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高田昌樹 
TAKATA Masaki 
放射光科学総合研究センター
高田構造科学研究室 主任研究員



高田昌樹 TAKATA Masakiフラーレンやカーボンナノチューブなどの新材料が大きな注目を集めているのは、情報通信、エネルギー、環境、医療、機械、建築など、あらゆる分野の科学技術や産業に大きなブレークスルーをもたらす機能を秘めているからだ。材料の機能はその中の電子の状態で決まる。しかし物質中の電子を詳しく見ることは難しかった。高田昌樹主任研究員らは、SPring-8のX線と情報理論に基づく独自の解析法を駆使して物質中の電子を詳細にとらえ、新材料開発に大変革をもたらしている。

コメント01

微量な粉末から構造を見る
 「天文少年でした。よく父のカメラを持ち出して、彗星などを撮影していました。“ものを見る”ことが好きなんです。今も趣味は写真撮影です」
 こう語る高田昌樹主任研究員の専門は、物質を形づくる原子や電子を見ることだ。大学院で電子顕微鏡を使った研究をした後、手法をX線に移し、1990年ごろから名古屋大学の坂田 誠 教授のもとで、主に機能性材料の微量な粉末から、その物質を構成する原子の構造や電子分布を解析することに取り組み始めた。「X線構造解析では、より良い計測データを得るために大きな単結晶を試料に用いることが多いのですが、開発中の新材料は微量な粉末しかつくれない場合がほとんどです。粉末の試料で構造が分かれば、それをもとに新しいアイデアで材料を開発していくことができます。私たちは粉末試料から、物質中の原子の配列だけでなく、電子分布を詳しくとらえることに取り組んできました。物質の性質は電子によって決まります。新材料の開発で、最も知りたいのは電子分布なんです」
 そのために、高田主任研究員らはマキシマムエントロピー法(MEM)という、情報理論から発達した手法を用いている。「MEMは分かりにくい手法なので、1990年ごろX線構造解析でMEMを用いていたのは、日本では坂田教授と私の二人だけ。世界でもフランスで少し研究が行われていたくらいでした」
 MEMとは何か。「X線では、可視光のように顕微鏡で拡大像を直接見るようなことはできません。散乱した光を集めて像を結ぶレンズに相当するものは、X線ではつくれないからです。そのレンズの代わりに、私たちはMEMを用います」。X線を試料に当てると、物質中の電子によってX線が散乱する。その散乱したX線の計測データをコンピュータで変換して像を導き出す。ただし、計測データから導き得る像には複数の候補がある。どの像を選ぶべきか、その選択法がMEMだ。「理科の実験を思い出してください。実験には誤差が付き物で、グラフにプロットした計測データにはバラツキがあります。例えばそこに直線を引く場合、いろいろな引き方がありますよね。そのとき、主観の入らない最も癖のない線を選ぶ手法がMEMです。しかもMEMは計測データのない領域へも、線を延ばして引いてくれます」。しかし計測データの精度が悪い場合、MEMを用いてもぼやけた像を選び出すことしかできない。「ですから、私たちはイメージングプレートという技術をいち早く採り入れるなど、計測データの精度を上げることに取り組んできました」


金属内包フラーレンの構造を解明
 1995年、高田主任研究員は、フラーレンの中に金属原子が取り込まれている様子を見ることに世界で初めて成功した(図1)。フラーレンは、1985年に発見された、炭素原子がサッカーボールのような形のかご状に集まった分子である。「まず考えられたのは、フラーレンのかごの中に金属原子を入れれば、超伝導などさまざまな性質が現れるかもしれないということです。実際にフラーレンと金属原子の化合物がつくられ、その構造を解析する競争が世界中で行われました。しかし金属原子がかごの外にくっついているのか、かごの中に取り込まれているのか、なかなか分かりませんでした。その化合物は微量な粉末しかつくれなかったため、微細な構造を解析することが難しかったのです」
 なぜ高田主任研究員は、金属内包フラーレンの構造解析に世界で初めて成功できたのか。「その直前に、MEMとリートベルト法を組み合わせた解析法を思い付きました。当時、フラーレンだけの構造はすでに分かっていました。リートベルト法は、そのような既知の情報や理論モデルと計測データとを比較しながら、正しい構造を導いていく方法です。まずフラーレンだけの構造と、計測データからMEMで求めた構造を比較します。計測データには金属原子が含まれているので、当然、構造は一致しません。どこが一致しないのかを調べると、フラーレンの内部に一致しない電子分布が現れました。そこに金属原子を当てはめると、矛盾なく金属内包フラーレンの構造を導き出すことができました」


図1 X線で構造解析された金属内包フラーレンの例

気体を吸着すると性質が変わる新材料
 構造解析の結果が正しいかどうか、その判断には経験によって研ぎ澄まされた直感も重要だ。「正しく導き出された物質の構造は、とても美しいんです。逆に間違っている場合は、構造が不自然な感じがして胸騒ぎがします」。こう語る高田主任研究員は現在、SPring-8が生み出す世界最高輝度のX線と、MEM/リートベルト法など独自の解析法とを駆使して構造解析を進めている。
 「最高に美しい構造が現れ、みんなが驚き興奮しました」と振り返るのが、酸素を吸着した多孔性配位高分子の構造解析だ。多孔(たこう)性配位高分子は、京都大学の北川 進 教授らが金属イオンと有機分子から化学合成した新材料である。この材料にはナノ(10億分の1)メートルサイズの細い孔(あな)が規則的に開いていて、その孔の大きさや形を自由にデザインできる。この多孔性配位高分子は、温度を下げるだけでガスをよく吸着できる材料として注目されていた。「しかしガス分子がどのように吸着されているのかは分かっていませんでした。たぶん、孔の内壁にランダムにくっつくのだろうと考えられていました。ところが構造解析してみると、孔の中で酸素分子が一列に並んで浮いていたんです(表紙上段、赤色が酸素分子)」。その構造解析からは、分子や原子が持つ電子の数も分かる。「酸素分子の電子の数は16個でした。つまり酸素分子から電子は移動しておらず、分子間力と呼ばれるとても弱い力で浮いていたのです」
 この構造解析が注目された最大のポイントは、酸素分子を吸着することにより、磁力が現れることが分かった点だ。一つ一つの酸素分子は磁力を持つ。しかし気体中の酸素分子の向きはバラバラなので、磁極の向きがそろわず酸素ガス全体としては磁力が現れない。ところが酸素分子が一列に並んだ構造解析の結果から、磁極の向きがそろい磁力が現れていることが予想された。「実際に計測してみると、微弱ながら磁力がとらえられました。この現象は、物性科学者たちの想像力を大いに刺激しました。多孔性配位高分子は、ガスを吸着すると性質が変わる、新しい概念の材料であることが分かったんです。しかも吸着させるガスの種類や孔の大きさ・形を変えることにより、さまざまな性質や機能を生み出せる可能性があります。例えば、一酸化炭素ガスを吸着させると強誘電性という性質を示します」
 この構造解析がきっかけとなり、多孔性配位高分子は、フラーレンやカーボンナノチューブのようなナノテクノロジーにおける大きな研究テーマとなり始めている。しかも多孔性配位高分子は産業応用が急速に進む可能性がある。「フラーレンやカーボンナノチューブは安価に大量生産することがまだ難しいのですが、多孔性配位高分子は、1気圧、室温という条件で簡単に化学合成できるからです」


X線で水素を見る
図2 マグネシウム(Mg)中に吸蔵された水素(H) 水素は地球温暖化の原因となる二酸化炭素などを排出しないクリーンエネルギーとして期待されているが、その普及には常温で気体の水素をいかに貯蔵するかという大きな課題がある。例えば燃料電池車の普及には、燃料の水素をコンパクトに車に搭載する必要がある。水素を高密度で吸収し、内部に保存できる吸蔵物質の開発が行われているが、これまでX線で物質中の水素を見ることは難しかった。水素原子は電子を1個しか持たないため、水素原子によって散乱されるX線が弱いからだ。高田主任研究員らは、マグネシウム中に吸蔵された水素を見ることに成功した(図2)。水素はイオン結合だけでなく、弱い共有結合によってもマグネシウムに結び付いていることが分かった。現在、金属と水素の結合の強さと吸蔵効率の関係などを探ることにより、新しい水素吸蔵合金の開発が進められている。



反応過程の電子の振る舞いを見る
 「SPring-8は次々と改良が加えられ、建設された1997年当時と比べると、放射光も進化してきています。しかしその放射光を、私たちはまだ使い切れていません。例えば私の研究でいうと、そのX線領域の光を駆使すれば、もっといろいろな現象が見えてくるはずです」
 高田主任研究員らは、SPring-8のX線をカメラのストロボ光のように使い、材料が機能する反応過程を見ようとしている。現在、解析を進めている材料の一つがDVD-RAMだ。この書き換え可能な光ディスクの表面にレーザーを当てると、原子が規則正しく並んだ“結晶相”が溶けて液体相になり、それがすぐに冷えて原子配列が不規則な“アモルファス相”になる。再びレーザーを当てて結晶相に戻すこともできる。結晶相とアモルファス相では光の反射率が変わる。DVD-RAMは、その反射率の違いを0と1に対応させて情報を記録する。「ある材料では、わずか20ナノ秒(1億分の2秒)で相が変化します。しかし、なぜそんなに速く相が変化するのかは謎でした。誰もその反応過程を見たことがなかったからです」
 2006年10月、高田主任研究員らは、松下電器産業(株)の山田 昇 氏らとの共同研究で、相変化が速い材料と遅い材料の構造の違いを明らかにした(図3)。相変化が速い材料では結晶相とアモルファス相の構造は似ているが、遅い材料では似ていない。結晶相とアモルファス相の基本構造が変わらないことが、速い相変化を可能にしているらしい。
 「ただし、今回の研究ではまだ、相変化の最初と最後の状態を見たにすぎません。今後、相変化の反応過程をとらえることにより、さらに記録速度の速いDVD-RAMの開発に役立てたいと思います。このように、材料が機能する反応過程では電子がやりとりされます。SPring-8の進化したX線を駆使すれば、そのやりとりをピコ(1兆分の1)秒単位ごとにとらえられるはずです」
 高田主任研究員らは、SPring-8が生み出すX線の偏光という性質を利用して、電子スピンを見る研究も進めている。スピンは自転に似た運動であり、そのスピンの向きには上向き・下向きの二つの状態がある。物質中の電子がどのようなスピンの向きで並ぶかで、磁性や電流の流れ方など物質全体の性質が決まる。「電子スピンの3次元的な分布をSPring-8で見る方法論の開発にめどが付きつつあります。極短時間で起きる反応過程で、電子の分布やスピンの向きが変化する様子をとらえる。つまり物性を支配する電子の振る舞いをすべて見る。それが究極の夢です」
 その究極の夢へ至る過程で、私たちの暮らしや社会を変える新材料が次々と開発されることだろう。

図3 相変化モデル




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DNAに新たな文字を加える


平尾一郎 
HIRAO Ichiro 
ゲノム科学総合研究センター
タンパク質構造・機能研究グループ
タンパク質制御高分子研究チーム チームリーダー



平尾一郎 HIRAO Ichiro平尾一郎チームリーダーは、化学合成でつくり出した人工の塩基対 Ds(ディーエス)−Pa(ピーエー) をDNAに組み込み、高い精度の複製とRNAへの転写を行うことに成功した。“DNAは、A(アデニン)、T(チミン)、G(グアニン)、C(シトシン)という4種類の塩基からなる”という、地球上の全生物に共通する基本法則を書き換える大きな成果だ。人工塩基対を使うと、DNAやRNAに特殊な塩基を組み込んだり、そのRNAを介してタンパク質に人工アミノ酸を組み込むこともできる。つまり、新しい機能を持ったDNA・RNA・タンパク質を自由につくり出すことが可能になるのだ。人工塩基対の研究は、世界中でいくつかのグループが激しい戦いを繰り広げてきた。タンパク質制御高分子研究チームはいかにして、その競争を制することができたのだろうか。平尾チームリーダーは、「日本人らしさ」をその理由に挙げる。

コメント02

チャレンジングな研究
 平尾一郎チームリーダーは取材中、DNA模型を何度も手に取り、楽しそうに眺めた。「DNAの魅力は、二重らせん構造に尽きますね。DNAは自分自身を複製し増えることができるし、RNA、タンパク質へと情報を伝えて機能を発揮することもできる。そんな物質は、地球上にDNA以外ありません。DNAは、私の大好きな物質です」
 DNAは、糖とリン酸からなる2本の鎖がらせん状になり、その間をATGCという4種類の塩基がはしご状に並んだ構造をしている。A−T、G−Cが必ず対になり、塩基の並びが遺伝情報になっている。これは、地球上の全生物に共通だ。
 DNAには二つの役割がある。一つは、自分自身を複製すること。二重らせんがほどけ、それぞれの鎖に並んだ塩基に相補する塩基が対合していくことで、同じ塩基配列を持つDNAが複製される。細胞内で塩基が正しく対合する精度は99.99%以上だ。もう一つは、RNAを介してタンパク質をつくること。DNAの塩基配列がRNAに転写され、その塩基配列が翻訳されてタンパク質がつくられる。
 平尾チームリーダーがDNAに魅せられたのは19歳のとき。「高等専門学校時代、先生に薦められて読んだのが、DNAの立体構造を明らかにしたジェームズ・ワトソンが書いた『二重らせん』でした。二重らせんの美しさに感動し、4種類の塩基がどのようにして組み合わさっているのか、ほかのもので置き換えることはできないのかなど、とても興味を持ちました。そのときから、このパズルを解く研究をやりたいと思ったのです。人工塩基対の研究は、私のライフワークです」
 平尾チームリーダーは、「人工塩基対は、研究者としての自分の力を試すことができる、ものすごくチャレンジングな研究」とも言う。「生物のシステムで働く人工塩基対を開発しているのは、私たちと米国のいくつかのグループぐらいです」


遺伝子組換え技術の限界を超える
 人工塩基対の研究は、“塩基を人工的に変えることができるか”という研究者の知的興味のほかに、応用面からも大きな期待が寄せられている。
 2006年のノーベル医学・生理学賞は、RNA干渉の発見に贈られた。RNA干渉とは、DNAから転写されたRNAに別のRNAが作用することで、タンパク質への翻訳を抑制する現象だ。RNAはDNAの情報をタンパク質に伝えるだけの物と考えられてきたが、最近ではタンパク質に翻訳されないRNAがたくさんあることが分かってきた。RNAは多様な機能を持ち、さまざまな生命現象にかかわっているらしい。病気の原因となるタンパク質の翻訳を抑制するRNAを遺伝子組換え技術でつくり、医療に役立てる研究も進んでいる。
 しかし、「現在の遺伝子組換え技術では、機能性RNAの開発には限界がある」と平尾チームリーダーは指摘する。「RNAではTがU(ウラシル)に換わりますが、塩基は4種類だけ。その制限のため、機能を大きく変えたRNAをつくることができないのです。新しい塩基対を入れることができたら、新しい機能を持ったRNAができるでしょう(図1)。人工塩基に蛍光色素など機能性分子を結合させることもできるので、特定のタンパク質やウイルスを検出するRNAもつくれます」
 人工塩基対はタンパク質研究ともリンクする。実際、平尾チームリーダーらの研究は「タンパク3000プロジェクト」の一環として行われている。「これはタンパク質の立体構造を明らかにし、機能を知ることを目指した国家プロジェクト(2002〜2006年度)です。構造を決めて終わり、ではありません。タンパク質の構造を変えたり、病気にかかわるタンパク質と結合してその働きを強めたり弱めたりする化合物をデザインして、タンパク質の機能を制御することが次の目標です。それを可能にする一つの技術が、人工塩基対なのです」
 タンパク質は、アミノ酸が鎖状に連なり、折り畳まれたものだ。「コドン」と呼ばれるRNA上に並んだ3個の塩基配列で、1個のアミノ酸が決まる。4種類の塩基でできるコドンは、4×4×4で64通りだ。このコドンに20種類のアミノ酸と、翻訳開始、終止の指令が割り当てられている。「塩基が6種類になれば、6×6×6でコドンは216通りに増えます。増えたコドンに人工アミノ酸を割り当てれば、天然のタンパク質にはない新しい機能を持つタンパク質をつくることができます(図1)。人工アミノ酸はすでに80種類ほどつくられていますが、現在の遺伝子組換え技術では、1個のタンパク質に人工アミノ酸を1〜2個しか組み込むことができません。人工塩基対を使えば、もっと大胆なタンパク質の機能制御が可能になるでしょう」


図1 人工塩基対による遺伝情報の拡張システム

複製でも働く人工塩基対を開発
図2 人工塩基対Ds−Paを組み込んだDNA二重らせん構造モデル 平尾チームリーダーの研究が大きく動いたのが、2002年だ。人工塩基対s(エス)−y(ワイ)を開発し、人工塩基対を組み込んだDNAの転写と翻訳を世界で初めて成功させた。しかし、ライバルたちは「“君たちは転写と翻訳はやったけど、複製は?”という感じだったのです」。確かに、米国のBenner(ベンナー)のグループが開発した人工塩基対は、ある程度複製ができる。「みんなで“何とかして複製をやりたい”と研究を進めました。RNAに転写させるDNAをすべて化学合成でつくり出していたのでは、人手もコストもかかります。PCRという方法で大量複製ができなければ応用に限界があることは、自分たちも分かっていましたから」
 そして、平尾チームリーダーらは2006年8月、複製と転写ができる人工塩基対Ds−Paの開発に成功した(図2)。複製の精度は99.8%以上だ。Bennerらの96%から大きく向上した。Ds−Paが高い選択性を実現したポイントはいくつかある。
 まず、天然型の塩基対の仕組みを見てみよう。AとGは大きく、TとCは小さい。二重らせんの幅が同じになるためには、大と小の塩基の組み合わせが必要。しかし、大きさの違いだけではA−C、G−Tの組み合わせも可能になってしまう。そこで重要なのが、塩基同士を結び付ける水素結合だ。この水素結合の組み合わせから、A−TとG−Cの2種類に絞られるというわけだ。
 ではDs−Paは? DsはAやGより大きく、PaはTやCより小さい。Ds−Paの幅は天然の塩基対と同じなので、二重らせんをゆがめることなく組み込むことができる。「問題は水素結合でした。水素結合性の人工塩基対は、天然の塩基ともわずかながら対合してしまう。そこで、思い切って水素結合をなくしてしまったら、うまくいったのです。また、Ds同士が結合してしまうという問題があったのですが、これは失敗によって解決しました(笑)」
 人工塩基の材料を化学合成する過程で、少し違う失敗作ができてしまったのだという。せっかく作ったのだから、とそれを使ってみたら、うまくいった。「“セレンディピティー”という言葉がありますが、これまでも突然遭遇したことを大事にしてきました。人生でも実験でも、偶然そこにあったもの、見つけたものは、大きなことにつながることが多い気がします」
 人工塩基対Ds−Paは、RNAからタンパク質への翻訳が苦手という問題がある。だが、平尾チームリーダーは「この結果から、翻訳における塩基対の役割がさらに詳しく分かってきました。解決策はもう考えています」と、複製・転写・翻訳のすべてで機能する人工塩基対の開発に自信を見せる。
 では、次の目標は? 「今は試験管の中だけですが、細胞内でも働くようになれば、さらに応用範囲が広がります。自信はあるのですが、細胞内では変なものは取り除いてしまうシステムが働いているので、何が起きるかは分かりません。大腸菌のDNAにDs−Paを組み込み、まずは複製ができるかを調べる実験の準備をしているところです」。これは、新しい生物をつくることにもつながるため、慎重に進める必要がある。しかし、人工塩基対の材料は自然界にはないので、人工塩基対を組み込んだ生物が自然界で増殖することはない。
 その先は、どう進んでいくのだろうか。「完全にDNAの概念を変えてしまい、違う物質で遺伝情報をつくれないか、という興味もあります。さらにチャレンジングな研究です」


理研ベンチャー立ち上げを計画
 平尾チームリーダーは2006年12月中に理研ベンチャーを立ち上げることを計画している。「科学者としてはパーフェクトを目指すことも重要です。一方で、研究としては改善すべき点がまだまだあっても、産業として使えるものであれば社会に還元するべきだと考えたのです」
 事業内容は、人工塩基対技術のライセンス事業、検出・診断薬の開発、治療薬を目指したタンパク質・ウイルスなどの阻害剤の開発など。「人工塩基対はできたばかりの技術なので、“この技術を使うとこんなこともできます”と示していきたい」と意欲的だ。工学部出身の平尾チームリーダーは、バイオ以外への応用にも挑戦している。その一つが、すでに指紋や静脈で製品化されている生体認証システムだ。DNAを用いた認証システムが試験されているが、人工塩基対を組み込めば情報量が増えるので、認証の精度も上がる。



日本人らしさを活かして
 人工塩基対開発をめぐる激しい競争の中で、なぜ平尾チームリーダーらがトップに躍り出ることができたのだろうか。「ライバルがいるからこそ、互いに切磋琢磨して研究を進歩させていくことができたのですが、私たちが大きな成果を挙げることができた背景には、日本と欧米の考え方の違いがあるかもしれません」と、平尾チームリーダーは分析している。「欧米的な考えでは、一つの概念に沿って研究を進めていきます。日本人は、いろいろな概念を中庸的に取り入れて研究を進める。私たちも最初は水素結合の概念を使っていましたが、途中でそれを捨て、形の組み合わせという概念を入れました。一つの概念にこだわらない、あいまいさが、日本人が新しいものをつくるときの強みでしょう。最近は、欧米の研究スタイルを盛んに導入していますが、“日本人らしさ”を活かすことで欧米とは違うサイエンスができるのではないでしょうか」




理研ベンチャー
理研の研究者が、自らの研究成果を中核技術として起業した企業群






関連情報:




「人工塩基対による遺伝情報の拡張」『蛋白質 核酸 酵素』2006年6月号


「遺伝子に新たな文字を組み込む」『バイオニクス』2006年12月号







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SPOT NEWS
15年冷凍保存マウスから子供を作出

2006年8月15日、文部科学省においてプレスリリース



図1 15年間冷凍保存されたマウスから回収した精子で生まれたマウス当研究所はハワイ大学などと共同で、−20℃で15年もの間、冷凍保存されていた実験用マウスを解かし、回収した精子から27匹の子供を生み出すことに成功した(図1)。実験用マウスは、研究に必要な同じ系統を高い信頼性で大量に生み出すことができるため、ヒトの「モデル動物」として活用することが可能で、がんをはじめとする病態の解明や医薬品の開発、生命現象の解明などに幅広く利用されてきた。今回の成功は、これまでの保存方法の常識を破り、単に精巣や動物体をそのまま冷凍庫に入れるという簡単な方法で保存が可能なことを実証した。永久凍土に眠るマンモスなどの絶滅動物から子供を生み出すことも夢ではないかもしれない……。今回の成果について、理研バイオリソースセンター 遺伝工学基盤技術室の小倉淳郎(あつろう) 室長、越後貫成美(おごぬきなるみ) 技師に聞いた。

――マウスが実験動物として広く利用されているのはなぜですか。
小倉:マウスはヒトと同じ哺乳類で、ヒトの遺伝子と99%が共通し、大量に子供を産み、寿命が短く実験結果を早く知ることができるなどの特徴が根底にあります。1990年代、膨大な需要に応えるため、精子を特殊な保存液に浸して液体窒素温度(−196℃)で冷凍保存する方法が開発され、信頼のおけるマウス作出法として爆発的に使われるようになりました。

――今回発見したのはどんな保存方法ですか。
越後貫:冷凍した精子には、解凍後も体外受精に必要な運動性と受精能力が欠かせません。このため、壊れやすい精子を覆っている細胞膜を保護する必要があり、精子を分離・洗浄し、特殊な保存液とともに液体窒素温度で急速に冷却します。一方、私たちが発見した保存法は、精子を分離・洗浄する必要がなく、精巣や動物体を通常の冷凍庫に−20〜−80℃で保存するというとても簡単な方法です。

――この発見に至るいきさつを教えてください。
図2 顕微授精の様子。卵子にピペットで精子を注入している。越後貫:これまでの方法では、精子が自ら動いて受精する体外受精を用いていました。つまり、精子の運動性を維持させるために複雑な凍結保存を必要としていたのです。しかし、精子を顕微鏡下で卵子に直接注入する顕微授精技術を応用すると、DNAの保存だけを考えればよくなります(図2)。そこで、DNAの保存に最良の条件を検討した結果、精子をためる臓器(精巣上体)と精巣を、そのまま凍結すればよいことが分かりました。今までは精巣上体精子、つまり完全に成熟した精子ばかりが注目されていましたが、今回は主に精巣精子に注目しました。精巣精子は動きが悪いので体外受精には使えませんが、簡易長期保存には向いていて、顕微授精で容易に子供を得ることができました。

――予想外に簡単な方法で成功したわけですね。
小倉:まだ詳細な原理は不明ですが、精巣中でゆっくりと冷やされることが精子核のDNAの保存に良好に働いているようです。生殖細胞は、DNAが100%正常でなければなりません。このため、専門家はこんな簡単な凍結方法で長期間の保存ができるとは夢にも思っていませんでした。

――さらに古いものでも利用は可能なのでしょうか。
小倉:動物精子の凍結保存の歴史は浅いので、長期保存の世界記録は分かりません。たまたま東京慈恵会医科大学に眠っていた15年冷凍保存のマウスでも成功しました。そのため、さらに古くても利用できる可能性はあります。マンモスなど永久凍土に眠る絶滅動物の精子を回収して、子供を得ることも夢ではないかもしれませんね。




プレスリリースは下記URLを参照ください。
http://www.riken.jp/r-world/info/release/press/2006/060815/index.html


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SPOT NEWS
重イオンビームを用いて
イネの耐塩性変異系統を作成

「日本晴」で世界初の塩害耐性栽培の新品種誕生

2006年9月21日、文部科学省においてプレスリリース



土壌に塩分が集積し、土壌環境や農業に深刻な被害をもたらす塩害は、アフリカ諸国やパキスタン、中国などアジアの諸外国で深刻化している。このため、耐塩性作物の育成方法の研究開発が望まれている。当研究所と東北大学は共同研究により、理研の大型加速器「リングサイクロトロン」から発生する炭素の重イオンビームを「日本晴」という品種のイネに照射し、わずか2年半で耐塩性の新品種を生み出すことに成功した。背丈、籾(もみ)数、稔実率(ねんじつりつ)、千粒重(せんつぶじゅう)などを比較すると、このイネの耐塩性は総合的に従来の品種の1.5倍にも達する。すでに圃場(ほじょう)で育種試験を終え、食糧問題解決への準備が整いつつある。この画期的な成果について、理研仁科加速器研究センター 生物照射チームの阿部知子 副チームリーダーに聞いた。

――重イオンビームを使った品種改良はどんなものですか。
阿部:品種改良にはいろいろありますが、重イオンビームを使った方法は、突然変異誘発法と呼ぶ手法で遺伝子に傷を付け、変異体を生み出します。変異体を生み出す方法には、ガンマ線やX線照射などの物理的方法や、変異薬剤を使った化学的方法があり、すでに技術が確立しています。これらの手法に比べ、重イオンビームは極低線量の照射処理で、高い遺伝子の変異率を得ることができるのが特徴です。つまり、飛来するイオン粒子が少ないため、傷付ける遺伝子もごくわずかで済むのです。そのため、突然変異した植物を代々そのままにする“固定”に長い年月を必要としないという利点があります。

図1 新品種の特徴@ 従来種より葉色が濃い。
図2 新品種の特徴A 従来種より草丈が高い。
――重イオンビームを使った方法は実績があるのですか。
阿部:理研では、重イオンビームを使ってコムギ、オオムギ、トウモロコシ、ヒエ、ソバ、ダイズ、サツマイモで品種改良を行っています。また、穀物以外では花卉(かき)園芸植物の品種改良を精力的に行い、花弁に模様が入り今までにない鮮やかな色の花を咲かせるペチュニア、種子を付けず開花期間が長いバーベナの開発に成功して、すでにサントリー(株)から市販されています。

――どのようにして耐塩性のイネをつくったのですか。
阿部:豊かな実を付けて、おいしく、しかも耐塩性でそれらの性質を代々受け継いでいく品種をつくり出すのは難しいことでしたが、今までの経験を生かして挑戦しました。私たちの実験では「日本晴」の催芽種子に炭素イオンを20〜40 Gy(グレイ)照射しました。その種子を東北大学の温室で育て、野外の試験水田に移植、その2週間後から海水の4分の1の濃度でナトリウムイオンを含む地下水(農業用水のナトリウムイオン濃度の20倍以上)を水田に流し込んで育てました。その後、耐塩性を示したイネの種子を採取して、次の代のイネを同じ条件の水田で育成し、形質の安定化・固定化の確認を行いました。

――すぐに塩害水田で使えるのでしょうか。
阿部:これから評価することになりますが、塩水を加えた水田で育てても草丈と地上部の乾燥重量の相対値は正常なものより高く、耐塩性は十分です。数値を比べると籾数は普通の水田で育てた場合に比べて、日本晴では67%まで低下しましたが、耐塩性株ではわずかに低下(90%)する程度でした。稔実率は正常なものと変わらず100%、千粒重量は102%と逆に高い値を示しました。最近では土中深くから塩分が噴出するなど深刻な塩害が広がり、食糧問題に追い打ちをかけています。このイネはそうした塩害にも十分耐えることができます。今回の成果は、今後、ほかの作物の品種改良にも役立つと期待しています。




プレスリリースは下記URLを参照ください。
http://www.riken.jp/r-world/info/release/press/2006/060921/index.html


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TOPICS
「2006年理化学研究所科学講演会」を開催


コンピュータサイエンスの第一線で活躍する研究者などが集った「2006年理化学研究所科学講演会」が10月26日、丸ビルホール(東京都千代田区)で、「コンピュータ科学が導く ひと、モノ、環境の未来像。」をテーマに開催されました。会場にはほぼ満員となる約400名の聴衆が詰めかけ、最先端の研究の話に熱心に聞き入っていました。


心を持ったコンピュータは実現可能か?
茂木 健一郎
(株)ソニーコンピュータサイエンス研究所 シニアリサーチャー

茂木 健一郎 脳科学の将来を考えるとき、進化論の歴史は教訓的です。人間は社会的な動物として、その中で能力を発揮するように進化し、脳は一生学習してもまだ先があるというopen-endlessな、他に類をみないシステムです。脳科学も進化論の「突然変異」と「自然淘汰」に相当する基本的なコンセプトの確立には、100年という時間が必要でしょう。現在、「感情」と「意識」の問題が、脳科学の究極の課題として登場するところまで来ています。「感情」は、不確実性の中で行動すること、つまり「命がけの跳躍」の源であり世界への適応戦略として考え、これを数量化した「神経経済学」が生まれました。いっぽう「意識」は原理的な扱いがいっそう困難と考えられていますが、それを乗り越える新しいコンセプトが研究者間で形成されつつあります。


世界最速の専用計算機MDGRAPE-3と
タンパク質のシミュレーション
泰地 真弘人
理研ゲノム科学総合研究センター 高速分子シミュレーション研究チーム チームリーダー

泰地 真弘人 私たちは、天文学で星の間に働く重力計算の専用機を開発した実績をもとに、このたび1ペタフロップス=1秒間に1000兆回計算できる速さを持つ計算機「MDGRAPE-3」の開発に成功しました。この計算機はタンパク質など生物の分子を原子一つ一つに分解してニュートンの運動方程式で計算する「分子動力学シミュレーション」専用につくられたもので、世界最速の性能を達成することができました。タンパク質の立体構造をシミュレーションするだけで予測することはまだ困難ですが、タンパク質の折り畳み機構の研究には十分役立ちます。将来の応用の中心は、実験と計算から得られたタンパク質の構造をもとに、新しい薬やタンパク質を設計し、その機能を解析することになるでしょう。


スーパーコンピュータによるシミュレーションと
次世代開発プロジェクト
姫野 龍太郎
理研次世代スーパーコンピュータ開発実施本部 開発グループディレクター

姫野 龍太郎 私はかつて日産自動車(株)で自動車周りの空気の流れの解析に携わってきました。1985年からの10年間に、シミュレーション技術とコンピュータの驚異的な性能向上により、スーパーコンピュータを使った大規模なシミュレーションが可能になりました。もちろん、その原動力は不可能に挑戦する研究者の意欲と、その理解者の支援にあったといえます。理研は2004年、パソコンをベースにしたクラスタ、地球シミュレータと同型のベクトル計算機、分子動力学専用計算機を共同開発しました。それをさらに進化させて、現在、次世代スーパーコンピュータ開発計画に取り組んでいます。この計画の中で、ライフサイエンスとナノサイエンス分野のシミュレーションでは、新しいソフトウエアの開発によって画期的な発展がもたらされると期待されています。


予測の時代の科学研究
茅 幸二
理研和光研究所 所長

茅 幸二 計算機の進歩、解析技術の進歩によって、宇宙飛行船、高層建築物などの設計は高い信頼性をもって使用者に受け入れられています。しかし、原子・分子から材料に至る物質設計は、電子構造、幾何学的構造に関してはある程度可能であっても、材料としての機能(電気伝導性、磁性など)を精緻(せいち)に予測するには至っていません。物質が機能を発現する、原子あるいは分子が数百から数万個の大きさのナノサイズ領域を扱うナノテクノロジーは、これまでの経験的な物質創造に依存できない新しい研究分野です。ペタフロップス計算機の実現により、システムとしてのナノエレクトロニクスが可能になり、生命機能素子の機能を予測する日の到来が待たれます。


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皇太子殿下、理研発生・再生科学総合研究センターをご視察


皇太子殿下、理研発生・再生科学総合研究センターをご視察 10月15日、皇太子殿下が理研発生・再生科学総合研究センター(CDB)を視察されました。まず、井村裕夫 先端医療振興財団理事長が神戸医療産業都市構想について、野依良治理事長がCDBの概要についてご説明しました。続いて展示室で、竹市雅俊センター長がCDBの研究内容についてご説明し、その後、皇太子殿下はニワトリ胚やES細胞、プラナリアの再生の様子などを観察されました。マウス胚の操作をマイクロマニピュレーションのシミュレータを用いて体験された際には、遺伝子レベルで見たときのマウスとヒトの違いについて質問されるなど、発生・再生研究に関心をお持ちのご様子でした。


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「理化学研究所 フロンティア研究システム 20周年記念講演会」を開催


任期制研究者によって時限付き研究プロジェクトを推進する組織の先駆けとして、理研に「国際フロンティア研究システム」が設置されたのが1986年10月、その後、1999年に現在の「フロンティア研究システム(FRS)」と改称され、今年で発足20周年を迎えました。FRSは現在も設立当初の精神を受け継ぎ、「理研の活力の源」となる新しい研究領域の芽を育てようとチャレンジングな研究課題に取り組んでいます。
 10月25日に大手町サンケイプラザ(東京都千代田区)で開催された「理化学研究所フロンティア研究システム20周年記念講演会」では、野依良治理事長、玉尾皓平FRSシステム長のあいさつに続き、歴代システム長と原正彦チームリーダー(局所時空間機能研究チーム)が講演し、20年の足跡を振り返りました。また同時に、現在のFRSにおける研究アクティビティに関するパネルディスカッションも行いました。当日は約270名の方が訪れ、FRSの20周年とその将来を祝福しました。

「理化学研究所 フロンティア研究システム 20周年記念講演会」を開催

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「研究者・技術者のためのキャリアフェア」を開催


「研究者・技術者のためのキャリアフェア」を開催 理研で働く研究者・技術者のキャリア支援のため、10月24〜25日、理研横浜研究所で「研究者・技術者のためのキャリアフェア〜さまざまなキャリアにふれてみよう〜」を開催しました。第一部の講演会では、理研の元・基礎科学特別研究員の(株)Seed Seek 竹本佳弘 代表取締役社長が「視点をかえてみよう。目の前に広がるキャリアパス〜理研・企業・ベンチャーの経験を踏まえて〜」、続いて中部大学経営情報学部の児玉充晴教授が「企業ニーズに基づく上手なキャリア計画の立て方」と題して講演しました。第二部は「多様なキャリアパス」をテーマにパネルディスカッションが開かれ、企業で働く人と研究者・技術者の間で活発な質疑応答が交わされました。参加者からは「普段、研究生活で触れる機会の少ない企業の方の話を聞くことで、自らのキャリアの考え方に変化があった」などの感想が聞かれました。第一部は理研の各支所にもテレビ会議システムを通して同時に配信され、約100名が参加しました。


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原酒
史上最高の熱安定性を持つタンパク質発見のいきさつ


油谷克英
YUTANI Katsuhide
放射光科学総合研究センター 先端タンパク質結晶学研究グループ
構造解析高度化研究チーム 上級研究員


油谷克英 YUTANI Katsuhide 私は大阪大学退官後、関西学院大学を経て理研にお世話になることになった。そして、5年間でタンパク質の全基本構造の1/3(約3000種)以上の構造およびその機能を解析する国家プロジェクト“タンパク3000プロジェクト”の一環として、タンパク質の安定性を示差走査熱量計(DSC)で測定し、構造/安定性の相関を研究している。DSC測定は「タンパク質が天然構造(形)を維持しているかどうか」の正しい評価を与えるので、私は構造解析の過程でDSCを有効に活用すべきであると提案してきた。ところが、100℃近くまでを生育可能な温度とする超好熱菌由来のCutA1(カットエーワン)タンパク質をDSC測定したところ、130℃までまったく変化が見られなかった。このことは、このタンパク質はすでに変性していて、天然構造を維持していないことを示している。しかし、このタンパク質の結晶構造は解かれており、他の溶液物性を調べると、天然構造が維持されているシグナルを発していた。CutA1はバクテリア、植物、動物に広く分布するが、2価金属イオンと関連すること以外にその機能は分かっていない。

通常のDSC装置の測定限界は130℃までである。もしもこのタンパク質の変性温度が130℃以上であればぜひ実測してみたい、という気持ちが高まった。以前、米国の科学雑誌『Biochemistry』の論文審査をしたとき、200℃近くまで測定可能なDSCの記載があったことを思い出した。世界のどこかに高い温度まで測定可能なDSCが存在すると強く確信した。私は1981年にタンパク質の安定性の正確な定量値を得るため、当時のソ連科学アカデミーの研究所に試料持参で訪問した経験がある。当時と比べれば、今日は世界のどこにでも容易に測定に行ける状況にある。130℃以上を測定できるDSCが世界のどこにあるか、あらゆるコネを使って探した。製造元ではすでに製造中止になっているが、幸いなことに、茨城県つくば市に150℃まで測定可能な装置があることを業者が知らせてくれた。その業者、日本シイベルヘグナー(株)と(独)農業生物資源研究所(加藤悦子主任研究員)の協力を得て、CutA1の変性温度が中性付近で148.5℃であることを突き止めた。この変性温度はこれまで報告されていたタンパク質の熱変性温度より約30℃高い。史上最高の熱安定性は、分子表面を覆うイオン結合によることが判明した。

タンパク質はわずかなエネルギーバランスで安定化されている。その低い安定性が生理的に重要なのである。ではなぜ、このタンパク質はこのように高い熱安定性を持つ必要があるのだろうか。最近、イネのCutA1の熱安定性をDSCで調べたところ、その変性温度は中性で98℃であった。イネの生育温度、28℃より70℃も高い。ヒトの脳細胞にもCutA1が含まれている。これらは構造がよく似ているので、ヒトのCutA1も高い熱安定性を持つと推定される。一般に、アミロイドーシス、プリオン病のように異常に高い安定性を持つタンパク質は、体内に蓄積され疾病発症の原因となる。CutA1に対して特別な分解システムがあるのか、特異な構造形成の仕組みがあるのか、等々。次々と解決したい課題が浮かんでくる。

この稿を通じて、理研の若い研究者に、安定性研究のような地味な分野にも興奮させるテーマが転がっていることを知らせたい。そのためには実験データをよくよく精査し、よくよく考えることに尽きるのではないかと思っている。最後に、このような基礎研究も許される理研の懐の広さに心から感謝している。



示差走査熱量計(DSC)
一般にDSC(Differential Scanning Calorimeter)と呼ばれ、試料セルと参照セルを同時に一定速度で昇温させ、試料の構造変化を熱量の出入りから観測する。タンパク質の定量的変性研究において最も信頼されている装置である。

この研究成果のプレスリリースは下記URLを参照ください。
http://www.riken.jp/r-world/info/release/press/2006/060713/index.html



理研ニュース 

12
No.306
December 2006

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発行日
平成18年12月5日
編集発行
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