ棋士の直観がチェスや囲碁など、ほかの分野にそのまま通じるわけではありません。ただ、これから研究が進めば、エキスパートの直観をモデル化できる可能性はあります」
共同研究先である富士通(株)および(株)富士通研究所は、こうした研究成果を、情報システムの安定運用に応用できないかと期待を寄せている。というのも、さまざまなIT機器で構成される情報システムは、近年大規模かつ複雑化しており、全体の構成をリアルタイムで捕捉することが困難となってきている。今後情報システムをより安定的に運用するためには、プロのシステムエンジニアの思考過程を研究していくことが重要になると考えているからだ。
情報システム以外にも、熟練のエンジニアの直観に頼っている分野は少なくない。例えば大型業務用機器などでトラブルが起きた場合、「理由はよくわからないが、○○さんが調整すると直る」という話は珍しくない。そうした熟練者の直観をモデル化し人材教育に生かせたら、エンジニアの技術レベルは格段に向上するだろう。将棋という究極の頭脳ゲームから得られた今回の研究成果は、そんなエキスパート教育の未来を切り拓くかもしれない。
(取材・構成/林愛子)