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No. 250 April 2002

(上)ウィグナー結晶による
液体ヘリウム表面の凹凸
「低温ヘリウムの表面で探る量子力学の世界」から

(下)分子動力学シミュレーションによる
変異Ras p21 Gタンパク質の動的構造変化

「新たな遺伝子知識を創出するバイオインフォマティクス」から
(上)ウィグナー結晶による液体ヘリウム表面の凹凸
(下)分子動力学シミュレーションによる変異Ras p21 Gタンパク質の動的構造変化



研究最前線

低温ヘリウムの表面で探る
量子力学の世界

中央研究所 低温物理研究室
主任研究員 河野公俊

ヘリウムは、絶対零度 0 K(−273.15℃)でも液体で存在する唯一の元素である。ヘリウムを絶対零度近くまで冷やすと、「超流動」と呼ばれる“粘性がない”状態になる。例えば、超流動ヘリウムを円筒容器に入れて流れを与えると、永久に流動し続ける。超流動は、ミクロな世界の物理法則である量子力学的な現象が、マクロなスケールで現れた状態である。河野公俊主任研究員らは、0.001K以下で超流動状態にしたヘリウム3(3He)の液体表面上にとらえた「2次元電子系」により、表面の性質を調べるという、世界に例のない実験を進めてきた。独創的な実験により、未知の量子力学的現象がマクロなスケールで見えてきた。


“永久気体”ヘリウムの液化

河野主任研究員ヘリウム4(4He)は、陽子2個・中性子2個の原子核と電子2個からなる。ヘリウムは、絶対零度でも圧力をかけないと固体にはならない。「ヘリウムには、激しく動こうとする性質があるように見えます。それは質量が軽いことや、電子が2個で安定していてヘリウム原子同士の相互作用が非常に弱いことによります」と河野主任研究員は説明する。
 かつて、酸素・窒素・水素は、液体にならない本当の気体という意味で“永久気体”と名付けられた。しかし、いずれも20世紀が始まるまでには液化され、最後に残された永久気体がヘリウムだった。ついに1908年、オランダのカマリング・オネスが4.2Kで4Heの液化に成功した。さらに2.17K以下で超流動らしき現象を、オネスは報告している。ただし、超流動現象が実験的に認識されたのは1938年のことである。
 超流動状態の液体を円筒容器に入れて流れを起こすと、流れがいつまでも減衰せずに続く「永久流」になる。一般に見られる「常流動」では、液体中の各粒子が独立に運動をしていて、容器の壁などにぶつかると運動の向きを変えて運動量を減らし、やがて流れが減衰してしまう。ところが超流動では、粒子が量子力学的に「ボーズ・アインシュタイン凝縮(ボーズ凝縮)」と呼ばれる状態になり、各粒子は独立して勝手には動けず、周りの粒子と相互作用しながら運動しなければならなくなる。その結果、運動量が減らずに、永久流となる。


4Heと3Heの違い

4Heには、3Heという同位体がある。3Heの原子核は中性子が1個少なく、陽子2個と中性子1個からなる。3Heは4Heとはまったく違う性質を示すことが分かってきた。4Heと3Heの違いは、「ボーズ粒子」と「フェルミ粒子」の違いを反映している。陽子・中性子・電子の合計数が偶数の粒子はボーズ粒子であり、奇数の粒子はフェルミ粒子である。4Heの粒子の合計数(陽子2+中性子2+電子2=6)は偶数なので、ボーズ粒子である。一方、3Heの粒子の合計数(陽子2+中性子1+電子2=5)は奇数なので、フェルミ粒子である。
 ボーズ粒子は1つのエネルギー状態に粒子がいくつでも入ることができる。ボーズ粒子である4Heでは、2.17K以下になると、多数の粒子が最低エネルギーレベルへと落ち込んでいくボーズ凝縮を起こして、超流動状態になる。一方、フェルミ粒子は、1つのエネルギー状態に1個の粒子しか入れない。つまり3Heは、そのままではボーズ凝縮が起きず、超流動にならない。3Heの超流動が、0.001K以下でようやく実現されたのは、1970年代になってからである。
 なぜフェルミ粒子である3Heも超流動になるのだろう? 0.001K以下になると、液体3Heを形成している原子同士の振動による波(フォノン)を介して、2つの3He原子の間に引力が働き、2つ1組の対(クーパー対)を作るようになる。クーパー対は粒子合計数(5+5=10)が偶数なので、ボーズ粒子として振る舞うようになり、ボーズ凝縮を起こして超流動となる。
 図1と図2は、気体・液体・固体・超流動といった“相”の変化である「相転移」と、温度・圧力の関係を示しており、4Heと3Heの性質の違いが分かる。例えば、3Heの超流動には、A相とB相と呼ばれる性質が異なった状態がある。「特にA相は “異方的な”性質が強いという特徴があります。ある特定の方向に特別な性質を持つのです。これは、クーパー対を作ってボーズ粒子として振る舞うといっても、フェルミ粒子の性質が残ることの現れです」

図1:ヘリウムの相図[4K以下]図2:ヘリウムの相図[0.004K以下]


超流動3He表面上の2次元電子系

図3:液体ヘリウム表面上の2次元電子系の移動度
図4:ウィグナー結晶による液体ヘリウム表面の凹凸
図5:液体ヘリウム表面の滑らかさ
河野主任研究員らは、超流動3Heの液体表面上の電子の振る舞いを調べることで、ヘリウム表面の性質を探る実験を行ってきた。液体ヘリウム表面に電子を近づけていくと、電気的な引力や、反発力が働いて、表面から10nm(1nmは10億分の1m)ほどの距離に電子がとらえられる。電子1個分の厚みを持つ2次元的な層となり、液体ヘリウム表面に平行な方向にだけ動く「2次元電子系」ができる。
 図3は、この2次元電子系の、電子の動きやすさ(電子移動度)と温度の関係を調べた実験データである。温度が比較的高いところでは、液体ヘリウムの表面上にはヘリウム原子が蒸気として飛んでいる。すると電子は蒸気に衝突して動きにくく、移動度は低い。しかし温度が下がると蒸気が少なくなり、電子移動度が上昇する(図3a・b-I)。さらに温度が下がって蒸気の影響が小さくなると、今度はヘリウム表面を伝わる波の影響が目立ってくる。この波は、液体の表面張力波が “量子化”されたもので、「リプロン」と呼ばれる(図3a・b-II)。
 さらに温度を下げると、電子が結晶(ウィグナー結晶)を作る。これは、自由に動き回っていた電子が、温度の低下とともに動きを止め、電子同士の反発力で一定の間隔を開けて並んだ状態である。「電子が周期的な結晶格子を作ることをE.P.ウィグナーが1934年に予言しました。40年以上“理論家の夢想”といわれていたのですが、1978年に液体ヘリウム表面上の2次元電子系で初めて実現されたのです」
 電子が結晶を作ると、電子が上にある場所だけ液体ヘリウムの表面が0.1nmほどへこむ(図4)。「ウィグナー結晶ができると、ヘリウム表面の凹凸も一緒に引きずるようになり、電子は動きにくくなります。フェルミ粒子である3Heでは、温度の2乗に比例して電子移動度が下がります(図3b-III)。直観的な理解としては、温度の2乗に比例してヘリウム原子が動きにくくなってヘリウムの粘性が大きくなり、ヘリウム表面の凹凸を引きずる電子の移動度が下がるというイメージです」
 3Heは0.001K以下で相転移を起こして超流動になり、粘性がなくなり、電子は移動しやすくなって、電子移動度が急上昇する(図3b-IV)。


ヘリウム表面の“肌触り”を調べる

「以上の実験は、電子をゆっくりと動かしているために、ヘリウム表面の凹凸も一緒に引きずられるので、表面だけでなく、ある量の液体ヘリウムの性質を調べていることになります。表面だけの性質を調べるには、電子を速く動かす必要があります。例えていうと、肌を押さえて引きずると肉の感覚がありますが、速く動かすと表面をスリップして肌触りが分かるのです」
 図5が電子を速く動かして液体ヘリウム表面の“肌触り”を調べた実験結果である。電子に対するヘリウムの抵抗(散乱)が少ないほど、液体ヘリウムの表面が滑らかなことを意味している。超流動4Heの場合には、リプロンの波でどれだけ散乱するかという理論値とほぼ一致する。一方、3Heの場合には、約0.07K以下ではリプロンの理論値よりも散乱が少なくなる。超流動になるとさらに散乱が減る。リプロンの理論値より3Heの表面はスベスベしているのである。
 「これはリプロンがなくなることを、単純には意味しているように見えます。しかし、その理由は謎です。2次元電子系による液体3Heの表面の研究は、世界でも、私たちしか行っていない実験です。この謎も自分たちの手で結論を出さなければいけないと思っています」


ヘリウム表面を内側から調べる

液体ヘリウム表面上の2次元電子系の電子同士の間隔は、1μm(100万分の1m)程度である。「2次元電子系を動かすと、表面と平行な方向で1μm間隔、深さ方向にも1 μmくらいの“分解能”で表面の性質を調べていることになります」
 研究室では液体ヘリウム表面の内側に電子やイオンを打ち込むことで、nmレベルの分解能で液体表面の性質を調べる実験を行っている。図6左が電子を打ち込んだ様子である。電子が周りのヘリウムを押しのけて、気泡のような状態になり、その中に電子が閉じ込められた「電子バブル」になる。図6右はヘリウムの2個の電子のうち1個をはぎ取ってプラスイオンを作り、液体ヘリウムに打ち込んだ状態である。プラスイオンが周りのヘリウム原子を引きつけて「スノーボール」と呼ばれる固まりになる。
 「電子バブルやスノーボールの移動度を超流動でも測れるようになってきています。この方法で、A相・B相の、表面の性質の違いを、詳細に調べたいと思っています」

図6:液体ヘリウム表面の内側に打ち込まれた電子バブルとスノーボール


2次元系の化学実験の舞台

ヘリウムの表面は、2次元系の粒子を反応させて、化学反応の基礎的な過程を調べる“舞台”としても利用できる。
 「最近私たちは、液体ヘリウム表面上で2次元系の水素原子と電子を反応させる実験を行いました(図7)。すると、水素原子が電子1個を付けてマイナスの水素イオンができる反応と、水素原子同士がくっついて水素分子ができる反応が起きます。これは、とても基本的な化学反応の一種です」
図7:液体ヘリウム上の電子と水素原子  従来の方法では、ガス状の水素原子を作り、そこに電子線を当てるという実験がほとんどである。これは動き回っている多数の水素原子・電子の反応を見ていることになる。一方、液体ヘリウムの表面上では、位置が定まったところに1個の水素原子や1個の電子をとらえて、反応を計測できる。
 「水素原子と電子がどのような物理現象を引き起こすか、その反応過程をきちんと計算した研究は、まだありません。この方法で、化学反応の基礎的な過程を取り出し、数式でモデル化したいと思います」


ナノサイエンスに迫る

「ヘリウムが液体になる温度では、ヘリウム以外の元素はすべて固体になってしまうので、液体ヘリウムには不純物がなく、極めて純粋な現象を見ることができるという長所があります。特に3Heの表面は、まったく不純物がありません。他の元素では不純物を完全には取り除くことができないので、実験結果を理論的に解釈する際、問題となります。純粋な現象を見ることができるヘリウムは、すべての元素の中でも、最もよく性質が調べられた元素です。相転移の研究としてもヘリウムがいちばんよく研究されており、宇宙誕生のシナリオ作りにも役立つかもしれません」
 宇宙誕生時のビッグバンでは、ある種の相転移が起きて、重力や電磁気力などの力が枝分かれしたと考えられている。「ビッグバンの相転移と3Heの相転移がどれだけ類似性があるか、必ずしも結論は出ていません。ただし、宇宙論で可能性が議論されている、相転移に伴う“宇宙ひも(コズミック・ストリング)”と呼ばれる構造と、超流動ヘリウムの中にできる“量子化された渦”の数学的な対応は、はっきり分かっています。ビッグバンのシナリオが本当かどうか、ヘリウムを研究することで、ある程度、理解が進むのです」
 現在の宇宙は3Kの温度を持つ「宇宙背景放射」と呼ばれるビッグバンの名残の電波で満たされている。「宇宙では人類がとても実現できないような高い温度の高エネルギー現象が起きています。しかし、現在の熱力学で考えると、3Kよりも低い温度は、知的生命体が作り出さない限り、宇宙ではあり得ない環境なのです」
 「原子核の内部を探るなど、より小さなスケールの量子力学を探るには、高い温度での実験が必要です。一方、大きなスケールで現れる量子力学的な現象を研究するには、低温での実験が適しています。ミクロスケールである程度分かっている量子力学と、古典的なニュートン力学で記述できるマクロスケールまでの途中段階に、量子力学とニュートン力学の両方が重要な役割を果たすスケール領域があります。それが“ナノスケール”です。ナノスケールの物理を解明するために、私たちが行ってきた低温実験の手法が有効だと考えています。液体ヘリウム表面上の2次元電子系を1μmくらいの領域に閉じ込めることにより、ナノスケールでの量子力学的な性質を調べる研究を、現在企画しているところです」
 低温物理研究室の世界に例を見ない独創的な研究手法は、ナノサイエンスにもブレークスルーをもたらすことだろう。



※:クーパー対
超伝導現象を説明する「BCS理論」の提唱者のひとりであるアメリカのL.N. クーパーが指摘した現象。超伝導体中でも、ある温度以下で電子がクーパー対(電子1+電子1=2)を作り、ボーズ凝縮して電気抵抗がなくなる。



監修:低温物理研究室
主任研究員 河野公俊

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研究最前線



新たな遺伝子知識を創出する
バイオインフォマティクス

横浜研究所 ゲノム科学総合研究センター
ゲノム情報科学研究グループ
プロジェクトディレクター 小長谷明彦

生物学に情報処理技術を導入したバイオインフォマティクス(生命情報科学)によって、ゲノム配列の解読は急速に進んだ。そしてポストゲノム時代を迎えた現在、バイオインフォマティクスの役割は、遺伝子の機能やタンパク質の立体構造の解明へと新しい段階に移行しつつある。「さまざまな生物学的なデータについて、バイオインフォマティクスから生まれた新しい技術を用いて横断的に解析し、新しい遺伝子知識を生み出すことが、私たちのグループの目的です」と、小長谷明彦プロジェクトディレクター(北陸先端科学技術大学院大学知識科学研究科教授を併任)は語る。新しい遺伝子知識の創出を目指し、“遺伝子知識スパイラル”が動き始めた。


生物学と情報処理技術との融合

小長谷プロジェクトディレクター 生物の遺伝情報は、A(アデニン)、T(チミン)、G(グアニン)、C(シトシン)という4種類の塩基によってDNAに記されている。DNAの全塩基配列1セットをゲノムといい、その一部にタンパク質を作る情報が記された遺伝子がある。ヒトゲノムは30億塩基対で、遺伝子は5万個といわれている。生命の設計図ともいえるゲノム配列の解読は、ヒトをはじめとするさまざまな生物種を対象に世界中で進められ、ゲノム情報量の増加は目覚ましい。配列が解析された遺伝子数は、この10年間で1000倍にも増え、1600万を超えている。総塩基数は200億近い。
 「従来の生物学のやり方だけで、この膨大な量の情報を解析できるかというと、やはり難しい。高性能計算機を使いこなさないと、必要な情報が出てこない時代になっているのです」。だが、小長谷プロジェクトディレクターは、こうも言う。「私は10年以上、ゲノム解析を研究してきました。その中で実感したのは、情報処理技術だけではゲノム情報は解析できないということです」
 ゲノム科学総合研究センター(GSC)のゲノム情報科学研究グループでは、生物学の知識を持つ情報処理研究者と、情報処理技術を持つ生物学者が、タッグを組んでバイオインフォマティクスに取り組んでいる。


遺伝子知識スパイラル

図1:遺伝子知識スパイラル小長谷プロジェクトディレクターは、バイオインフォマティクスを展開する上で、2つの技術に注目している。1つ目は、“知識集約型バイオインフォマティクス技術”である。生物学者が持っている知識を活用し、新たな遺伝子知識を生み出そうというものだ。2つ目は、高性能な専用計算機を構築したり、多数の計算機を協調して利用するための“高性能計算技術”である。
 「生産性を上げるためにも、有用な知識を生み出す仕組みをしっかり作りたい」と語る小長谷プロジェクトディレクターは、一橋大学の野中郁次郎教授が提唱した「知識スパイラル」に注目した。経験を通して内面に蓄積された「暗黙知」が、言葉や図などで表現された「形式知」になって初めて、知識が体系化される。さらに、形式知から暗黙知へ、暗黙知から形式知への循環が、新たな知識を生み出す源泉だという考え方である。
 「この考え方を、バイオインフォマティクスに応用したものが“遺伝子知識スパイラル”です」と小長谷プロジェクトディレクターは説明する(図1)。実験データや文献から知識を抽出して、モデルとして体系化する。モデルをシミュレーションすることで新たな仮説を生み、それを実験で検証する。このプロセスを繰り返すことで、新たな遺伝子知識を生み出す。ゲノム情報科学研究グループでは、5つの研究チームが独自のアプローチで遺伝子知識スパイラルの実現を目指している。


文献情報からの知識抽出

図2:遺伝子知識発見システム 遺伝子スパイラルの出発点が、実験データや文献からの知識抽出だ。「生物学者の頭の中に入っている知識を、なんとか抽出して活用できないかと考えています」
 例えば、Web上の文献データベースには1000万件もの文献情報が入っている。生物学者は、タイトルや要約から、自分が求めている情報かどうかを一瞬で判断する。しかし、生物学の知識がない人には、どれが重要な情報なのかがまったく分からない。
 遺伝子ネットワークモデル化研究チームでは、生物学者が文献の有用性を判別するときの思考パターンをプログラムした「自動抽出システム」を開発している(図2)。「すでに、生物学者が検索するのと同等の質の文献情報を、自動的に抽出することができるようになっています」


遺伝子ネットワーク

図3:変異遺伝子の探索
「病気などの異常がなぜ起きるのか、それにはどの遺伝子の変異が関係しているのか。私たちが知りたいのは、遺伝子の機能と実際に生じる現象との関係です」
 遺伝子は、他の遺伝子の発現を活性化したり、抑制したりしている。遺伝子の情報から作られるタンパク質も、他のタンパク質や遺伝子と相互作用をしている。細胞の中では、たくさんの遺伝子そしてタンパク質が、相互作用のネットワークを形成することで、機能を実現しているのである。このネットワークを解明しなければ、遺伝子の機能を解明したことにはならない。では、どのようにして相互作用している遺伝子を知ることができるのだろうか。
 例えば、ある異常を持つマウスでは、1番染色体のD1Mit12領域と、17番染色体のD17Mgh2領域の両方に大きな変異が見られるとしよう。各領域にある2つの遺伝子が変異し、相互作用した結果、異常を引き起こしたのではないかと予測できる(図3)。しかし、その領域にはそれぞれ100〜1000個の遺伝子がある。変異していると予測される遺伝子の組み合わせは100万通りにもなる。ひとつひとつ実験で確認して、変異遺伝子を見つけ出すことは不可能だ。
 一方、情報データベースを活用することで、1つの文献に一緒に出てくる遺伝子、相互作用をするタンパク質など、さまざまな情報から関連がありそうな遺伝子を見つけることができる。1000通りまで候補を絞り込むことができれば、実験で確認することも可能だ。ゲノム知識ベース研究開発チームでは「変異遺伝子の自動探索システム」の開発を進めている。個体遺伝情報研究チームでは、遺伝子の変異によって病気や体質にどのような違いが生じるかを調べている。


動的な振る舞いをモデル化

ネットワークを作っている遺伝子が分かれば、次はそれぞれの因果関係を数式を使ってモデル化する。情報伝達モデル化研究チームでは、上皮細胞成長因子(EGF)のシグナル伝達機構のモデル化に取り組んでいる。
 「生物学者が作る図からも、シグナル伝達の流れは分かりますが、“静的な状態”を示しているにすぎません」(図4左)と小長谷プロジェクトディレクターは指摘する。実際は、ある遺伝子の発現量の変化がタンパク質の濃度を変化させることで、次々とシグナルが伝達されていく。濃度変化や時間変化といった“動的な振る舞い”を理解しなければ、遺伝子ネットワークのモデル化はできない。「まず知らなければならないのは、どの遺伝子やタンパク質がどれだけ発現しているかです」
 遺伝子やタンパク質の発現量は、DNAマイクロアレイ※1ウエスタンブロット※2によって測定ができる。そこからタンパク質の濃度を推定する。その他、タンパク質同士の結合定数、解離定数、反応の速度定数など、さまざまなデータを実験によって網羅的に調べる。それらのデータについて微分方程式を用いて解析すると、EGFのシグナル伝達をタンパク質濃度の時間的変化でモデル化することができる(図4右)。
 しかし、実験から得られたデータをすべてモデルに入れてしまうと、矛盾するものが出てきてしまう。「どのデータを選んで入れるかには、高度な判断が要求されます。この判断は情報処理研究者では難しい。データの取捨選択のところで、生物学の知識が生かされるのです」
 また、数理モデルでは、微分方程式が3つ以上になるとエラーが蓄積して、計算結果が信頼できないものになることがあるといわれている。遺伝子ネットワークのモデル化では、数十のタンパク質について連立微分方程式で計算している。モデルが意味あるものなのかどうかを、実験によって検証する必要がある。

図4:上皮細胞成長因子(EGF)情報伝達機構


実験へのフィードバック

図5:細胞周期のモデル化情報伝達モデル化研究チームでは、細胞周期のモデル化にも取り組んでいる(図5)。細胞周期が短くなると、DNA複製の際に生じたミスや損傷のチェック・修復が不十分となる。細胞のがん化につながるため、細胞周期の制御は重要だ。
 細胞周期は、数種類のサイクリン依存性キナーゼ(Cdk)によって制御されている。細胞分裂期(M期)を制御しているのは、Cdc2がサイクリンBと結合したM期促進因子(MPF)である。MPFは、Cdc25がリン酸基を取り除くことで活性化し、細胞分裂を促進させることが分かっている。
 モデルができれば、自由に条件を変えてシミュレーションすることができる。例えば、MPFを活性化させるCdc25を働かなくしても細胞周期は変化しないが、過剰に発現させると細胞周期が短くなるというシミュレーション結果が出ている。すでに実験で確認されている結果と一致することから、モデルの正しさが証明されたことになる。
 シミュレーションで新しい現象を引き起こして仮説を作り、実験で検証することもできる。「細胞周期モデルでは、シミュレーションで出た仮説を、いま実験で確かめています。遺伝子知識スパイラルの2周目が始まりました」



ペタフロップスマシンを作る

生命現象を実際に担っているのは、遺伝子の情報から作られたタンパク質である。タンパク質は、アミノ酸の鎖が複雑に折り畳まれて立体構造を作っている。立体構造の結合部位に特定の分子が結合することで、特異的な機能を発揮する。タンパク質の機能解明には、立体構造の解析が不可欠だ。
 タンパク質のような生体高分子をシミュレーションするには、多数の原子間に働くクーロン力、分子間力、共有結合力などを扱わなければならないため、高性能の専用計算機が必要になる。中央研究所情報基盤研究部が開発した、分子動力学シミュレーション専用計算機MDM(Molecular Dynamics Machine)の実行速度は、世界最速の78テラフロップス※3だ。図6は、MDMによるRas p21というGタンパク質の立体構造シミュレーションである。12番目のアミノ酸をグリシンからバリンに変えると、結合部位が変化した。すると、結合する分子が変わり機能が変化してしまう。Ras p21の変異体はがんの原因遺伝子でもある。
 ゲノム解析用コンピュータ研究開発チームでは、MDMの発展型ともいえる1ペタフロップスの実行速度を実現する専用計算機を、5年後の完成を目指して開発中である。「100万個の原子からなるタンパク質について、生体中での動きや変化をリアルタイムでシミュレーションすることができるようになります。非常にチャレンジングな課題ですが、得られる知識は格段に増えますから、タンパク質の機能解明に大きく貢献することでしょう」

図6:分子動力学シミュレーションによる


第3のネットワーク「グリッド」

ゲノム配列の解読をバイオインフォマティクスの第1期だとすれば、現在は遺伝子ネットワークやタンパク質の立体構造の解明を目指す第2期を迎えている。「データベースをWeb上で共有できるインターネットの存在が、バイオインフォマティクスを大きく発展させました。次のステップアップは、インターネットでもイントラネットでもない、第3のネットワーク“グリッド・コンピューティング”が担うのではないかと思っています」
 グリッド・コンピューティングは、複数のPCクラスタシステムや高性能計算機、大規模データベースを大容量ネットワークでつなぎ、1つの巨大な高性能計算機として利用する技術だ。研究室のパソコンからでも高性能計算機を自由に使うことができるようになる。セキュリティと安定性が、実用化に向けての課題だ。「最先端の情報処理技術を素早く取り込んで、バイオインフォマティクスを展開したいと考えています」
 バイオインフォマティクスの第3期で目指すのは、変異解析である。遺伝子配列の変異が、タンパク質の立体構造をどう変化させ、機能をどう変えるのか。その結果、遺伝子ネットワークにどのような影響を与え、最終的に個体にどのような現象が起きるのかを解明していく。薬の効き目や副作用を前もって知ることができるなど、医療や創薬に大きく貢献する。
 生物学と情報処理技術は、まったく異なる学問分野である。「生物学は定量性や再現性に課題があり、情報処理技術は融通が利かないといった、お互いの欠点が見えてきた状態です。確かに、バイオインフォマティクスは難しい。しかし、生物学だけでも、情報処理技術だけでもだめなんです」と小長谷プロジェクトディレクターは強調する。GSCのゲノム情報科学研究グループでは、2つの学問分野が融合し、遺伝子知識スパイラルを循環させることで、新たな遺伝子知識を生み出しつつある。



※1:DNAマイクロアレイ
cDNA(相補的DNA)をガラス上の区切られたスポットに高密度で固定させたもの。発現を調べたいmRNAに蛍光標識を付けて、マイクロアレイ上のcDNAと結合させる。各スポットの蛍光の有無と強度から、mRNAの発現量を知ることができる。


※2:ウエスタンブロット
複数の種類のタンパク質が混ざった試料から特定のタンパク質を検出する方法。試料をポリアクリルアミドゲル電気泳動によって分離させ、ニトロセルロース膜などに移し替え、目的のタンパク質に対する抗体(1次抗体)を反応させる。さらに酵素などで標識した2次抗体を1次抗体に結合させることで、目的のタンパク質を検出する。


※3:テラフロップス(Tflops)
計算機の数値計算速度を示す単位。テラフロップスは1秒間に1兆(10
12)回、ペタフロップスは1000兆(1015)回の演算を行う。




監修:ゲノム科学総合研究センター
ゲノム情報科学研究グループ
プロジェクトディレクター 小長谷明彦

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研究最前線

脳内における記憶想起のメカニズムを
世界で初めて解明

記憶想起に大きくかかわる「海馬CA3領域」と「NMDA受容体」

当研究所は、記憶想起にかかわる神経回路が大脳内の「海馬CA3領域」に存在し、記憶の再現に「NMDA受容体」が重要な働きをしていることを、世界で初めて突き止めた。理研-MIT脳科学研究センター条件的遺伝子操作研究チームの利根川進チームリーダーらの研究グループによる成果。研究グループでは、海馬のCA3領域に存在する特殊な神経回路に限ってNMDA受容体をノックアウトしたマウスを作製したところ、ある目印を手がかりにして記憶を獲得・再現する能力(パターン・コンプリーション)が損なわれていることを明らかにした。本研究成果は、これまで理論的に考えられていたパターン・コンプリーションに関するメカニズムを、世界で初めて生物学的に解明したものである。今後さらに研究が進むことによって、老化や病気による記憶力の低下を防ぐ治療薬の開発などへつながることも期待される。


記憶情報の想起は、記憶の獲得に劣らず重要な過程である。情報を脳内に蓄えることができても、これを取り出すことができなければ、“決断”や“行動”に役立てることはできない。研究の進展により、記憶情報の獲得や固定のメカニズムについては、新しい知見を得ることができた。しかしながら、想起の機構については、解明されていない謎が多い。日常生活における記憶の想起には、パターン・コンプリーションと呼ばれる特徴を伴う。例えば、パーティー会場で出会った人と楽しい時間を過ごした後、別の場所でその人を見かけただけでパーティーでの会話の内容がよみがえってくる。このような記憶想起のメカニズムが、脳内においてどのように実現されているかは、解剖学的知見に基づく仮説があるのみで、実験的には検証できずにいた。


脳の高次機能の一つである記憶の獲得に関しては、海馬が重要な役割を果たしていることが分かっている。特に海馬の中のCA3領域にある特殊な神経回路(auroassociative network)が、記憶情報の蓄積・想起、特にある部分から全体を連想する能力であるパターン・コンプリーションにとって極めて重要であることが理論的に知られていた。研究グループの中心メンバーである中沢一俊研究員は、記憶想起のメカニズムを探るため、海馬内のCA3領域に注目。この特殊な細胞回路に限って、脳の主要な神経細胞伝達物質であるグルタミン酸と結び付く「NMDA受容体」をノックアウトしたマウスを作製した。ノックアウトマウスの作製にあたっては、空間的・時間的に遺伝子のノックアウトを制御するCre-loxPという、研究グループが開発したシステムが用いられた。


CA3領域NMDA受容体ノックアウトマウスのパターン・コンプリーション能力を確かめる実験結果 CA3領域をノックアウトしたマウスと、正常なマウスの記憶想起を調べるために、「モリス水迷路」が用いられた。モリス水迷路は、白濁したマウス用のプールで、その中の1カ所に、マウスからは見えないようにガラスで作られた休憩所(プラットフォーム)が置かれている。この水迷路にマウスを放つと、水から逃れるためプラットフォームを探そうとする。正常なマウスは、何回か経験するうちに、水迷路外の目印をもとにして(空間記憶)、プラットフォームの位置を認識できるようになる。さらに目印を次々に取り除いて最小限にしても、正常なマウスでは記憶の想起が起こり、目印があった場合と同様にプラットフォームの位置を探り当てる。ところがノックアウトマウスで同様な実験を行った結果、空間記憶によってプラットフォームの位置は認識するが、目印の数が減るとプラットフォームの場所を探索できなくなった。さらに電気生理学的に調べたところ、場所を認識するニューロンの活性化に欠陥が生じていることも分かった。


これらの研究の重要性は、これまで未解決であった記憶想起の脳内メカニズムに新たな知見をもたらしたことである。今後、研究がさらに進み、老化の影響を最も受けやすいと考えられている記憶を再現する仕組みや、痴呆(ちほう)症などで記憶力が減退する仕組みが解明されることによって、老化や病気による記憶力の低下を防ぐ治療薬の開発などへつながることも期待される。本研究成果は米国の科学雑誌『Science』(7月12日号)に掲載された。



※:Cre-loxP
Creという組み換え酵素が、loxPという短いDNA配列を認識すると、そこだけDNAの組み換えが起こるという方法。



監修:理研-MIT脳科学研究センター
条件的遺伝子操作研究チーム
チームリーダー 利根川 進

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研究最前線

遺伝子の転写を開始するメカニズムを
世界で初めて解明

原子レベル(2.6Å)でのX線結晶構造解析によって明らかに
(2002年6月10日、文部科学省においてプレスリリース)

当研究所は、遺伝子の転写開始にかかわるタンパク質の立体構造を原子レベルで決定し、そのメカニズムを解明することに世界で初めて成功した。理研播磨研究所細胞情報伝達研究室の横山茂之主任研究員、Dmitry G. Vassylyev副主任研究員、関根俊一研究員らによる成果。研究グループでは、σ(シグマ)因子が結合したRNAポリメラーゼの結晶構造を、大型放射光施設SPring-8の理研構造生物学ビームラインなどを用いて2.6Å(1Å=1×10-10 メートル)の分解能で決定することに成功した。解析の結果、RNAポリメラーゼ全体が“カニのはさみ”のような構造をとっており、σ因子がDNAのある特異的な部位(プロモーター)を認識し結合するのに都合の良い仕組みになっていることが明らかになった。また、DNA結合部位の溝が、一本鎖DNAのみ結合できるような構造になっていることなども分かった。転写が開始するメカニズムが解明されたことは、遺伝子発現制御の分子機構を解明する上で重要な知見を与えるだけでなく、効果の高い新薬の開発も可能になるものと期待される。


RNAポリメラーゼ結晶構造の模式図 DNAに塩基配列として刻まれた遺伝情報は、タンパク質のアミノ酸配列に変換されることによって初めておのおのの機能を発揮することができる。このタンパク質を合成するために、細胞はDNAを鋳型(いがた)にして同じ塩基配列を持ったRNAを合成し、RNAの情報をもとにタンパク質を作る。この転写をつかさどる酵素が「RNAポリメラーゼ」である。原核生物の場合、RNAポリメラーゼの中心となる酵素に転写開始因子(σ因子)が結合し、ホロ酵素になることによって転写が開始される。その構造と機能は、バクテリアなどの原核生物から、ヒトを含めた高等真核生物に至るまで普遍的に保存されている。今回、研究グループでは、RNAポリメラーゼの機能的構造を原子分解能レベルで解明するために、原核生物である高度好熱菌のRNAポリメラーゼホロ酵素の立体構造解析に取り組んだ。


精密に決定されたσ因子を含むRNAポリメラーゼの立体構造は、全体として“カニのはさみ”のような構造をとっていることが分かった。さらに、得られた立体構造の解析結果から、ホロ酵素がDNAのプロモーター配列に結合して転写を開始する以下のような一連のメカニズムが明らかになった。
1:
遺伝子のプロモーター配列を認識・結合するσ因子の2つのドメイン(「N末端側ドメイン」と「C末端側ドメイン」)は、プロモーター配列2カ所を認識して結合するのに都合が良いように酵素の表面に配置されている。
2:
今回、解析を進めたRNAポリメラーゼホロ酵素は、σ因子を結合しているため、DNA結合部位の溝が二重鎖DNAを結合するには狭く、解離した一本鎖DNAのみを結合できる構造になっている。
3:
σ因子のN末端側ドメインとC末端側ドメインを結ぶ「リンカードメイン」は、合成されたRNAと鋳型DNAの二重鎖を不安定化させ、RNAの鎖を排出溝に向かわせる役割を果たしていると推測される。
4:
成されていくRNA鎖の末端が排出溝の出口に到達すると、σ因子はRNA鎖に押されて、RNAポリメラーゼからもプロモーターからも解離を余儀なくされるため、転写は次の“伸長ステップ”へと移行するものと考えられる。


転写のプロセスは、遺伝子が発現して機能するための最初のステップとなるものである。従って、転写因子(σ因子)を結合したRNAポリメラーゼ、つまり転写に不可欠な最小単位の構造を原子レベルで解明したことは、今までヴェールに包まれていた転写開始のメカニズムを本当の意味で理解する道を開いたものといえる。研究グループでは、さらに、転写終結因子など種類の異なる転写因子や、DNA、RNAを結合したRNAポリメラーゼの立体構造解析を行い、転写のメカニズムの全容を明らかにしていく予定。また、今回の知見を生かして、真核生物と原核生物のRNAポリメラーゼ構造の微妙な差異に着目し、病原性細菌を含む原核生物のポリメラーゼにだけ特異的に結合する化合物を作ることで抗生物質として利用できる可能性もあり、新たな医療への応用も期待できる。本研究成果の詳細は、英国の科学雑誌『nature』(6月13日号)に掲載された。


※:プロモーター
遺伝子の上流に存在する特別なDNA塩基配列。
転写開始因子が結合するとRNA合成の開始を指令する。原核生物では、合成開始点(+1)から、35残基(−35)と10残基(−10)上流にあるプロモーター領域2カ所に、RNAポリメラーゼのσ因子の2つのドメインが認識・結合する。



監修:播磨研究所 細胞情報伝達研究室
主任研究員 横山茂之

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記念史料室から

日本の物理学の黎明期に輝いた巨星 
長岡半太郎と理化学研究所

日本の物理学が夜明けを迎えた明治時代、世界に伍(ご)する研究者が理化学研究所にいた。長岡半太郎。土星型原子模型を提唱し、本多光太郎(主任研究員)や仁科芳雄(同)ら後進を育成するなど、わが国の物理学界の礎(いしずえ)を築いた人物だ。ノーベル物理学賞の推薦者の一人としても活躍した長岡は、早くから湯川秀樹(同)の業績を高く評価し、湯川を日本人初のノーベル賞受賞へと導く。理研創設時に物理部長を務めた長岡の足跡を、記念史料室に残されている史料などからひもときたい(敬称略)。


写真1:理研の研究員に湯川秀樹と朝永振一郎を推薦する推薦状(賛成人の一人として長岡のサインがある) 1903年(明治36年)、東京数学物理学会の席上で、長岡半太郎は新しい原子モデル「土星型原子模型」を発表した。“原子は中心にある球の外側を多数の電子が等間隔の同心円状に回転している”とする新モデルに関する論文は、翌年5月には英国の著名な学術雑誌『The Philosophical Magazine』に掲載され、一躍、世界から注目されることになる。長岡が日本の物理学の黎明期にこのような偉業を達成できたのは、世界的な物理学の動きに敏感だったからにほかならない。長岡は、当時の著名な邦文誌『東洋学藝雑誌』に毎号、最新の物理学上の成果を紹介していることからも、情報収集にかなりの力を割いていたことがうかがえる。


長岡は1865年(慶応元年)、長崎県大村市に生まれた。1887年(明治20年)には東京帝国大学理科大学(現・東京大学理学部)の物理学科を卒業。大学院に進学した長岡は、研究テーマを「磁歪(じわい)(磁気ひずみ)」に置いた。磁歪とは、鉄やニッケルなどに強磁場を与えると、わずかに変形する現象である。この研究により1893年(明治26年)に学位を取得。その後、同年から約3年半、ドイツへと留学することとなる。長岡の留学時代、物理学の世界ではX線の発見(1895年)などによって、新たな地平が切り拓かれようとしていた。帰国後、東京帝大の教授に就任した長岡も、原子の構造に対して興味を持ち、先に述べたような原子モデルの提唱に至った。


原子モデルの研究が一段落すると、長岡は軸足を分光学などの実験物理学に移していった。さらに(財)理化学研究所の設立準備に参画し、1917年(大正6年)の理研発足後には物理部長に就任する。しかしながら、化学部と物理部の路線対立が表面化。その危機を打開したのが第3代所長・大河内正敏であり、長岡は、大河内の所長就任を強力に後押ししている。主任研究員制度の導入による大河内改革によって、物理関係の主任研究員には長岡をはじめ西川正治、高嶺俊夫、本多光太郎ら長岡の弟子が名前を連ね、理研での物理学研究が活気づく。また、東京帝大を卒業し、理研に入所した仁科芳雄の才能に早くから気付き、欧州留学へと導いた。


長岡の見識の広さを示す証拠の一つがノーベル賞の推薦である。岡本拓司(東京大学)の調べによれば、長岡は戦前において7回の推薦を行い、そのすべての推薦者がノーベル物理学賞を受賞した。岡本は「頻繁に国際学会へ出席し、国際的な栄誉を数多く受けていたことが、長期にわたって推薦者の地位を得られた理由ではないか」と推測している。長岡は、決して日本人に肩入れするような推薦を行わなかったが、1940年(昭和15年)、初めて世界に紹介できる業績として湯川秀樹の中間子論を挙げた。長岡は推薦状の中で「今回、初めて同国人を推薦できる。しかもそれは十分に自信を持ってである」と述べている。


写真2:長岡半太郎(1865−1950) 長岡の理研でのエピソードの一つが、“水銀錬金術”に関する記者発表である。水銀錬金術とは、金よりも原子番号が一つ大きい水銀の原子を破壊すれば、金ができるというものである。「この理論に基づいて実験を行い、金ができた」と長岡は、大々的に記者発表を行ってしまったのだ。記者発表の仕掛け人は大河内であり、理研ビタミンに次ぐ成果として注目していたからだ。1924年(大正13年)8月20日に開かれた会見には多くの新聞記者が集まり、翌日の紙面には“驚異すべき学界の成功”との見出しが踊った。しかしながら、原子核内の陽子や中性子の結合力は非常に強く、長岡の方法では金はできるはずもなかった。


長岡は昭和25年(1950年)12月、自宅の書斎で読書中に他界した。勲章嫌いの長岡が唯一喜んだのが、弟子の本多光太郎とともに受けた第1回文化勲章(1937年)だった。「一に研究者、二に研究者、三に研究者、四に設備」と語っているように、研究者を大事にする長岡の信念を受け継いでいくことが、理研のますますの発展につながっていくのではないだろうか。



執筆・文責:嶋田庸嗣(広報室)



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TOPICS



「理化学研究所特別展」が開催される



写真15月24日から6月2日まで、科学技術情報を無料で提供しているサイエンス・サテライト(大阪・天満)で「理化学研究所特別展」が開催されました。今回は「光と遊ぼう!」をテーマに光ファイバーやいろいろなレンズを組み合わせた楽しい展示を行いました。期間中の来場者は8,856名で、たくさんの親子連れでにぎわいました。






「国際新技術フェア2002」出展のお知らせ



当研究所は研究成果を広く一般の方に知っていただくため、「国際新技術フェア2002」(主催:日刊工業新聞社)に出展します。皆さまのご来場をお待ちしております。
場所:東京ビッグサイト(東4ホール)
   ゆりかもめ(東京臨海新交通システム)「国際展示場正門駅」より徒歩5分
日時:9月25日(水)〜27日(金)午前10時〜午後5時(最終日は午後4時30分)
入場:無料(登録制)






播磨研究所 ハイスループットファクトリー、
新チームリーダー紹介


新しく就任した基盤研究部長、主任研究員等を紹介します。
1. 生年月日  2. 出生地  3. 最終学歴  4. 主な職歴  5. 研究テーマ  6. 信条  7. 趣味

国島 直樹(くにしま なおき)
情報解析チーム、構造解析第1チーム
国島 直樹(くにしま なおき)
1. 1967年1月1日 2. 岐阜県 3. 大阪大学大学院理学研究科博士課程 4. 生物分子工学研究所 5. タンパク質結晶構造解析 6. まじめにやること 7. 音楽鑑賞
濱田 賢作(はまだ けんさく)
結晶化チーム
濱田 賢作(はまだ けんさく)
1. 1951年9月29日 2. 鳥取県 3. 大阪大学大学院薬学研究科後期課程 4. 島根大学総合理工学部 5. タンパク質結晶学、構造生物情報科学 6. 感動と好奇心 7. ドライブ
Tahir H.Tahirov(タヒール タヒーロフ)
構造解析第2チーム
Tahir H.Tahirov(タヒール タヒーロフ)
1. 1961年6月5日 2. アゼルバイジャン共和国 3. 化学物理学研究所(ロシア科学アカデミー)Ph.D. 4. ハイスループットファクトリー(理研) 5. タンパク質結晶学 7. 音楽、自然





「理研ニュース」が全国広報コンクールで入選



(社)日本広報協会が主催する「全国広報コンクール」において、理研ニュースが「その他の団体部門」で1席に入選しました。同コンクールは、1964年より行われ、優れた自治体などに対して表彰を行っており、2001年からは地方自治体以外の団体にも門戸が開かれています。






理研ビデオが各コンクールで入選



当研究所の研究活動を紹介する理研ビデオ「科学する理研」(企画:理化学研究所、制作:岩波映像)が「第40回日本映画産業・ビデオコンクール」(主催:(社)日本産業映画協議会)で奨励賞を受賞しました。また、米国のビデオコンクール「International Film And Video Festival」 において、理研ビデオ「元素誕生の謎にせまる(英語版)」(企画:理化学研究所、制作:イメージサイエンス、監修:望月優子、谷畑勇夫、矢野安重、Richard Boyd)が、Creative Excellence 部門において第3位となりました。






理研ビデオ「元素誕生の謎にせまる」の配布について



理研ビデオ「元素誕生の謎にせまる」の日本語・増補版〔解説冊子付〕、英語版〔NTSC方式〕の有償配布(各2,600円、税・送料別)を行っています。申し込みは(株)イメージサイエンスのホームページ(http://www.image-science.co.jp/element)まで。また、同社ホームページでは、英語版の海外向け実費配布(NTSC方式3,000円/PAL方式4,000円/SECAM方式4,000円)も行っています。なお、高校の授業や大学での講義、図書館や科学館などでの生涯教育施設において教育目的に活用される場合に限り、日本語版のみ、当研究所より教育関係者に無償で配布します(本数限定)。申し込みの詳細は当研究所ホームページ(http://www.riken.go.jp)をご覧ください。





原酒
酒をたしなむ、研究を楽しむ


フロンティア研究システム 時空間機能材料研究グループ
グループディレクター●国武豊喜この原稿依頼を受けたときに、聞きそびれてしまった。理研ニュースの発刊当時から続いているというこのコーナーの名前の由来である。原酒というからには、日本酒かウィスキーであろう。混じりけのない芳醇な香りのする内容であることが求められているに違いない。良い酒を飲むときには、中途半端なつまみはいらない。ただ、姿勢を正し、意識を集中させて口に含み味わう態度が大事である。これまでに寄せられた記事を読むと、確かに「原酒」にふさわしいものが多い。理研で催されているかの有名な日本酒研究会は、かねがね聞き及んでいる。各地の銘酒を持ち寄り、かつ味わいかつ批評しつつ陶然となっていく仕組みには敬服している。
 残念ながら、私は雑酒派である。金がなかったせいか、学生とのコンパに精を出しすぎたせいか、出てくる安酒をすべて拒まない習慣が若いときから付いていた。最近体力が低下して、ようやく多少の選択性が身に付いてきたところである。ところで、安酒にはつまみが要る。何か食べておかないと悪酔いをする。研究においても雑酒派のきらいがあるので、そのことは意識している。目の前の面白そうなテーマにはつい手を出してしまうが、悪酔いや二日酔いと同じで、後で後悔しないように、情報を腹にため自分の能力を判断して試飲が効きすぎないような工夫もしてきた。もともと高分子の合成化学を研究テーマとして出発したが、合成高分子もタンパク分子も長い鎖の形状をしているとの理由で、酵素モデルの研究を始めたのは、1960年代半ばであった。しかし、ポリマー鎖の折り畳みの制御が難しく、1970年代半ばには、有機小分子の自己組織化がその解決法であると考えを改めて、ミセルや二分子膜など分子集合体の研究へと転じた。幸い二分子膜の研究は、合成系での自己組織化の研究が進んでいなかったこともあり、有機化学、無機化学、高分子化学、物理化学など化学のいくつかの領域だけでなく、生物化学との接点も見いだされるテーマとなった。
 1990年代に入って、生物組織とのかかわりが強かった二分子膜を、人工的な精密材料へと展開することを目標に、界面分子膜や超薄膜のテーマをスタートした。表面の精密分析がようやく可能になった時代で、ナノ厚みの分子層の中で、有機分子がどのように配向し、相互作用しているかが分かるようになったのは実に新鮮であった。この経験を生かした有機化学的なアプローチを使って、セラミックス材料の精密化を極限まで進めるのが今の目標である。
 最後に、雑酒・雑飲型研究の味を引き立てるつまみをひとつ。1980年代にExeter地方の豪華な屋敷で、イギリス版Gordon会議が開かれたことがあった。もともとGordon会議はアメリカのニューハンプシャーで始まった小規模の研究集会で、出席者がその場での自由な意見を述べ、記録も取らないのが本来のやり方である。くつろいだ雰囲気を重視するあまりに、座長がはさみを持って、スーツでかしこまった講演者を追い回し、そのネクタイを切り取ろうとしたというエピソードが残っている。しかし、この会議は違った。会場となった貴族の館はゴルフ場と見まがう広大な芝生に取り囲まれ、参加者一同、会議中にネクタイを付けるどころか会の終わりには記念のネクタイをくれる。朝にはベッドに入っているのに構わず扉を勝手に開けて、かわいいメイドがモーニングティーを運んでくる。素っ裸でひげをそっているところであっても、平気でティーを運んでくる。これはアメリカからの参加者には信じられないことのようであった。同じアングロサクソンが同じ趣旨の研究集会を開いても、そのパターンがかくも違うのは印象的であった。ただし、イブニングセッションが終わってから深夜まで続いた近所のバーでのノリは、こちらが上であった。
 ところで、集会のテーマはポリマーの有機化学であり、ポリマー分子の合成や新しい機能を持つポリマーに関心を持つ研究者が各国から集まっていた。主宰者であった教授から、日本の化学者で「クニタケ」という名前をもう一人知っているが、と話しかけられた。よくよく聞いてみると自分のことである。研究テーマが違っていたので別の人間と思っていたらしい。テーマを変える楽しみのひとつはここにある。いろんな違った顔で、外国の学会を渡り歩くことができるのである。

フロンティア研究システム 時空間機能材料研究グループ
グループディレクター●国武豊喜


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理研ニュース

8 No.254: August 2002
発行日
平成14年8月15日
編集発行
理化学研究所 広報室
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埼玉県和光市広沢2番1号
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