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[理研ニュース 2010年6月号]

研究最前線

運動の長期記憶がつくられる場所を発見

スポーツや楽器の演奏など、運動の技術は日々の練習によって身に付く。このような体で覚える“運動記憶”も脳内につくられる。「練習によって運動の新しい技術を覚えても、数時間後あるいは翌日にはほとんど忘れてしまいます。それは、運動記憶は最初、“短期記憶”しかできないからです。しかし、何日も練習を繰り返すと技術が身に付きます。“長期記憶”となるのです」。2006年、永雄総一チームリーダーたちは、運動の短期記憶が脳内の別の場所に移動して長期記憶がつくられることを発見した。「長期記憶の形成には運動をしているときではなく、休んでいるときの脳活動が重要であることが、最近分かってきました」。運動記憶の仕組みを探る研究は今、新しいステージへと進展している。

永雄総一

40年来の論争


 脳の記憶のもとは、神経細胞同士の信号の受け渡し場所であるシナプスの伝達効率の変化であると考えられている。1970年ごろ、運動記憶が小脳の神経回路につくられるという理論仮説が提唱された。その提唱者の一人が、理研脳科学総合研究センター(BSI)の伊藤正男 特別顧問だ。1982年、伊藤特別顧問は、小脳においてシナプスの伝達効率が長時間抑えられる“長期抑圧”という現象を実験により発見した。
 1984年、永雄総一チームリーダー(TL)は、東京大学医学部の教授だった伊藤特別顧問の研究室に助手として採用された。「それ以来、伊藤先生たちの理論仮説を実験的に検証し、さらに発展させる研究を続けてきました」
 まず、伊藤特別顧問たちが提唱した理論仮説を、眼球を動かす運動を例に紹介しよう(図1図2)。眼球を動かす指令信号を伝えるルートには二つある。一つ目は直接、延髄にある前庭核へ伝えるルート。二つ目は、平行線維→プルキンエ細胞→前庭核という小脳皮質を経由するルートだ。前庭核は、二つのルートから受け取った指令信号を情報処理して、それを運動神経へ伝える。そして運動神経の指令信号により眼球は動く。
 「1個のプルキンエ細胞には10万〜20万本もの平行線維が接続していて、異なる運動の指令信号は異なる平行線維を介してプルキンエ細胞へ伝わります。また、プルキンエ細胞には1本の登上線維が接続していて、運動がうまくいったかどうかの誤差信号が、眼球→下オリーブ核→登上線維というルートでプルキンエ細胞へ戻ります。運動がうまくいかなかったときには、その誤差信号が大きくなります。すると、平行線維とプルキンエ細胞をつなぐシナプスで指令信号の伝達効率が長時間抑えられる“長期抑圧”が起きます。運動がうまくいったときは、誤差信号が小さいので長期抑圧は起きません」
 こうして運動の結果に応じて長期抑圧が起きたり起きなかったりするため、プルキンエ細胞から前庭核に伝わる指令信号がダイナミックに変化する。「その変化に応じて、前庭核から運動神経へ伝わる指令信号が、運動がうまく行われるように調節されます。つまり、運動の記憶は長期抑圧により小脳皮質のプルキンエ細胞につくられる、というのが伊藤先生の理論仮説です」
 なお、小脳皮質の中でも進化的に最も古い領域(前庭小脳)のプルキンエ細胞は前庭核に突起を伸ばしているが、新しい領域(古小脳・新小脳)のプルキンエ細胞は小脳の奥にある小脳核へ突起を伸ばし、前述したものと同様の神経回路をつくっている。
 「伊藤先生たちの仮説には賛否両論があり、40年近くにわたり論争が続いてきました。代表的な反論は、小脳皮質のプルキンエ細胞は運動の記憶に必要な情報を伝えるが、運動の記憶がつくられる場所は前庭核や小脳核だ、というものです」

図1 運動の短期記憶と長期記憶
図2 運動記憶がつくられる場所

運動の長期記憶は前庭核や小脳核につくられる

  運動の記憶は小脳皮質のプルキンエ細胞につくられるのか、それとも前庭核や小脳核につくられるのか。2004年に理研BSIに運動学習制御研究チームを立ち上げた永雄TLは、2006年にその論争に決着をつける論文を発表した。
 永雄TLたちはまず、マウスを用いて眼球運動の記憶を調べる新しい実験システムをつくった。例えば、走る電車の車窓から外の景色が流れていくのを眺めると、景色の動きに合わせて眼球が無意識に動く。うまく動けば景色がぶれずに見える。この眼球運動(視機性眼球反応)の記憶を調べるため、マウスの目前にチェック模様のスクリーンを置き、それを波状に動かす。「1時間ほど練習すると、マウスの眼球も波状に動いてスクリーンの模様をうまく追えるようになります。眼球運動の効率が上がり、記憶がつくられるからです。しかし、練習後にマウスを暗い場所で飼育して翌日に運動の効率を調べると、練習前の状態に戻ってしまいます」
 1日だけの練習では、運動の記憶ができても、そのほとんどは数時間から1日くらいで消えてしまう。“短期記憶”しかつくられないのだ。「ところがマウスに毎日練習させると、運動効率が日を追うごとに少しずつ上がっていきます。1週間練習を続けて、その後練習をやめても、運動効率は練習前のレベル以上に2週間ほど維持されます(図3)。“長期記憶”がつくられたのです」
 このような運動の短期記憶と長期記憶は、どちらも小脳皮質のプルキンエ細胞につくられるのだろうか。「私たちは、4日目の練習を終えたマウスの小脳皮質に局所麻酔をして、その働きを止め、運動効率を調べました。すると、その日の練習前のレベルと同じでした。麻酔で小脳皮質の働きを止めても、前日までの3日間の練習で向上したレベルは維持されていたのです。このことは、長期記憶が小脳皮質とは別の場所につくられていることを示しています。一方、麻酔の直前の練習の効果は記憶できていないことから、短期記憶は小脳皮質のプルキンエ細胞につくられると考えられます」(図4
 そこで、永雄TLらは、長期記憶が前庭核につくられているかどうかを確かめる実験を行った。「その結果、運動の記憶は、小脳皮質か前庭核のどちらか一方につくられるのではなく、短期記憶は小脳皮質のプルキンエ細胞に、長期記憶は前庭核にと、それぞれ別の場所につくられることを発見しました。私たちがこの実験結果を発表した前後に、ほかの研究グループも異なる実験で同様の結果を報告しています。これでようやく40年来の論争に決着をつけることができました」
 小脳皮質の機能を止めて練習をさせると、短期記憶も長期記憶もつくられない。「運動記憶のスタートは、長期抑圧により小脳皮質のプルキンエ細胞に短期記憶ができることです。その短期記憶が、プルキンエ細胞が突起を伸ばしている前庭核に何らかの仕組みで移動して、長期記憶になります。また、プルキンエ細胞が小脳核に突起を伸ばしている神経回路では、長期記憶は小脳核につくられると考えられます」

図3 マウスを用いた視機性眼球反応の記憶
図4 小脳皮質の働きを止めたときの運動効率の変化

精緻な運動は長期記憶になりにくい


 体験した出来事や英単語のスペルなど言葉で説明できる情報の記憶は、大脳の奥にある海馬に短期記憶として蓄えられ、やがて大脳皮質に移動して長期記憶になると考えられている。「言葉で説明できる情報の短期記憶は、すぐに大脳皮質に移動して長期記憶になるわけではなく、2〜3週間くらいは海馬にあります。一方、小脳皮質のプルキンエ細胞につくられた運動の短期記憶は、数時間から数日で前庭核や小脳核へ移動して長期記憶になることを、私たちは明らかにしました」
 しかし、運動記憶については短期記憶のすべての情報が長期記憶になるわけではないことが分かってきた。永雄TLたちは、霊長類のサルを使って、精緻(せいち)な運動を記憶する実験を行った。「一定の速度で動いていた球を、0.1〜0.2秒だけ突然速くします。その動きを眼球で追いかける、とても難しい運動(滑動性(かつどうせい)追跡眼球運動)を記憶する実験です。サルは数十回練習しただけで、速度が速くなることを予測して眼球を動かすことができるようになります。しかし、このような精緻な運動の記憶は、10〜15分くらいで忘れてしまいます。覚えるのも早いのですが、忘れるのも早いのです。精緻な運動を、とても素早く記憶できることが、小脳皮質による運動の短期記憶の最大の長所です。例えば野球の打者は、初めて見た変化球でも何球か見るうちに、その動き方を記憶して打つことができるようになります。しかし、このような精緻な運動の記憶は、残念ながら長期記憶になりにくいことも分かってきました。短期記憶の大まかな情報だけが移動して、長期記憶として残ると考えられます」
 “体で覚えたこと”はなかなか忘れないといわれる。例えば自転車の乗り方を覚えると、長い間乗っていなくても、少し練習すれば前と同じように乗れるようになる。「運動の長期記憶は忘れにくい強固なものだと考えられます。ただし、長期記憶は大まかな情報だけなので、“少し練習すれば”が大事なのです。小脳皮質の働きにより精緻な運動を素早く記憶して、“勘を取り戻す”必要があるわけです。どんな一流の演奏家でも、コンサート前に演奏曲を練習しなければ、本番で実力を発揮することはできないはずです」
 なぜ、運動の記憶は短期と長期で別な場所につくられる必要があるのだろうか。「小脳皮質に特定の運動に関する精緻な情報を持ち続けていると、環境の変化に対応して運動の仕方を素早く変えることが難しくなります。そこで、運動の基本的な情報だけを別の場所(前庭核や小脳核)に移して長期記憶とし、小脳皮質は常に状況の変化に対応して精緻な運動を素早く記憶できる状態にしておくのでしょう」
 運動の記憶が短期と長期で別な場所につくられるという仕組みは、魚類から哺乳(ほにゅう)類まで脊椎(せきつい)動物に共通している。一方、無脊椎動物は、運動の短期記憶と長期記憶が神経回路の同じ場所につくられることが知られている。「これは脊椎動物と無脊椎動物を分ける、脳の仕組みの大きな違いといえます」

インターバルの間に長期記憶がつくられる

 では、小脳皮質の短期記憶は、どのような仕組みで前庭核や小脳核へ移動して長期記憶となるのか。「それはまだ分かっていません。それを解明するために、私たちはさまざまな手法を駆使して研究を進めています」
 永雄TLたちは最近、重要な事実を発見した。「動物に運動を記憶させる実験で、例えば練習を1時間行う場合、連続して練習するのではなく、例えば15分ずつ4回に分け、その間に30分くらいのインターバルを置くと、とても効率よく長期記憶への移動が進みます。そして、インターバルの期間に小脳皮質の働きを止めると、いくら練習を行っても長期記憶が形成されないことを発見しました」
 これは、長期記憶の形成には、運動をしているときではなく、運動をしていないときの小脳皮質の活動が重要なことを示している。インターバルの間に小脳皮質でどんな活動が起き、前庭核や小脳核に長期記憶が形成されるのか。「まだ何らかの結論をいえる実験データは得られていません。しかし、前庭核や小脳核の長期記憶の形成では、シナプスの伝達効率が高まる“長期増強”が重要らしいというデータが集まりつつあります」

練習を持続する強い意志が大切


 最後に、スポーツや演奏がうまくなるための秘けつを永雄TLに聞いた。「インターバルを入れた練習を毎日繰り返すことです。一流のスポーツ選手や演奏家は、運動の短期記憶や長期記憶の形成の効率が普通の人よりも勝っているのでしょう。しかし繰り返し練習しなければ運動の記憶はつくられません。しかも運動の精緻な情報は長期記憶になりにくいことを考えると、天才といわれる人であっても日々の努力の積み重ねは必要なはずです」
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