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寄稿文
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独立行政法人 理化学研究所
理事長に就任して 野依良治 新理事長に聞く |
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理研の存在感を高める
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――野依理事長はこれまで大学で研究をしてこられましたが、外から見た理研の印象をまずお聞かせください。
野依:わが国の自然科学の最高峰、COE(中核的研究拠点)だと拝見していました。理研では多様な基礎研究、集中的なプロジェクト研究が行われていて、素晴らしい研究成果が出ています。 私は研究者ですから理研が立派な研究をしていることを知っていますし、多分、各分野の専門家たちもそう思っているでしょう。しかし、あえていえば、一般の人には理研の活動は少々見えにくいのではないか。社会の関心が教育、特に入学試験にあるので、一般の人には大学の方が存在感があるのかもしれません。これはマスメディアの姿勢によるところでもあります。 科学や科学技術の研究は、21世紀の社会にとって大変大事なものです。私たちが信じるこの大事な活動を続けていくためには、一般社会の理解がどうしても欠かせません。わが国は科学技術立国でありながら、国民の科学への関心や理解が、他の先進国に比べて乏しいといわれていて残念です。一般国民の科学への関心と理解を深めるためにも、さまざまなメディアを利用して、理研の立派な研究成果を一般社会へ向けて明らかにし、理研の存在感を高めることが必要です。研究者の方々にもこの点をぜひとも自覚していただきたい。 |
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理研精神を発展させる
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――理研の伝統については、どのようにとらえていますか。
野依:高峰譲吉※1先生らが提唱され、大河内正敏※2先生が実践された「理研精神」には、時代を超えて生き続ける本質的なものがあると思います。 理研精神は、一つには、科学に基づいてさまざまな産業技術を生み出していくこと。戦前には、「理研コンツェルン(理研産業団)」と呼ばれるたくさんの企業が生まれました。今でいうベンチャービジネスです。理研はさまざまな産業技術を生み、人材を産業界に輩出した。技術立国日本の源泉です。もう一つの理研精神が、研究者の自由な発想に基づく基礎科学研究。仁科芳雄※3先生たちの「科学者の自由な楽園」です。極めて基礎的な科学分野でも、湯川秀樹先生、朝永(ともなが)振一郎先生をはじめ立派な研究者をたくさん輩出し、破格の成果を挙げました。この2つの流れをもつ理研精神は、現在も生きている。この理研精神をますます発展させていきたいと思います。 ――さらなる発展には、何が必要だとお考えですか。 野依:すでに立派な研究者がいて、素晴らしい研究を行っているので、少なくとも、質を重視した研究を継続していただくことが大事です。あえていえば、基礎であれ応用であれ、いくつか「理研ブランド」ともいうべき、特に輝ける存在をつくるということでしょう。 では、目標は何か。それぞれの研究プロジェクトには目標があっても、科学研究は永遠に続くものです。「科学研究とは、果てしなく続く『知の旅』。目的地への到達よりもさまざまな出会い、良い旅をすること自体に大きな意味がある。優れた研究は有為の人を育て、また社会にも貢献する」――これが私の基本的な研究観です。ですから若い研究者を中心に、今世紀の科学や科学技術がいかなるものかを十分に議論していただき、自由な発想のもとに研究を一生懸命やっていただく。そういう雰囲気、文化をつくることが、私の理事長としての第一の仕事だと思っています。 もちろん理研は、わが国の産業技術力強化への貢献を強く求められています。ここでは課題の選択とともに最も大切なことは研究のスピードです。基礎→応用→開発の直線モデルは過去のもので遅すぎます。ほとんどの技術は本質的に複合的でありまた競合的です。独自性のある最高、最強のものだけが生き残る。近未来を見据えた産業活動の経験をもつ優れたリーダーのもとで、初めから分野融合型の共同的研究を強力に遂行する必要があります。 なお、国際競争力をもつ産業として成立するためには、技術努力だけでは不十分。国の資源、社会背景や特性を配慮した税制や法令の整備が要件です。背景の違う政策の物まねや追従は駄目です。従って研究者間だけではなく、わが国政策担当者との意志の疎通、そして戦略化を図ることも極めて大切です。 理研全体としては、分野の多様性を保つと同時に、限られた資源の中で集中性をどう目指していくか、そのバランスが大事です。個々の研究には萌芽期・発展期・成熟期があり、一概に研究はこうあるべきだ、という方程式はありません。理研全体としてインパクトのある、質の高い研究を行っていくためには、やはり評価が重要です。ただし、評価のあり方も、分野や目的、さらに萌芽期・発展期・成熟期の各段階で違ってきます。 ――評価のあり方について、どのような考えをお持ちですか。 野依:いま評価といわれているのは、「評価」ではなく「数値分析」だと思います。例えば論文数や引用頻度、学会の表彰などの客観的な数値や事実を集めて分析をしている。しかし、「分析」と「評価」は違います。評価とは、数値や事実の分析に基づき、科学哲学的、あるいは科学的な思想によって判断することです。分析は客観的であっても、評価は主観的なものです。目利きでない評価者が自らの判断を避けて、コンピュータに計算してもらうなど論外です。人間の知的活動の尊厳を傷つけるものです。研究の意義や価値は、研究者の置かれた立場、所属している機関の背景や使命によっても違ってくる。すなわち、評価者・被評価者の置かれた立場によって、評価は変わる。これが私の評価観です。研究者は自己の価値観に忠実に自信をもって仕事をすることが大切です。 ――理事長ご自身はどのような研究を評価しますか。 野依:学術研究で最も重要なことは、知識の創造だと思います。私が研究を評価するときの一番の目安は、“驚き”です。もう一つは“腑(ふ)に落ちる”こと。この2つが、学術研究で大事だと思います。知識を活用・応用する研究では、科学の進歩にあるいは社会的にどのような波及効果をもたらすかが重要です。評価の定着には一定の時間が必要です。 |
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持続性ある文明社会を築くために
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――理事長の科学観や自然観をお聞かせください。
野依:科学の可能性は本当に無限ですね。例えば宇宙から眺めると、海や陸、山や森……といろいろなものが見える。しかもミクロからマクロまで世界が広がっています。見えないものもたくさんある。それらが何であるか、また仕組みを理解し、揺るぎない知識をつくる。これが科学の基本です。しかも地球も宇宙全体から見るとごくわずかな存在ですから、科学の対象は無限であると言っていい。 一方、夜の地球を見ると、一様ではなく東京やニューヨークなど光輝くところがある。人が多く住むその社会構造の中に科学技術は存在するのです。これは文明社会を築くために不可欠ですが、産業とは少し区別が必要です。 さらに産業技術は科学技術のごく一部です。利潤がなければ、産業技術たり得ません。昔の理研精神で行っていた研究活動は、純正科学か産業技術かのどちらかだったと思います。純粋な知的好奇心で行う「科学者の自由な楽園」の科学研究と、「理研コンツェルン」を生み出した産業技術です。大学の研究も同様の意識でした。 この時代と現在、大きく違ってきたことは、非営利の科学と営利目的の産業技術の間に位置する科学技術の重要性と規模がすごく大きくなってきたことです。例えば、宇宙探査や海洋探査、あるいは環境に代表される社会的・地球規模の問題への対応など、さまざまな科学技術がなければ、現代の文明社会は成り立たない。ところが、宇宙や海洋を探査しても、環境を調べても、直接的な利潤が生まれるわけではない。しかしこれらは、21世紀の人類の生存、持続性ある文明社会を築くために、極めて重要です。 極論をいえば、知的好奇心に導かれた学術研究は、大学で自由な発想に基づいて行えばよい。産業技術の研究は利潤目的の企業が行う。場合によっては国がそれを支援することが必要でしょう。 その間にあって、現時点では産業に必ずしも直結しない、あるいは非常に時間がかかる、しかし文明社会を支えるに極めて重要な科学技術。これこそ理研でやるべきです。長期的に、あるいはある偶然で突如、産業技術開発につながることにもなります。 ――近年、産業に直結する研究が求められていますね。 野依:産官学の連携により研究が産業に結び付けば、それは大変結構です。しかし、そのような技術はごく一部であることを認識すべきです。文明社会を支える科学技術は、さらに大きく広がっている。それこそ国がしっかり支援する必要がある。 ただし、国が研究資金を投入するには、納税者の合意が必要です。その意味でも理科離れは大変困る。理科が分からないで一番困るのは、結局は、政治家や消費者など非理科系の人を含む国民全体だと思います。これは私の社会観ですが、いずれにしても、科学と社会の密接なかかわりは時代の宿命です。私たちは信頼を得なければならない。 理研の研究者、所員の人たちには、社会における科学や科学技術の重要性をぜひ国民に認識していただくべく、社会に訴えかけていただきたいと思います。 |
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オンリーワンを目指せ
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――理研の研究者へメッセージをお願いします。野依:自分の研究が位置する座標をしっかり認識していただきたい。学術研究、科学研究の中で、自分の研究が専門分野の中でどういう意味を持つのか。さらに社会全体の中で自分の研究がどう位置付けられるのかを認識することが重要です。 研究者にとって一番大事なものは、「内なるものへの確信」でしょう。どうしてもこれをやらなければいけないのだ、という確信が研究推進の原動力です。ですから、国がこれをやりなさいと、お金が付くところになびいていくのは嘆かわしい。自律性がない。自分はなぜこの研究をやりたいのか、自分の研究の座標をきちんと同定することが大切です。 ――特に若い研究者に対してはいかがですか。 野依:オンリーワンを目指せ。やはり独特でないと尊敬されない。同じ分野で競争すれば、力があるほど同業者から疎まれる。単純にいうと、科学研究は「問題」とそれに対する「解答」から成っています。ところが日本人は、自ら問題をつくろうとしない。これは科学者に限らず政治家や企業人もそうです。他から与えられた問題を解くことをやっている。もちろん良い問題に対して良い答えを出した人が評価されるわけですが、良い問題には、すでに前を走っている巨人がたくさんいます。そこで競争して勝つことは、なかなか難しい。しかし、秀才たちは得てして人と競争したがる習性がありますね。 ――オンリーワンは、一番になることではないのですね。 野依:いえ、オンリーワンは一番に決まっています。一人しかいないのだから。自分独自の問題をつくることを、若い研究者にぜひやってもらいたい。われわれシニア世代が、それを温かく見守ることも必要です。忠告するのはいいがあれこれと指図干渉するのはよくない。 私の経験からすると、研究テーマの寿命は最大で約30年です。もちろん科学研究は永続的なものですが、ある研究テーマはそのくらいすると、さらなる大きな飛躍がない限り、陳腐化する。研究者人生も30年くらいです。独創性・創造性が評価される科学研究においては、30歳くらいから新しいこと、本当に自分独自のものを見つけて、それを先導的に発展させていくことが重要なのです。そういう意味で、若い研究者にはオンリーワンを目指してほしい。 50〜60歳代からでは、なかなかオンリーワンは目指せません。むしろ今までの実績に基づいた研究をしていただき完成させていただくことが科学や科学技術、社会にも大事だろうと思います。一人の研究者人生で萌芽期・発展期・成熟期とある研究段階を担うことができれば、幸せですね。 |
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文化度を高める
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――ところで、理事長のご趣味は。
野依:趣味はありません。無教養で120%研究です(笑)。文化度を高める必要性をいろいろなところに書いていますが、あれは自己反省の弁なのです(笑)。ですが、その必要性は研究者に限ったことではありません。今の日本社会の劣化は、経済の停滞というよりも、むしろ文化度の劣化だと私は言っているのです。 では、文化とは何か。1番目は科学。2番目に論理(知性)、3番目が情緒(感性)、4番目が言語です。文化にはいろいろな要素がありますが、この4つが特に重要だと私は考えています。それぞれの要素は連続的であり、相互に深い関係がある。 1番目の科学は、唯一絶対の真理の世界。2番目の論理には、唯一絶対のものがあるとは言い難い。3番目の情緒になると、さらに多様になってくる。一番多様性があるのは4番目の言語です。だから文化は国や民族によって異なる。それぞれに尊重することが大切です。この4つの要素を総合的に高めることが、本当に豊かな社会を築くのです。 研究者も1番目の科学だけでなく、論理性や情緒性を培うことが必要です。他人の言うことを理解し、自分の研究を表現するための言語も極めて重要です。科学者だけでなく国全体として文化度を高めることをしっかりと推進し、個々の人も努力しなければなりません。中学生くらいで理科系・文科系に分けてしまうのは、全くけしからんことです。亡国への道です。 21世紀の社会に必要なことは、豊かな高い文化度、さらに言うと人間性への回帰、人間性の尊重だと思います。現代の科学者は効率主義で、これを忘れがちなのではないでしょうか。人間の一生が効率的であるわけがありません。豊かな知識社会に向けて科学と芸術の融合が、今こそ問われています。そうしないと人を愛せない“マッド・サイエンティスト”、“マッド・エンジニア”ばかりを生産してしまう。 理研の建物ももっと文化度を上げる必要がありますね。海外の歴史ある研究所に行くと、みんな文化度が高いですよ。研究所が工場や倉庫のように見えたら、感受性の高い若い人は魅力を感じない。理研の研究者も事務職で働く人も、休日には必ず博物館や美術館、音楽会に行くとかしないと。昼休みは何を話題にしていますか。 私も経済優先時代の受難者の一人です。40年間本当に猛烈に働き続けました。しかし、欧米の友人たちのように余裕を持って芸術や文学に親しんでいれば、もっと素晴らしい科学者になれたでしょう。真・善・美といった人が追求すべきものを研究に取り入れることも試みたのですが、なかなかうまくいきませんでした。若い方に、私の二の舞はさせたくない。人間らしい豊かな「知の旅」を楽しんでください。これが、私からの、若い研究者へのメッセージです。■ |
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※1:高峰譲吉(1854〜1922年) アドレナリンや消化酵素「タカジアスターゼ」の発見で知られる化学者。 1913年、「国民科学研究所」の必要性を提唱し、1917年の財団法人理化学研究所の設立へ道を拓いた。 ※2:大河内正敏(1878〜1952年) (財)理研第3代所長(1921〜1946年)。 研究者の自由な発想に基づく基礎科学研究を進めながら、その研究成果を日本の産業の発展に役立てることも理研の責務であるとして運営に当たり、理研産業団を形成した。 ※3:仁科芳雄(1890〜1951年) 理研主任研究員。(財)理研第4代所長(1946〜1948年)。 わが国の核物理学創成期をけん引。1932年から5年間、仁科研究室に籍を置いた朝永振一郎博士は、当時の理研全体を「科学者の自由な楽園」と表した。 |
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「固有自治」と「負託自治」
吉川弘之 独立行政法人 産業技術総合研究所 理事長 |
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旧工業技術院に属していた研究所群を統合して、職員数3200名という大きな研究所が、2001年に発足した。それが独立行政法人 産業技術総合研究所である。国立研究所から独立行政法人への法律上の変化はともかく、旧研究所の組織がほとんど見えなくなる組織再編や新しい給与体系の導入という現実の改革は、その法律上の変化によって可能になったことを全面的に採用して行った、いわば一つの理想的な改革であったといえる。それが体系的な理念に基づく理想であったことから、当然研究者たちに大きな変化を求めることとなった。それは研究遂行上の日常的な業務だけでなく、研究者としての意識の変革を求めるものでもあった。それから2年半が経過したが、研究者たちはそれに応えた。見事に応えた、と私には思える。 その中心は、「研究の自治」ということであったと思う。新しくできた60ほどの研究ユニットは、ユニット長の責任において研究課題の選定やユニット内の管理を自律して行い、経営側は介入しない。平均50名ほどであるユニット内研究員は他のユニットへの移動は自由である。従って、研究員はユニット長の研究思想に賛同するもので成り立っており、ユニット長は自律的思索家であることが求められる。一方ユニットの評価は、研究所内部のみならず外部者も参加して行う。成績が悪ければユニットは廃止される。新しいユニットの提案は、客観的評価に基づいて理事長が行う。これは、ユニットの運営はユニット長の自治であるが、研究所全体のユニット構成は経営者側の責任であることを意味している。このような、権限と責任を明確にした研究の自治が、研究所を活性化しているのである。 権限と責任を明確にした研究組織は、国の機関としてはあまり例がないと思われる。国立大学における講座、学科、学部などの自治は、外部の評価はおろか、助言すらも聞かない「頑固自治」であり続けたし、最近になって外部評価をやったといっても、改廃の権限はどこにも顕在していない。産総研の経験で言えることは、正当な評価の下での自治が、研究者の力を発揮するのに最も適しているということである。 長い間大学に居て、私は学問の自治とは何かを考え続けていた。学問の先端を拓く状況を考えれば、その専門的先端性からいって、同僚研究者以外に成果を判断することはできない。従って、自ら判断するしかない。私はこれを「固有自治」と名付けた。一方、現代においては、基礎的な学問の研究は公的費用によって行う。とすれば、出資者である一般の人々の期待があるはずである。しかし人々は研究の内容に口を出すことはできない。従って、この場合も研究者の自律性に任せるしかないのであるが、これは「固有自治」とは異なるもので、これを「負託自治」と名付けた。そして、この両者の調和的実現が大学経営であることを論じたのである。これはその後、日本学術会議でも取り上げられ論じられた。その内容をここで論じる余裕はないが、大変興味深いものである。 産総研および大学での経験を背景として、独立行政法人化は研究者が「研究の自治」についておそらく初めて考える良い機会なのだと思えるのである。むろん、制度改革の結果としてさまざまな可視的変化が起きる。それは運営費交付金を中心とする財務上のことであり、また勤務形態や給与体系、組織としての意思決定制度、倫理規定などである。これらの策定ももちろん重要なことであるが、それらが形の上だけ変化したのでは真の変化は起こらず、進展も無く、従って制度改正の労力負担だけに終わってしまう。そうでなく、この独法化を通じて自治の本質と、研究が公的資金で行われることの意義とを、出資者であり成果の受け手である一般の人々と対等の立場で語り合いながら考察することが必要である。そしてそれが独法化した理化学研究所の形を造ることを期待している。 ■ |
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特殊法人 理化学研究所
45年を振り返る
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特殊法人理化学研究所の誕生と
和光本所の開設 |
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1917年(大正6年)、渋沢栄一を設立者総代として発足した財団法人理化学研究所は、第二次世界大戦後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)による財閥解体とともに解散を余儀なくされた。(財)理化学研究所の研究部門を引き継いだ株式会社科学研究所から1958年(昭和33年)10月、特殊法人理化学研究所が資本金99億円、人員442名でスタートした。もちろん、戦前からの「科学技術に関する試験および研究を行う」という目的は維持されていた。その後、開発部門が新技術開発事業団(現・独立行政法人科学技術振興機構)として分離し、理研はまさに研究機関となった。理研は戦前から日本初のサイクロトロンを作るなど加速器科学の中心的存在であったが、その後の研究をリードするような大型の加速器を製作するには、駒込キャンパスは手狭であった。いくつかの候補地の中から、駒込からさほど遠くない現在の埼玉県和光市に大和研究所(現・和光本所)が1967年(昭和42年)に開設された。移転の前年には160cmサイクロトロンが完成。その後、大和研究所には農薬研究施設としての大型温室や工作棟、放射性同位元素実験棟などの研究施設が建設された。 1980年(昭和55年)に重イオンリニアックが完成し、続いて後段加速器となるリングサイクロトロンの建設が始まった。リングサイクロトロンは1987年(昭和62年)に完成し、理研は再び核物理の世界的な拠点になり、特に二次粒子であるRI(Radioisotope:放射性同位元素)ビーム科学において世界をリードすることになった。 |
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新しい研究、制度への取り組み
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1984年(昭和59年)になると、国が掲げるライフサイエンス研究も理研が実施するところとなった。遺伝子科学技術研究を実施するため、つくば市に、微生物などの最も高度な閉じ込め能力を有し、極めて安全に遺伝子組み換え実験が可能になるP4施設をもつ、ライフサイエンス筑波研究センターを開設した。
1986年(昭和61年)には、初代システム長として久保亮五氏を迎え、国際フロンティア研究システムが発足。明確な目標を掲げた時限制の研究組織であり、研究者の任期付き任用という新しい雇用制度を導入した。さらに人員の3分の1に外国人を雇用するという画期的な研究体制であり、研究の進め方においても先進的な仕組みを試すことになった。また、地域と理研の研究ポテンシャルを融合して研究を進める地域フロンティア研究として、1990年(平成2年)、仙台市にフォトダイナミクス研究センターを、1993年(平成5年)、名古屋市にバイオ・ミメティックコントロール研究センターを開設し、現在に至っている。 1989年(平成元年)になると、科学技術庁の制度として基礎科学特別研究員制度が発足し、ポスドクの新たな研究・雇用の場が創出されることになった。基礎科学特別研究員は、理研の研究者のアドバイスの下、自らの研究テーマに取り組む。また、当時としては破格の待遇が与えられたため、研究者の間で大きな話題となった。その後、この制度の運用は理研に任されることになり、人員の増加が図られ、わが国におけるポスドク1万人計画の中核となった。 1990年(平成2年)、埼玉大学との間で連携大学院制度を設け、理研の研究者が大学院の教官を兼務するとともに、大学院生が理研で研究して学位を取れる道が開かれた。科学技術庁傘下の研究所が、文部省が監督する大学との間でこのような連携を図れることを示した初めてのケースであった。現在では16の大学院と連携大学院協定を締結している。 1991年(平成3年)には、優れた研究者を招聘(しょうへい)し、企業等からの受け入れ資金で運営する特別研究室の第1号として、後藤英一特別研究室が設置された。そしてこのころから、理研の研究予算は急激に増加した。 1993年(平成5年)には、小田 稔第6代理事長の下、第1回の理研アドバイザリー・カウンシルが開催された。これは、外部の委員を招いて理研の経営を評価する初めての試みであり、急速に発展する理研の将来を占う極めて重要な事業となった。ここでは、理研の研究分野を5つに分け、おのおのの分野を代表する研究者を北米・欧州・日本から各1名ずつ招聘し評価を受けた。また評価に際して、理研の経営や現状分析、そして各研究室の活動に至る詳細な報告書が英文で編さんされた。メンバーの3分の2が外国人というこの評価委員会は、その後、他機関において外部評価を進めるにあたり大いに参考とされたところである。 |
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研究拠点の拡大化
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1995年(平成7年)、英国ラザフォード・アップルトン研究所(RAL)にミュオン発生装置を持ち込み、海外へ研究拠点を拡大。より強いミュオンビームを求めての海外展開であった。
1996年(平成8年)には、前年の阪神淡路大震災の発生を受けて、地震国際フロンティア研究プログラムを発足させた。 1997年(平成9年)、大型放射光施設SPring-8が播磨(兵庫県)の科学公園都市に完成。SPring-8は世界最高の性能を有する放射光施設で、その建設が理研と日本原子力研究所の共同事業として行われるという、画期的な事業であった。また施設は、共用施設として国内外の研究機関、大学にも開放され、さらに電子ビームの一部は、併設されている兵庫県の小型放射光施設にも供給される複合施設である。 同年、米国ブルックヘブン国立研究所(BNL)が開発整備する超大型衝突型加速器(RHIC)にスピン物理研究を持ち込むため、BNL内に理研BNL研究センターを設立、日米科学協力のシンボルとなった。ここでの研究もまた、理研のリングサイクロトロンで実施されていた高温高密度原子核の研究をさらに発展させるための方策であり、国際的な協力の中で効率的に実施しようとするものであった。 さらに、フロンティア研究システムから大きく発展した脳科学を強力に推進するため、和光本所に脳科学総合研究センターを設置し、初代の所長として伊藤正男氏が就任した。 1998年(平成10年)には、地震防災フロンティア研究センターを兵庫県三木市に開設。同センターは、2001年(平成13年)に防災科学技術研究所に移管された。 1998年(平成10年)、生命科学の基本であるゲノムに焦点を当て、遺伝子、ゲノム、タンパク質の構造と機能について分子レベルから個体レベルまでの研究を実施するため、ゲノム科学総合研究センター(GSC)を開設した。2000年(平成12年)に横浜研究所を開設し、GSCを移設。また、ミレニアム・プロジェクトとして発足した、植物の機能の強化と開発を目的とする植物科学研究センターと、オーダーメイド医療や予防医学の確立を目指した遺伝子多型研究センターを同研究所に併設し、ゲノムをキーワードとする一大研究拠点を構築した。 もう一つのミレニアム・プロジェクトとして、発生・再生の仕組みの解明と再生医療への応用に向けた学術基盤の確立を目指す、発生・再生科学総合研究センターを発足させ、2002年(平成14年)に設立した神戸研究所に置いた。 また、ライフサイエンス筑波研究センターを筑波研究所に改組し、わが国におけるバイオリソース事業の一大拠点として整備することになった。シロイヌナズナやマウスを系統的に繁殖させ、理研内のみならず国内の研究機関に対しその頒布を行うセンターとしての役割を果たすことが期待されている。 さらに2001年(平成13年)、アレルギー疾患の原因究明・臓器移植時の拒絶反応抑制など免疫システムの基礎的・総合的解明を目指した免疫・アレルギー科学総合研究センターが横浜研究所に併設された。 そして2002年(平成14年)、理研の屋台骨を支えてきた主任研究員により運営されてきた研究室群を中央研究所として位置付けた。主任研究員制度は、戦前、大河内正敏※4ページ参照によって発案され、主任研究員に人事や研究費などに関する大きな権限を与えるとともに、責任を明確にして、自ら研究を行わせたシステムである。各研究室は、その構成員の数もまちまちであるが、研究者の主体性に基づいた萌芽的・基礎的研究を推進する体制である。 このようにして、物理、化学、工学、生物学、そして医科学へとその裾野を広げ、わが国の科学技術の試験研究機関として発展。研究論文の発表数は開設当初、年間150報程度だったものが、今では1500報を超えるまでになった。予算も科学技術振興という国の施策にも乗って大幅に増加し、競争的研究資金を加えると1000億円になろうとしている。また、研究系の職員の総数も2300を超え、名実ともに日本有数の研究機関となった。 このように新しい研究分野を切り拓き、新しい研究の進め方を模索して実施し、また新たな評価制度まで果敢に挑戦してきた特殊法人理化学研究所は、この9月をもって解散し、新たに独立行政法人理化学研究所として10月1日に発足した。ここにまた新たな1ページが開かれた。■ |
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ナノスケールで現れる量子現象を
電子の波で見る 外村 彰 フロンティア研究システム 単量子操作研究グループ |
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電子の波でミクロの世界を見る
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「子供のころから水面の波紋を見ていることが好きでした」と語る外村チームリーダーは、大学卒業後に日立製作所の電子顕微鏡の応用開発部門に入り、電子線を扱うようになった。「大学の量子力学の講義で、電子は粒子であり、波でもあることを学びました。その時、電子の波をぜひこの目で見てみたいと思いました」
電子の波は、水面の波紋のように直接見ることはできない。電子の波を見るには「干渉」と呼ばれる波特有の性質を利用する。干渉とは波が重なるとき、波の山と山が重なると高くなり、山と谷が重なると打ち消し合う現象である。電子の波が高い場所はフィルムが強く感光して、干渉した波が縞(しま)模様として残る。これが「干渉縞」である。 1968年、外村チームリーダーらは電子顕微鏡の技術により、電子の波の干渉による「電子線ホログラフィー」が可能なことを世界で初めて実証した(図1)。まず電子線によるきれいな平面波を作らなければならない。次にこの平面波を物体に当てる。物体により乱された波(物体波)には、物体の情報が反映されている。そこに乱れていない平面波(参照波)を干渉させる。するとその干渉縞(ホログラム)には、参照波を基準として物体波がどのくらい乱されているかが記録される。このホログラムにレーザー光を当てると、物体波の情報が光に変換され、物体の立体像(ホログラフィー)が浮かび上がる。 ホログラフィー電子顕微鏡は、普通の電子顕微鏡では観測できないものを可視化できる。図2は極微の磁石をとらえたものである。普通の透過型電子顕微鏡では、物体を透過した電子線の強度分布を画像化するので、シルエットしか見えない。一方、ホログラフィー電子顕微鏡では、電子の波が磁力線で乱されるので、磁石内部の磁力線まで観察できる。
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“科学史上最も美しい実験”
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外村チームリーダーらはホログラフィー電子顕微鏡の技術を発展させながら、さまざまな量子現象の可視化に成功してきた。「電子の二重スリット実験」は、2002年、英国の科学雑誌『Physics World』の読者投票で、“科学史上最も美しい実験”の第1位に選ばれた。2位以下にはガリレオ、ミリカン、ニュートンなど科学史上の巨人が並ぶ。
この実験では、時間をおいて1個ずつ撃ち出された電子が、電子線バイプリズムという装置を通って検出器に到達し、1個ずつの粒子として記録されていく(図3)。最初、電子はランダムな位置に到達するように見えるが、数が増えるにつれて模様が見えてくる。干渉縞が現れるのだ(図4)。 電子は1個ずつしか出していない。電子が電子線バイプリズムのどちらか片側を通ったなら、干渉縞はできないはずだ。1個の電子が、2つの波に分かれて両側を同時に通り干渉を起こした後、検出器で1個の粒子として観測されたと考えざるを得ない。「米国のR. Feynman(ファインマン)(朝永振一郎博士とともに1965年のノーベル物理学賞を受賞)は、ここに“量子力学の真髄”があると指摘しています。しかしなぜそうなるのかは、考えない方が身のためだとも忠告しています」
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AB効果論争に決着
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「最も印象深い実験です」と外村チームリーダーが振り返るのが、AB効果の実証である。1959年、英国のY. Aharonov(アハラノフ)とD. Bohm(ボーム)は“電子は、電場や磁場がなくても「ベクトル・ポテンシャル」によって影響を受ける”と主張した。これがAB効果である。ベクトル・ポテンシャルとは、19世紀に電磁気学を確立したマックスウェルが方程式に加えたものだ。しかし物理的に意味を持たない“数学的な量”だと、長らく考えられていた。電磁場は直接見ることはできない。そこで、電気や磁気を帯びた物質を置いたときに、そこに働く力として電磁場を定義してきた。もしAB効果が存在して電磁場がないところでも電子が影響を受けるのなら、そもそも電磁場とは何なのだろうか? この疑問が糸口となり、「力の統一理論」が発展する。力の統一理論は、自然界に存在する4つの力(電磁気力・重力・強い力・弱い力)を統一的に記述する究極理論である。 1970年代、力の統一理論の研究においてベクトル・ポテンシャルはその概念が拡張され、「ゲージ場」と呼ばれる最も基本的な物理量だと考えられ始めた。しかし一方で、AB効果を明確に否定する研究者も登場し、1980年ごろ大論争に発展していた。 「私たちは確実な実験事実を示して、この論争に決着を付けたいと考えました。そこで日立製作所の微細加工技術を駆使している研究室に頼み込んで、磁場が漏れない微細なリング状磁石を苦心の末に作製しました。そしてリングの中と外に電子線を通して、ホログラフィー電子顕微鏡で観察したのです」。すると、リングの中と外はどちらも磁場がないのに、電子の波面がずれる現象を見事にとらえた(図5)。実験を着想してほぼ6年がたった1986年、年来のAB効果論争についに終止符を打ち、ゲージ場が実在することを示した。 |
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1MVホログラフィー電子顕微鏡の開発
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ホログラフィー電子顕微鏡には、明るく、干渉しやすい電子線が欠かせない。電子線の明るさ(輝度)を高めるには、たくさん電子が出る(電流密度が高い)電子銃が必要である。干渉しやすい電子線(波長が一定で乱れのない平面波)にするには、発生した電子を、干渉しやすい状態を破壊しないように、加速管で加速しなければならない。
「初めてホログラフィー像を得た1968年当時、金属を熱して電子が飛び出す熱電子線を使用していました。しかし熱を利用するので電子の速度にばらつきがあり、高温にしすぎると金属が溶けて電流密度にも限界がありました。電子線が暗く、ホログラムの撮影に10分も露出する必要があったのです。これでは実用になりません」 そこで、外村チームリーダーらは細い針の先に高い電圧をかけると点光源から電子が飛び出す「電界放出電子銃」の開発に着手した。速度にばらつきがなく、熱電子線よりはるかに高い電流密度が得られる。1978年、外村チームリーダーらは電子線の輝度を100倍向上させ、ホログラフィー電子顕微鏡の実用化に成功した。 電子線の輝度を上げるには、加速電圧を上げることも重要だ。加速するほど電子線が広がらずに輝度が高まる。また電子を加速するほどその波長は短くなり、よりミクロの世界を観察できる。 外村チームリーダーらは1989年に350kVのものを完成させた後、念願の1MV(100万V)のホログラフィー電子顕微鏡の開発を目指した。1MVの電子銃の光源は5nm。これは普通の電子顕微鏡の数万分の1、わずか原子数十個分の大きさだ。「5nmの光源が1nmでも揺れると輝度が減少し、波面が乱れます。加速管も350kVでは30cmの長さですが、1MVでは150cmになります。この長い距離にわたり揺れを5nm以下に抑えて、試料に当てなければなりません」 なんと原子スケールの精度で揺れを防止しなければならないのだ。さらに加速電圧の安定度にも極限技術が求められた。電子の波長を一定にするため、1MVの超高電圧において、0.5Vの電圧の変動も許されない。 外村チームリーダーらは、1997年から1MVホログラフィー電子顕微鏡を実際に作製し始めた。「2年間で完成させるつもりでしたが、なかなか大変で、これは駄目かなと思ったときもありましたが、ようやく4年目にできました」。2000年4月、1MVホログラフィー電子顕微鏡がついに完成した(図6)。最大倍率400万倍、格子分解能0.0498nmという世界記録を樹立した(図7)。電子線の輝度は1968年当時の2万倍。これも世界記録だ。ホログラフィー電子顕微鏡の技術では、外村チームリーダーらにライバルはもはや存在しない。
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高温超伝導体の内部を見る
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実は、1MVホログラフィー電子顕微鏡の作製は、科学技術振興事業団の高温超伝導研究プロジェクト(1997-2001年度)として行われた。電子顕微鏡は完成したが、プロジェクトは約1年しか残されていなかった。超伝導とは、ある温度以下で電気抵抗がゼロになる現象である。1986年、従来よりもはるかに高い温度で超伝導状態になる高温超伝導体が発見され、世界中に“超伝導フィーバー”が巻き起こった。エネルギー損失のほとんどない送電や電力貯蔵など、高温超伝導の実用化はエネルギー問題解決の切り札になり得る。 しかし、その実用化にはまだ課題が多い。例えば、超伝導体は磁場に弱い。強い磁場が働くと、鉛などの「第1種超伝導体」は一気に超伝導状態が破れてしまう。ニオブや高温超伝導体などの「第2種超伝導体」では、細い糸のような形で磁束が貫く「磁束量子」がたくさんできる。この状態ではまだ全体として超伝導状態だが、大きな電流を流すと磁束量子が動いて熱が発生し、超伝導状態が破れてしまう。これを防ぐため、超伝導体のきれいな結晶の中に不純物などの欠陥を作り、そこで磁束量子を動かないように固定する、つまり「ピン止め」することが経験的に行われている。 いかに磁束量子をピン止めして大きな電流を流せるかが実用化への鍵なのだが、肝心のピン止めのメカニズムが解明されていない。メカニズムを解明しようにも、磁束量子を直接観察することができないのだ。従来は、表面に磁性粉を振り掛けて、磁束量子に引き寄せられる様子を見るなどの間接的な観察法しかなかった。これでは磁束量子の内部や動態は分からない。 1989年、外村チームリーダーらは350kVホログラフィー電子顕微鏡により、ニオブの薄膜中の磁束量子を直接とらえることに世界で初めて成功した。ただし、高温超伝導体では磁束量子が太いため、試料をある程度厚くする必要がある。350kVでは電子線が透過できず観察できなかった。2001年、外村チームリーダーらは、1MVホログラフィー電子顕微鏡により、高温超伝導体内部の磁束量子の様子や動態を直接とらえることに世界で初めて成功した(図8)。 「高温超伝導体は、超伝導状態になる層が重なっていて、層の間はすき間になっているような構造です。斜めに磁場がかかると1本の磁束量子が層ごとにジグザグに貫いたり、温度が上がると層ごとに独立に動き回るなど奇妙な動きをするので、ピン止めがしにくいのだと考えられています。それを直接観測できるようになったのです」 |
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量子現象を解明し、利用する
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2001年10月、理研フロンティア研究システムに発足した単量子操作研究グループ(グループディレクターを外村チームリーダーが兼務)は、ナノスケールで現れる量子現象を解明し、量子現象を利用した新しい装置や材料、情報技術の開発を目指している。「装置をナノスケールまで微細化していくと、さまざまな量子現象が現れることが次々と分かってきました。かつて、このような量子現象は装置を動かす上で不都合なことだと思われていました。しかし現在では量子現象を逆に積極的に利用する研究が盛んになっているのです」
巨視的量子コヒーレンス研究チーム(蔡 兆 申(ツァイヅァオシェン)チームリーダー)では、量子コンピュータの研究を行っている。1つの電子が、いくつもの状態を同時にとれることを利用して、大量の計算を並列的に行い、従来の計算速度をはるかに超える超高速コンピュータを実現しようというのだ。 量子ナノ磁性研究チームを率いる大谷義近チームリーダーは、極細の磁性体ワイヤーに電流を流すと、「磁区構造」によって電流が変化する新たな量子現象を発見した。 「われわれ量子現象観測技術研究チームは、1MVホログラフィー電子顕微鏡を駆使して、量子コンピュータの原理の解明や、磁性体ワイヤーの研究を、蔡さんや大谷さんのチームと協力して行いたいと考えています」と外村チームリーダー。 デジタル・マテリアルチームのFranco Nori(フランコ ノリ)チームリーダーは、複雑系の若手理論研究者である。理論家が加わっていることも研究グループの特徴だ。「彼はいま磁束量子などの理論研究をしています。日本にも世界から優秀な人が集まらないと話になりません」 ナノサイエンスの最先端研究者が集結した単量子操作研究グループは、すでに世界から大きな注目を集める存在である。外村チームリーダーは、自ら開発した電子線ホログラフィーを武器に、ミクロの世界を理解し、それを制御する新しい試みを次々に展開している。■ |
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2003年 理化学研究所 科学講演会のお知らせ
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本年度の科学講演会を以下のとおり開催いたします。今回は理研が推進している「脳科学」をテーマに、最先端の研究を紹介します。皆さまのご来場をお待ちしております。 日時: 10月30日(木)14:00〜17:20(開場13:00) |
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「里庄セミナー」が開催される
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今年は、理研が強力に推進している「脳科学」をテーマに、脳科学総合研究センター(BSI)の加藤忠史チームリーダー(精神疾患動態研究チーム)が「躁(そう)うつ病の脳科学の現状および新規ビタミンPQQについて」、伊藤正男特別顧問(前所長)が「脳科学からの21世紀の処方箋(しょほうせん)」と題して講演しました。講演開始前から会場には高校生からお年寄りまで多くの来場者が訪れ、講演後の質疑応答では熱心に質問する来場者の姿もあって、盛況のうちに幕を閉じました。 セミナーに先立ち、『占領軍の科学技術基礎づくり』(『理研ニュース』9月号原酒参照)の著者であるボーエン・C・ディーズ氏の厚意によって、この春、理研に寄贈された仁科芳雄博士の写真が額装され、小林俊一前理事長より科学振興仁科財団の佐藤清理事長に手渡されました。この写真は、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の経済科学局科学技術課課長のジョン・オブライエン准将(左から5人目)、ハリー・ケリー課長代理(左から2人目)らとともに1950年1月に撮られたものです。当時としては貴重なカラー写真として、現在、仁科博士の生家に飾られています。 |
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独法化を振り返って
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1993年、小田 稔理事長(当時)の後を継いで理化学研究所の理事長を命じられたとき、脳裏をかすめたのは、エージェンシー制度が適用されるとすれば真っ先に理研が対象になるのではないかという恐れであった。それに対処するため自律性を高めておかなければならないが、最も適切な手段は、大河内正敏精神の復活であると思ったのである。理化学研究所の理事長に着任して1、2年たったころからであったか、私は理事会などで話し、理研の特許を所外に宣伝することや、理研内に企業を興すことを提案した。坂口富士男理事(当時)がその後、この考えを実現するため担当者として努力してくれた。このように考えたもとには、もちろん理研の伝統の再認識もあったし、アメリカで1980年に制定されたBayh-Dole(バイ ドール)法の影響で、学より産への技術移転の必要性が、日本の大学や国立研究所へ及んできたという時代の背景もあった。しかし同時に、英国のエージェンシー方式を日本で導入するとすれば、さしずめ特殊法人からではないかと心配し、そのための準備をしておくべきだという気持ちがあったことは事実である。 行政改革会議に独立行政法人への転換の話が具体化する段階で、私の予想に反したことは、公務員型と非公務員型という2つの可能性が出てきたことである。私は非公務員型のみになるかと読んでいた。しかも国立研究所はほとんど公務員型の独立行政法人へ転換することになった。そしてまず、国立研究所の独法化を行うことになったのである。独立行政法人になると、主務大臣が中期目標を立て、それに基づいて各法人は中期計画を作ることになる。また主務大臣は評価をし、その評価に基づいて予算を決めることになる。 理研はすでに中期計画に近いものを立て、その上外国人を含む外部評価を行ってきているのだから、独立行政法人になっても問題ないと私は予想していた。しかしまず国立研究所群の独法化が行われ、特殊法人は後回しになってしまった。そして第2陣として、理研、原子力研究所等の独法化が今まさに行われようとしているのである。行政の上で企画・立案は国が直接行い、実施の部分は独立行政法人にするという方針である。この方式によって各法人の自主性が増し、理事長をはじめ執行部の権限と責任が大きくなる。新体制になり理化学研究所がいっそう発展することを祈っている。■ |
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