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[理研ニュース 2010年11月号]

研究最前線

脳の計算原理に迫る

ヒトは常に新しいことを学習し、環境変化に柔軟に適応できる──これを実現している脳は、どのような計算原理で動いているのか。「それはまだよく分かっていません。私たちは実験、データ解析、理論モデル構築を3本柱に、理論と実験を連携させて脳の計算原理に迫る研究を続けています」と深井朋樹チームリーダー。徐々に解明されつつある脳の計算原理、その最先端研究を紹介しよう。

深井朋樹 脳回路機能理論研究チーム 回路機能メカニズムコア 脳科学総合研究センター

脳の情報表現の仕組みが分からない

 脳では神経細胞が電気信号を発して、目や口、腕や足などに指令を送っている。そして脳内では、神経細胞が1000億個以上集まり、ほかの神経細胞とつながり合って、複雑な神経回路をつくっている。
 神経細胞が電気信号を発することを“発火”という。例えば、物を持ち上げるとき、脳の神経細胞はどのように発火して指令信号を腕の筋肉へ送るのか。
 「10kgの物を持ち上げるときには1秒間に10回、5kgでは5回というように、発火率が筋肉を動かす強さの情報に対応しているという説があります。また、10kgでは10個の神経細胞が同時に発火し、5kgでは5個が同時に発火する、つまり同期することが重要だという説もあります。ものを複雑に操る場合、多数の神経細胞が発火します。その発火する順番によって情報が表現されているのか、あるいは発火の時間間隔が重要なのか。脳科学が進展した今でも、脳がどのように情報を表現して処理しているのか、その仕組みはよく分かっていません」と深井朋樹チームリーダー(TL)。
 脳の情報表現の仕組みの解明が困難な大きな理由は、神経回路の構造が複雑なこと、そして神経細胞の活動をとらえるのが難しいことにある。これまで、神経細胞1個に電極を刺して発火を調べる実験が進められてきたが、脳の情報表現や情報処理の仕組みを調べるには、多数の神経細胞の活動を同時に計測して、時間的・空間的な発火パターンを分析する必要がある。しかし、このような計測ができる機器や手法はなく、実験が難しかった。また、神経細胞にはたくさんの種類があるが、種類を同定して計測することも難しかった。
 「そこで脳科学では、脳はこのように情報を表現して情報処理を行っているはずだ、という理論モデルをつくり、その中から脳の機能や実験データをうまく説明できるものを探る理論研究が進められてきました。しかし、これまで理論と実験の連携はあまり進んでいませんでした」
 それは、理論で予測した現象を実験で検証することや、理論モデルをつくるのに必要なデータを実験で計測することが難しかったからだ。「ところが、この10年で脳活動を計測する実験手法は急速に進展し、ここ数年、理論と実験が緊密に連携した研究が始まっています」

二つの実験手法を発展させた


 深井TLたちは脳活動をとらえるために、二つの手法を発展させた。一つは神経細胞の活動と種類を同定できる“傍(ぼう)細胞記録法”だ。この手法では、神経細胞に細いガラス電極を押し当てて発火をとらえた後、その神経細胞を色素で染色して種類を同定する。小さな細胞に電極を当てなければならないので、動物の頭が動かないように麻酔をかけて頭を固定する。しかし、これでは運動中に脳がさまざまな機能を発揮しているときの神経細胞の活動は分からない。
 「私たちは、傍細胞記録法を運動中の動物に用いることに成功しました(図1)。成功の秘けつは、ローテクです。実験対象のラットを筒に入れました。こうするとおとなしくなる習性があり、頭を動かさなくなるのです」
 もう一つの手法は、“多細胞記録法”だ。この手法では、4本の針がある電極を計測したい場所に刺して、複数の神経細胞の発火をとらえ、その活動を計測する。「多細胞記録法は、パーティーでの会話を4本のマイクで録音することに似ています。その録音データから、誰が何をしゃべっていたのかを、数学的な手法によって分離するのです。このような手法で、同時に活動する複数の神経細胞を調べることができます。私たちは精度の高いデータ分離法の開発に成功しました」(図2


傍細胞記録法の記録例

多細胞記録法の記録例とデータ解析例

大脳皮質の脳活動をとらえた

 こうして2009年、深井TLたちは発展させた二つの実験手法を併用し、大脳皮質の脳活動をとらえる画期的な実験に成功した。
 大脳皮質は、脳の中でも高度な情報処理をつかさどる領域である。その大脳皮質では、さまざまな種類の神経細胞が集まり、6層構造をつくっている(図3)。「しかし、神経細胞の活動が層ごとにどう違うのか、どのような情報処理が各層で行われているのか、それはよく分かっていませんでした」
 実験では、ラットがレバーを押し、その状態を1秒間以上保持し、その後レバーを引く、という一連の運動を行わせる。このときの大脳皮質において、筋肉に指令信号を送る領域である運動野(や)の神経細胞の活動を調べた(図1)。
 「分かったことの一つは、抑制性細胞の働き方です」。神経細胞には、接続先の神経細胞の発火を促進する“興奮性”と、逆に発火を抑える“抑制性”の2種類がある。「大脳皮質には、興奮性の神経細胞“錐体(すいたい)細胞”があります。錐体細胞の中でも、レバーを押すときにだけ働く細胞や、引くときにだけ働く細胞が見つかりました。抑制性の神経細胞は、このような興奮性の神経細胞の活動を遮断すると、長らく考えられていました。私たちの実験でいえば、レバーを保持しているときに働くと予測されたのです。ところが、実際には抑制性の神経細胞は、レバーを押すときや引くとき、つまり実際に運動を実行しているときにしか活動しませんでした。この結果は、抑制性の神経細胞は興奮性の神経細胞の活動を遮断するのではなく、その活動を微妙に調整していることを示唆しています。最近では多くの研究者が、大脳皮質では神経細胞が興奮と抑制のバランスを取りながら高度な機能を発揮している、と考え始めています」
 さらに深井TLたちは、精度の高い独自のデータ分離法により、大脳皮質の第2〜3層で10〜15個、第5層で20〜30個ほどの神経細胞の活動を分離することにも成功した(図2)。
 「個々の神経細胞ごとに活動を分析したところ、第2〜3層と第5層の神経細胞の活動に違いは見られませんでした。そこで私たちは、複数の神経細胞をまとめて見たときの活動パターンの特徴を、数学的な手法で抽出して分析しました」
 すると、第2〜3層の神経活動はレバー運動と関連性が低いこと、第5層の神経細胞の活動パターンはレバー運動と直結していることが分かった。「ところが、第2〜3層の神経活動データを0.2秒だけ時間を後ろにずらしてレバー運動と対応させてみると、関連性が少し高くなるのです。第5層は筋肉への指令信号を直接つくり出しているところ、第2〜3層は運動指令を出す前に、何らかの予測あるいは運動のイメージをつくり出しているのかもしれません」

大脳皮質の6層構造

脳が環境変化に柔軟に適応する仕組み

 「脳の最大の特徴は高い学習能力です。しかも脳は一度学習した方法を使い続けるのではなく、環境変化に合わせて再学習を行い、そのときの環境に柔軟に適応することができます」
 脳の学習には、神経細胞同士のつなぎ目“シナプス”の結合の強さが変化する現象が重要だと考えられている。その変化が起きるとき、次のような発火パターンのルールがあることが知られている。
 ①神経細胞Aが発火してBに情報を伝え、Bの発火が繰り返されると、AからBへのシナプスの伝達効率が高まり、結合が強くなる。逆に、②神経細胞Bが発火した後に、Aが発火してBへの情報伝達が繰り返されると、AからBへのシナプスの伝達効率が下がり、結合が弱くなる(図4)。「シナプス結合の強さを変化させるこの発火パターンのルールが、神経細胞のペアで実験的に確認されたのは1990年代末のことです」
 このような発火パターンの変化により、結合の強いシナプスがつくられ、神経回路に特定の“情報の通り道”ができる。それが、脳が“ある事柄を記憶した”ことに相当すると考えらえる。「しかし、このルールだけでは環境変化に合わせた再学習はできません」
 情報の通り道がいったん完成すると、結合の強いシナプスと弱いシナプスが固定化されるため、環境が変化したときに、情報の通り道の書き換えができなくなってしまうのだ。
 「シナプスの変化には、もう一つのルールがあることが、最近分かってきました」。実験技術の進展により、複数のシナプス結合の強さや、伝達効率の変化を調べることができるようになった。そして②のルールのとき、もともと結合の強かったシナプスほど伝達効率が大きく低下するという新しいルールが、実験により明らかになってきた。
 「しかし、このルールがあると結合の強いシナプスが存続できなくなります。脳の神経細胞はランダムに発火する傾向があります。シナプスの結合が弱くなる発火パターンが1回でも起きると、結合の強いシナプスの伝達効率が大きく低下して、記憶が保持できなくなってしまうのです」
 これは脳科学における難問だった。深井TLたちは最近、この難問を解決する理論モデルをつくることに成功した。「“結合の強いシナプスほど伝達効率が低下する”という傾向は、ある段階で下げ止まりになる、と私たちは仮定しました(図5)。この仮定のもとに理論モデルをつくって分析してみると、記憶を長く保持することができます。しかも環境が変化したときには、再学習が可能なことが分かりました」
 結合の強いシナプスほど伝達効率が低下するなら、結合の強いシナプスは存続できず記憶が保持できない。しかし、伝達効率の低下は適度なレベルで下げ止まるという深井TLたちの仮定に立つと、環境が変化しないときには強い結合のシナプスが生き残り、記憶が保持される。環境が変化したときには、伝達効率を下げる発火パターンが何回も起きて結合の強いシナプスの一部が弱くなる。そして別ルートのシナプスの結合が強くなる。こうして情報が通るルートが変わり、環境変化に合わせた再学習ができる。
 「私たちの仮定を支持する実験データも報告され始めています。現在、理論と実験がこのように密接に連携することで、脳の情報処理の研究が急速に進んでいます」


シナプス結合の強さが変化する発火パターンのルール

シナプス結合が弱くなる場合の伝達効率の低下傾向

脳を数学で理解する


 脳科学の理論研究には、強力な手段が間もなく登場する。理研が2012年の完成を目指して開発中の京速コンピュータ“京(けい)”だ。“京”は、10ペタフロップス(1秒間に10ペタ[10の16乗]=1京回の計算を行う)の計算性能を実現する。深井TLたちは大脳皮質で視覚情報を処理する視覚野の理論モデルをつくり、それを“京”で動かす予定だ。
 「大脳皮質では、10万個ほどの神経細胞が集まり、コラムと呼ばれる機能単位をつくっています。私たちは“京”を使って、視覚野のコラム同士の相互作用における神経細胞の活動をシミュレーションする計画です」
 さまざまな機能を持つ脳には、情報処理の仕組みも複数あるはずだ。「ただし、それらに共通する情報処理の普遍原理がある、と私は考えています。それを数学で理解し、“これらの方程式が脳の計算原理です”と示したいのです。そのために、私たちは新しい数学の開発も進めています」
 もし脳の計算原理を数学で理解できれば、それを工学に応用することも可能になる。「高度な学習能力を持ち、環境変化に柔軟に適応できる、人間のような脳を持ったロボットも夢ではなくなります」
 脳の計算原理はいつごろ解明できるのか。「以前は、私の生きているうちには無理だろうと思っていました。しかしこの10年、脳活動を計測する実験技術が飛躍的に向上し、脳科学は急進展しています。脳の計算原理が解明できる日は、それほど遠い未来ではないでしょう」