刊行物

[理研ニュース 2010年3月号]

研究最前線

こころや行動を支配する遺伝子を探す

記憶・学習、認知・思考など、ヒトの高度な能力は、進化の過程で大きく発達した脳によって実現している。性格や好み、行動パターン、感情など、こころに関係する働きも脳が生み出している。では、ヒトの脳はどのような遺伝子によって形成されるのか。そして人間特有のこころや高度な能力は、脳内でどのような遺伝子が働いて実現されているのか。理研脳科学総合研究センター(BSI)行動発達障害研究チームの有賀 純チームリーダーたちは、さまざまな生物の遺伝情報を比較したり、マウスの行動実験などから、脳で重要な働きをしている遺伝子を探し出し、その機能を解明しようとしている。この研究は、脳・神経系の疾患の原因解明や治療法の開発にもつながりつつある。

有賀 純

脳の奇形と関連する“ZIC遺伝子”を発見

 「高校生のころ、フロイトやユングなどの心理学の本を読みあさりました」と語る有賀 純チームリーダー(TL)。「やがて、高度な能力を持つヒトの脳に興味を持つようになり、医学部へ進みました」。医学部を卒業した有賀TLは1988年、大阪大学蛋白質研究所の御子柴(みこしば)克彦 博士(現・BSI発生神経生物研究チームTL)の研究室に入った。「ちょうど遺伝子を調べる手法が確立された時代でした。ヒトの脳の高度な能力を実現している遺伝子は何か。その遺伝子の働きが人間の本質に深く結び付いているはずだ。その働きを知りたい。それが研究者を志した動機です」
 御子柴研究室では、運動の学習などで重要な働きをする小脳の形成に関する研究が進められていた。「私は小脳が形成されるときに発現している遺伝子を調べる実験を担当しました。そして、際立って強く発現している遺伝子を発見したのです。これはきっと重要な遺伝子に違いないと思いました」。その直観は的中した。有賀TLたちが“ZIC(ジック)”と名付けたその遺伝子は、小脳だけでなく脳全体の形成に重要な役割を果たしていることが明らかになったのだ。
 脳の形成は、まず神経板という板状の神経組織がつくられ、それが丸まって神経管と呼ばれるチューブができるところから始まる。「最初に丸まった神経板の真ん中部分が閉じられます。そしてジッパーが前後に動くようにして閉じていき、神経管が完成します。この神経管の先端が次第に成長して複雑な脳が形成されるのです」
 有賀TLたちがZIC遺伝子を欠損させたマウスを作製したところ、そのマウスには前端あるいは後端が閉じ切っていない神経管の奇形が見られた。さらに左右の脳室が融合した奇形(全前脳胞症(ぜんぜんのうほうしょう))や小脳の奇形も見つかった。
 一方、米国の研究グループがヒトの遺伝子の解析により、ヒトZIC遺伝子の変異が全前脳胞症や小脳奇形と関連していることを突き止めた。「ZICという同じ遺伝子の変異が、ヒトとマウスでよく似た脳の奇形の原因となっていることが分かったのです」。その後、ZIC遺伝子の変異が、脳の奇形だけでなく、内臓の左右位置の異常(内臓不定位症)をも引き起こすことが明らかになった。

SLITRK1遺伝子”の欠損が不安・抑うつ傾向を引き起こす

マウスの行動実験に使われる高架式十字迷路
  ZIC遺伝子は、ほかの遺伝子の発現をコントロールする機能も持つ。「ヒトやマウスには5種類のZIC遺伝子があります。2003年、私たちはZIC遺伝子のいくつかの種類が“SLITRK(スリットラック)”という遺伝子の発現をコントロールしていることを発見しました」
 SLITRKは、細胞内の小器官を包む生体膜や細胞膜を貫通している膜タンパク質の遺伝子だ。「脳内には神経細胞がたくさんあり、神経細胞同士は突起を伸ばして情報をやりとりしています。SLITRK遺伝子がつくる膜タンパク質は、その神経突起の伸展にかかわるタンパク質と構造が似ていることから、この遺伝子もきっと重要なものに違いないと考え、研究を続けました」
 2005年、米国の研究グループが、ヒトやマウスにある6種類のSLITRK遺伝子のうち、SLITRK1遺伝子がトゥレット症候群(チック症)と関連していると発表した。トゥレット症候群は、主に小児期に発症し、運動チック(まばたきや舌打ちなど)と音声チック(せき払いやのど鳴らしなど)の両方が長期にわたって多様に現れる疾患だが、その原因となる遺伝子はほとんど分かっていなかった。「私たちはSLITRK1遺伝子を欠損させたマウスをつくることに成功しました。ところがそのマウスは一見正常に見えるのです。ZIC遺伝子欠損マウスには奇形が見られ、生まれてすぐに死んでしまうものも多いのですが、SLITRK1遺伝子欠損マウスは、大人に成長して子どもを産むこともできます」
 そこで有賀TLたちは、SLITRK1遺伝子欠損マウスの性質を行動実験で詳しく調べることにした。「マウスは言葉を話せないので、脳の機能を調べるには行動実験が有効です。そこで、BSI内の研究基盤センターに行動実験の依頼をしました。同センターに依頼すると、1〜2ヶ月にわたる基本的な行動実験を実施してもらうことができます。多数の行動実験を一つの研究室で行うのは容易ではありません。その後、私の研究チームの片山圭一研究員が精力的な追加実験を行い、SLITRK1遺伝子欠損マウスの行動異常の全体像が明らかになりました」
 行動実験の結果を二つ紹介しよう。一つは、片方の道だけに壁を付けた高架式十字迷路の中央にマウスを置く実験だ(図1)。通常、マウスは自分の置かれた状況を探るため、十字迷路を動き回る。SLITRK1遺伝子欠損マウスは、正常マウスに比べて、壁のない道にいる割合が少ない傾向が見られた。「多くの研究により、不安傾向の強いマウスほど壁のない道にいる割合が少なくなることが知られています」
 二つ目は、尾の先端にテープを付けてぶら下げる実験だ。最初マウスは必死にもがくが、そのうちあきらめて、ただぶら下がっている無動状態になる。「SLITRK1遺伝子欠損マウスは、この無動状態の時間が長いことが分かりました。このようなマウスには抑(よく)うつ傾向があることが認められています」
 このほか、さまざまな行動実験により、SLITRK1遺伝子欠損マウスは不安状態や抑うつ傾向が強いことが認められた。ヒトのトゥレット症候群も、不安・抑うつ傾向との関連が指摘されている。

臨床研究者との“キャッチボール”


 では、SLITRK1遺伝子欠損マウスの脳内で何が起きているのか。「BSIでユニットリーダーをしていたNiall Murphy(ナイル マーフィー)博士(現・カリフォルニア大学)が、そのマウスの前頭葉でノルアドレナリンの量が増えていることを見いだしました」。ノルアドレナリンは、神経細胞同士の情報伝達を担う神経伝達物質の一種だ。ノルアドレナリンやドーパミン、セロトニンなどの神経伝達物質は、脳の特定領域の神経細胞でつくられる。それらの神経細胞は脳の広い範囲に突起を伸ばして神経伝達物質を分泌することで、脳全体の働きを調節し、快・不快などの気分や行動パターンに影響を与えている。
 「ノルアドレナリンの量を調節するクロニジンという薬をSLITRK1遺伝子欠損マウスに投与して行動実験をしたところ、不安傾向が改善されました。このクロニジンはヒトのトゥレット症候群の治療薬として使われています」
 これらの結果から、SLITRK1遺伝子欠損マウスはトゥレット症候群のモデルマウスとして、その病因解明や治療法の開発に役立つと期待されている。
 「ZIC遺伝子やSLITRK遺伝子のように、私たちは脳の形成や機能に大きくかかわっている遺伝子を、マウスなどの実験動物を使って探しています。そうして見つけた遺伝子とヒトの疾患との関連を、臨床研究者が調べる。その後、その情報をもとに、私たちが実験動物でその遺伝子の機能をさらに詳しく調べる……。このように臨床研究者と“キャッチボール”することにより、私たちの研究はヒトの疾患の原因解明や治療法の開発に役立つものとなるのです」
 有賀TLたちは、すでに新しい“キャッチボール”を始めている。「2009年、ある臨床研究者がSLITRK2遺伝子と躁(そう)うつ病が関連しているという論文を発表しました。そして、私たちがSLITRK2遺伝子欠損マウスをつくり、行動実験をしたところ、そのマウスはとてもよく活動することが分かりました。つまり、躁状態と似た傾向を示すのです」
 さらにMurphy博士との共同研究により、このマウスは記憶にかかわる海馬や喜怒哀楽にかかわる扁桃(へんとう)体で、セロトニンの量が変化していることが分かった。「このセロトニン量の変化が活発な行動と関係していると考えられるので、私たちはヒトの躁うつ病で躁状態の予防に使われるリチウムなどの薬を投与してみました。しかし躁状態に似た傾向は改善されませんでした。本当にSLITRK2遺伝子と躁うつ病は関連しているのか、検証しているところです」

内耳の神経回路形成に重要な遺伝子を発見


 さらに2009年11月、有賀TLは片山研究員やフランス・モンペリエ大学のAzel Zine(エーゼル ジン)教授たちと、SLITRK6遺伝子が音をとらえる内耳の神経回路の形成に重要な役割を果たしていることも発見した。
 「片山研究員が作製したSLITRK6遺伝子を欠損させたマウスは、SLITRK1遺伝子欠損マウスのときと同じで正常に見えました。ちょうどそのころ、 Zine教授が私たちの研究チームに来て、2週間ほど研究していました。そして帰国直前に“SLITRK6遺伝子欠損マウスでこんな発見をしたよ”と突然発表し、私たちを驚かせたのです」
 Zine教授は内耳の専門家である。内耳の蝸牛(かぎゅう)という器官には音を感じ取る有毛細胞がある。その蝸牛に神経節の神経細胞が突起を伸ばして、有毛細胞がとらえた音の情報を脳内へ伝えている。「Zine教授は、神経細胞と有毛細胞を結ぶ突起の数が、SLITRK6遺伝子欠損マウスでは少なくなっていることを発見したのです」(図2
 なぜ突起の数が減ってしまったのか。神経回路が形成されるとき、有毛細胞から神経栄養物質が分泌され、それに誘導されるように神経節の神経細胞が突起を伸ばす。有賀TLたちは、SLITRK6遺伝子欠損マウスでは、その神経栄養物質の分泌量が減っていることを突き止めた。「それが突起の数が減った一つの原因だと考えられます。その証拠に、外部から神経節の神経細胞に神経栄養物質を与えると、突起の数がほぼ正常になりました」
 この研究は、内耳の機能不全を原因とする難聴のメカニズムの解明や治療法の開発に貢献すると期待されている。

SLITRK6遺伝子欠損マウスの蝸牛の神経回路

生物のゲノムを比較して重要な遺伝子を見つけ出す

 「ZIC遺伝子やSLITRK遺伝子は、それまでの研究の蓄積や直観により発見したといえます。私たちは、遺伝情報を網羅的・系統的に探索して、重要な遺伝子を探し出す研究も始めています」。どのような方法で重要な遺伝子を探し出すのか。「21世紀に入り、ヒトをはじめ、さまざまな生物のゲノム(全遺伝情報)の解読が進みました。2004年に理研で研究チームを立ち上げたとき、今の時代にしかできない方法で研究をしたいと思いました。そして、さまざまな生物のゲノムを比較すれば、ヒトの脳に重要な遺伝子が見えてくるのではないかと考えたのです」(図3
 ゲノムの比較をする中で有賀TLは、LRR(Leucine-Rich Repeat(ロイシン リッチ リピート))に注目した。LRRは、膜タンパク質を形づくる構造の一部であり、図4に示すような形をしている。「LRR構造を持つ膜タンパク質の種類は、ショウジョウバエや線虫など神経系を持つ多細胞動物に多く、特に脊椎(せきつい)動物で増えています。そして、その多くは脳の細胞で使われています。脳が大きくなる進化の過程、つまりヒトの脳の成り立ちにおいてLRR構造が重要な役割を果たしたのではないか、と私たちは考えています」
 ヒトやマウスではLRR構造を持つ膜タンパク質は100種類弱ある。その中には、統合失調症や側頭葉てんかん、強迫神経症など、精神疾患との関連を指摘されているものがある。SLITRK遺伝子がつくる膜タンパク質も、LRR構造を持つ。「私たちはLRR構造を持つ膜タンパク質の中で、まだ機能が知られていないものを調べています」
 この研究は、ヒトの遺伝子と精神疾患の関連を研究しているBSI分子精神科学研究チーム(吉川武男TL)と“キャッチボール”しながら進められている。
 「私たちの標的とした遺伝子がヒトの精神疾患と関連があるかどうか、吉川TLたちが調べています。逆に吉川TLたちが精神疾患の患者さんで見つけた遺伝子変異が病態と結び付くかどうか、私たちがその遺伝子を欠損させたマウスをつくり、行動実験などにより詳しく調べています。このようにBSI内でもキャッチボールすることで医療への貢献を目指しています。そして、最終的には人間の本質と深く結び付いている遺伝子を突き止めたいですね。高校生のときからの興味に、自分なりに納得できる答えを見いだしたいのです」

ヒトと脊椎動物のゲノムの比較
LRR構造