刊行物

[理研ニュース 2009年7月号]

研究最前線

大脳皮質の進化を視床から探る

ヒトと動物の違いは何か。例えば、アニメやテレビコマーシャルのようにマウスやイヌがヒトの言葉を話すことは、現実にはあり得ない。それは、口や声帯の形が違うだけでなく、マウスやイヌの大脳皮質に、複雑な言語を操るための言語野(げんごや)という領域がないからだ。「進化の過程で、どのようにしてヒトの大脳皮質に言語野などの新しい領域ができたのか。それを知りたいのです」。そう語る下郡智美ユニットリーダーたちは、大脳皮質に情報を送る“視床(ししょう)”の研究から、新しい領域がつくられる仕組みやヒトの脳にしかない機能を解明しようとしている。この研究は将来、脳の発生過程に原因があると考えられている、自閉症などの病因解明や治療法の開発へ貢献すると期待されている。

下郡智美

つまらない論文ばかりだった

 ヒトの脳の表面を覆う大脳皮質には、たくさんのシワが刻まれている。「それを伸ばして広げると、新聞紙1枚ほどの大きさになります」と下郡智美ユニットリーダー(UL)。「新聞に例えると経済面や社会面、天気欄のように、大脳皮質には扱う情報の種類ごとにそれぞれ異なる領域があります。マウスやイヌに比べて、ヒトの脳は大脳皮質が大きくなっただけでなく、いろいろな情報を扱う新しい領域がたくさんできました。こうしてヒトは高度な認知能力や言語能力を獲得したのです」
 ただし、マウスやイヌ、ヒト、いずれの場合も、脳の発生のスタート段階は1層の細胞でできたチューブ状の神経管だ。その神経管が厚くなり、複雑な形に変化して脳が形成される。個体が誕生するころには、大脳皮質の領域も出来上がる。ヒトの大脳皮質が大きくたくさんの領域を持つのに対し、イヌやマウスの大脳皮質は小さく領域も少ないのは、それぞれの脳の発生過程に違いがあるからだ。
 薬学部で、がんの研究などをしていた下郡ULが脳の発生の研究を始めたのは、1998年に米国のシカゴ大学にポスドクとして赴任してからだった。「マウスの胎児の脳ができていく様子はとてもきれいです。神経管はみるみるうちに厚くなって形を変え、細胞はそれぞれの場所に移動し、突起を伸ばしてほかの細胞と正しく接続していきます。そして脳として機能するようになります。なんて美しく不思議な現象なのだろうと思いました。ところが、当時発表されていた発生生物学の論文はノックアウトマウスを使ったものばかりで、どれも面白くありませんでした」
 1990年代、発生生物学では特定の遺伝子を壊した(ノックアウト)マウスをつくり、正常なマウスと比較することで、発生過程でのその遺伝子の機能を調べる研究が盛んに行われていた。しかし当時のノックアウトマウス作製法では、発生のスタート段階から、すべての細胞で特定の遺伝子の機能が失われてしまうという問題があった。
 例えば大脳皮質がつくられるとき、FGF8(線維芽細胞増殖因子)という分泌性の物質が重要な役割を果たしている可能性が指摘された。しかし、FGF8をつくる遺伝子を発生のスタート段階で壊すと、大脳皮質がつくられる前に胎児は死んでしまう。「FGF8は脳だけでなく体のいろいろな部位の発生に欠かせない重要な役割を果たしているからです。このため当時のノックアウトマウス作製法では、大脳皮質でFGF8がどのように働いているのか、調べることができませんでした」

大脳皮質の領域をコントロール

 「特定の時期、特定の部位だけで遺伝子の働きを操作する方法を開発すれば、もっと面白い研究ができると思いました」。下郡ULは、ニワトリの胎児に用いられていた“エレクトロポレーション”という遺伝子導入法に注目した。それは、胎児の特定部位に遺伝子を直接注入して、電気刺激を与えて細胞内に導入する方法だ。エレクトロポレーションを使うと、特定の時期に、特定の遺伝子だけを過剰に発現させたり、あるいは特定の遺伝子の働きを阻害する別の遺伝子を注入してその機能を抑えたりすることができる。「この方法をマウスに適用することを目指しました」
 ニワトリの場合は、卵の殻の中で発生が進むので遺伝子導入などの胚操作をすることが比較的容易だが、マウスの場合は子宮の中で発生が進むので、その作業は難しい。麻酔をかけた母親マスウの腹から胎児を子宮ごと取り出して遺伝子を導入し、再び母体に戻す必要があるのだ。「電気刺激を与えるための電極を自分でつくったりして、試行錯誤の末、ようやくマウスでの遺伝子導入法を確立することができました」
 下郡ULは、この遺伝子導入法を使ってマウスの大脳皮質でのFgf8の発現を操作し、領域のでき方がどのように変わるのかを調べた。その結果、Fgf8を過剰に発現させると、ひげからの触覚情報を扱う“バレルフィールド”と呼ばれる領域が本来の場所よりも後方へ移動し、その前方にできる運動野や前頭葉が拡張した。逆にFGF8の働きを阻害する遺伝子を導入すると、バレルフィールドは前方へ移動し、その後方にできる視覚野が拡張した。「FGF8は、大脳皮質になる部位の前方から分泌されます。すると、大脳皮質の前側はFGF8の濃度が濃く、後ろ側が薄くなります。その濃度の違いにより発現する遺伝子に違いが生じ、前方と後方でそれぞれ異なる領域ができると考えられます」
 さらに下郡ULは、本来は発現しない大脳皮質の後方でもFgf8を発現させた。すると新たにもう一つのバレルフィールドができた。「FGF8の発現の仕方を変えることで、領域の位置や大きさなどを変えることができました。新聞でいえば、天気欄を大きくしたり、経済面を二つに増やすといったことができたのです。しかし、新しい領域をつくることはできませんでした」


大脳皮質の各領域と接続し、 情報を送る視床の領域(模式図)

大脳皮質に情報を入力する“視床”に注目


 ヒトへの進化の過程で、大脳皮質の新しい領域はどのようにしてできたのか。「大脳皮質に新しい領域ができたとしても、ほかの部分と接続しないと機能しません。例えば、視覚野には、目を通して外界から受け取った視覚情報の入力が必要です。視覚や聴覚、触覚、味覚など、嗅覚(きゅうかく)以外の外界からの感覚情報は“視床”に集まり、そこから大脳皮質へ送られます(図1)。進化の過程で生息環境が変わり、視床から新しい情報が入ってくるようになったことで、大脳皮質に新しい領域ができるのかもしれないと考えました」
 2004年、下郡ULは理研脳科学総合研究センターに研究ユニットを立ち上げ、視床の研究を本格的に開始した。「視床は脳の深部にあり調べにくいので、脳のほかの部位に比べて研究があまり進んでいません。研究者の数も極めて少ないのが現状です」
 視床も、扱う情報ごとに領域に分かれていて、その各領域から神経細胞の突起が大脳皮質のそれぞれの領域に伸びて接続し、情報を送っている。視床にある領域の大きさや数も、動物によって異なることが知られている。では、視床の新しい領域はどのようにしてできるのか。「その疑問に答えるにはまず、視床がどのように形成され、それぞれの領域がつくられるのかを調べる必要があります。発生の過程では、細胞は形や性質を変えたり大きく移動したりするので、その細胞が将来、どのような細胞になるかを推定しながら現象を追いかけていきます。そのためには目印が必要です」
 その目印となるのが、視床で発現する遺伝子だ。下郡ULたちは、マウスの視床で発現している1000種類以上の遺伝子を見つけ出し、それらがいつ、どこで発現を始め、発現のパターンがどのように変化していくのかを調べた(図2)。「それぞれの領域だけで発現している遺伝子が分かれば、その遺伝子の発現を強めたり抑えたりすることで、接続先である大脳皮質の領域の形成がどのような影響を受けるのかを調べることができます」
 例えば、高等動物の視床には、マウスなどのげっ歯類には存在しない“視床枕(ちん)”と呼ばれる特有の領域がある。ヒトではその視床枕の一部が大きく発達しており、霊長類の大脳皮質にしかない前頭葉の領域“外側前頭前野”に接続している。従って、視床枕を形成するのに必要な遺伝子が分かれば、前頭葉の形成がどのような影響を受けるかを調べることができる。

図1 受精から10日目のマウス胎児に発現している遺伝子

遺伝子の新しい使い方が脳を進化させた?

図2 マスウ胎児の視床で発現しているFgf8  視床から大脳皮質の進化を探るには、さまざまな種類の動物で視床の形成過程を調べて比較する必要がある。下郡ULたちは現在、マウスの視床で見つけた遺伝子に対応する遺伝子が、ニワトリの視床でどのように発現しているかを調べている。哺乳類のマウスと鳥類のニワトリで遺伝子発現の違いを比較すれば、哺乳類の視床形成の特徴が見えてくる。
 下郡ULたちは、東京工業大学の岡田典弘教授たちとの共同研究で、マウスの視床ではFgf8が強く発現しているが、ニワトリの視床ではほとんど発現していないことを突き止めた。
 マウスの視床でFgf8の発現を強めているのは、“レトロトランスポゾン”と呼ばれるDNAの断片だ。レトロトランスポゾンは自らのコピーをつくって、ゲノム(全遺伝情報)のほかの場所に入り込む性質がある。レトロトランスポゾンが遺伝子の発現を制御するスイッチ部分に入り込むと、その発現が増強されたり抑制されたりする場合がある。マウスではレトロトランスポゾンがFgf8の遺伝子のスイッチに入り込み、発生期の視床で発現が増強されているのだ(図3)。
 近年、さまざまな動物でゲノム解読が進み、能力や形が大きく異なる動物間であっても、遺伝子の数やDNAを構成する化学物質、塩基の配列はとてもよく似ていることが分かってきた。では、何が動物間の能力や形の違いを生み出しているのか。それは、それぞれの遺伝子がいつ、どこで、どのくらい強く発現するかという遺伝子発現の違い、つまり遺伝子の使い方によると考えられ始めている。その遺伝子の使い方の違いを生み出す要因の一つが、レトロトランスポゾンだ。哺乳類のゲノムにはたくさんのレトロトランスポゾンがある。ヒトゲノムでは、その4割をレトロトランスポゾンが占めている。哺乳類の脳の進化にはレトロトランスポゾンが深くかかわっている可能性がある。
 では、マウスの視床でレトロトランスポゾンによりFGF8の発現が増強されると、何が起きるのだろう。下郡ULたちが遺伝子導入法によりFGF8の発現をさらに増強させたところ、視床内の領域が本来より後ろ側へ移動することが分かった。逆にFGF8の働きを抑制すると、領域が本来よりも前側へ移動した。FGF8は大脳皮質と同様に視床でも領域形成に重要な役割を果たしているのだ。
 一方、ニワトリの視床形成ではFGF8がほとんど発現していない。FGF8は、哺乳類と鳥類の脳の形成にどのような違いをもたらしているのだろうか。「それは、発生中のニワトリの視床にFGF8を注入することで探ることができます。これから、その実験も進めたいと思います」。

視床での情報の仕分け機能が、大脳皮質の進化をもたらした?

 下郡ULは、視床の形成過程を探るとともに、視床の未知の機能を解明することが重要だと指摘する。「進化の過程で、視床が情報を仕分けする能力を獲得していった可能性があります。それが大脳皮質の進化をもたらしたのかもしれません」
 例えば、視覚情報から物の輪郭や色、奥行きなどの情報が視床で仕分けされ、大脳皮質の異なる場所に送られるようになった。そのため大脳皮質に新しい領域ができた可能性がある。「木の上で生活するようになった霊長類の中で、視床で奥行きの情報を抽出して大脳皮質へ送り、立体視を行う新しい領域を獲得したサルが現れたのかもしれません。そのようにして高度な立体視の能力を獲得したサルだけが木々の間をうまく動き回って果実を素早く見つけ出し、生存競争に勝ち残ったのでしょう」

研究基盤をもとに研究ネットワークを広げる

図2 マスウ胎児の視床で発現しているFgf8  下郡ULたちは米国ジョンズ・ホプキンス大学との共同研究により、視床の形成過程で働く遺伝子が、いつ、どこで発現を始め、発現パターンがどのように変化していくのかを立体画像で示したデータベースを作成し、インターネット上に公開する準備を進めている(図4)。このような視床のデータベースは世界初だ。「理研に研究ユニットを立ち上げて5年になりますが、その間、私たちは主に視床を研究するための道具集めを行ってきました。“5年もかけてまだ道具集め?”と思われるかもしれませんが、脳という複雑なネットワークを解明するには、しっかりとした研究基盤が必須です。そしてその研究基盤をもとに、さまざまな分野の研究者と共同研究を進め、研究のネットワークを広げていく必要があります」
 この研究基盤をもとに、視床から大脳皮質の進化を探る研究が、これから本格的に始まる。その研究は将来、医療にも貢献すると期待されている。「例えば自閉症などは、脳の発生過程で、ヒトに特有な領域の形成や神経接続のエラーによって起きるのかもしれません。ヒトの脳にはどのような領域があり、どのように神経細胞が接続すれば正しく機能するのかが分かれば、自閉症のような病気の原因解明や治療法の開発に役立つはずです」