要旨
理化学研究所(理研、野依良治理事長)は、生物がもともと備えているDNA修復機構[1]で働くタンパク質を応用して、遺伝子診断やゲノム解析などに欠かせないポリメラーゼ連鎖反応(PCR)[2]の精度を向上させることに成功しました。これは、理研放射光科学総合研究センター(石川哲也センター長)放射光システム生物学研究グループの福井健二客員研究員(現 大阪大学産学連携本部)、別所義隆チームリーダー、倉光成紀グループディレクターらによる「高度好熱菌丸ごと一匹プロジェクト[3]」で得た研究成果です。
生物の設計図といわれるDNAは、生物分野の基礎研究だけでなく、DNA 配列に基づいた臨床診断、残留 DNA に注目した犯罪捜査など、現代社会の至るところで利用されています。このとき、目的のDNA配列 をある一定の量まで増幅させる「ポリメラーゼ連鎖反応(PCR)」が欠かせません。PCR とは、極めて少量の鋳型 DNA を出発点として、長い DNA 配列の中から目的の領域だけを約10 億倍にも増幅させ、検出や解析を容易にする反応です。この反応では、加熱(約95℃)と冷却(約50℃)を繰り返すたびにDNAを増幅させていきますが、「目的外のDNAも増えてしまうエラー」と「目的のDNAが増えたものの、間違った配列に置き換わってしまうエラー」という2つのエラーが生じます。
これまでに研究グループは、高度好熱菌丸ごと一匹プロジェクトの一環で、90℃を超える環境でも機能するさまざまなタンパク質の構造機能を解析し、中でも、DNAを修復するタンパク質は、DNAの傷害を極めて特異的に認識して結合することを明らかにしてきました。そこで、PCR の2つのエラーが生じる過程で「ミスマッチ塩基対[4]」と呼ばれる DNA 傷害の一種が形成される点に着目し、このミスマッチ塩基対に強く結合する DNA 修復タンパク質「MutS」を利用しようと考えました。実際に細菌のDNA から、特定の遺伝子領域のDNAをPCRで増幅するときにMutSを加えると、添加量に応じて目的外のDNA増幅が抑制され、間違った配列への置換数も約3分の1に減少しました。
この技術により、今後、幅広い分野の PCR 関連技術の効率と精度が改善されると期待できます。
本研究成果は、スイスの科学雑誌『International Journal of Molecular Sciences』(3月22日号)に掲載されました。
背景
ヒトを含むさまざまな生物の全ゲノム配列が解読されている現在、DNAは基礎研究から臨床診断に至るまで幅広い分野で利用されています。このとき欠かせない技術が、特定の DNA 配列を選択的に増幅できる「ポリメラーゼ連鎖反応(PCR)」です(図1)。PCR では、目的のDNA配列を含んだ反応液を加熱したり冷却したりすることで、鋳型を元に複製したDNAを次の反応の鋳型として利用できます。その結果、ごく少量しかないが、入手したいDNA配列だけを約10 億倍まで増幅でき、各種検出・解析を容易にします。しかし、PCR では2種類のエラーが起こり得ます。それは、「目的外の DNA も増えてしまうエラー」と「目的の DNA が増えたものの、間違った配列に置き換わってしまうエラー」です。
DNAは4つの塩基(アデニン:A、チミン:T、グアニン:G、シトシン:C)で構成されており、AはTと、GはCと相補的に結合して二重らせんを構成します。それら以外の塩基の組合わせ、例えばAとG、AとCなどは「ミスマッチ塩基対」と呼ばれます。
PCR が目的の配列だけを増幅できるのは、「プライマー」と呼ばれる短いDNA断片が目的の配列に貼り付き、増幅する範囲を指定するからですが、プライマーが目的外の配列に貼り付くとミスマッチ塩基対が形成されます。その結果、望まない領域の増幅(非特異的増幅)が始まり、目的外のDNAが増えるエラーが起こります。また、DNA の増幅反応そのものを担うのは「DNA ポリメラーゼ」と呼ばれるタンパク質ですが、DNA ポリメラーゼは一定の割合(例えば、細胞内のDNA複製を担うDNAポリメラーゼの場合は100万回に1回の割合)で間違った塩基を取り込み、ミスマッチ塩基対が作られます。その結果、鋳型とは異なる間違った配列に置換されるエラーが生じます。このように、PCR のある段階でミスマッチ塩基対が生じると、これら2つのエラーが引き起こされます。
研究グループはこれまでに、高度好熱菌丸ごと一匹プロジェクトの研究過程で、高度好熱菌が持つ DNA 修復タンパク質が、DNAの傷害に対して極めて特異的に結合することを明らかにしてきました。このDNA 傷害に対する高い特異性は、分子を真空中の特定の位置に固定するためのアダプターとしての応用が期待されるものであり、タンパク質 1 分子の立体構造の観察を可能とするX 線自由電子レーザー(XFEL)での測定に向けた基礎技術として研究が進められていたものです。そこで、この高い特異性を利用して、PCRの2つのエラー抑制に挑みました。
研究手法と成果
PCRには90℃ を超える高温の工程がありますが、常温環境で生育する生物由来のタンパク質はそのような高温では壊れてしまいます。一方、高度好熱菌 Thermus thermophilus[5]や超好熱菌 Aquifex aeolicus[6]のような高温の環境で生育する生物由来のタンパク質は、90℃ を超える温度下でも機能すると予想しました。細胞内には、ミスマッチ塩基対が生じると、それを認識し、修復する系が存在します。すでに高度好熱菌丸ごと一匹プロジェクトの研究で、高度好熱菌が持つ DNA 修復タンパク質が 、DNA 傷害に対して極めて特異的に結合することが分かっていました。そこで、最初にミスマッチ塩基対を認識して強く結合するタンパク質「MutS」に着目しました(図2)。
まず、好熱菌由来で耐熱性を有するMutS を調製し、バクテリアゲノムDNAを含んだPCR 反応液に加えました。MutSは、ミスマッチ塩基対が生じると、すぐにその部分を認識し強く結合します。その結果、DNA ポリメラーゼは接近できず、エラーを含む配列はそれ以上増幅しなくなりました(図3)。実際に2つのエラーについてそれぞれ解析すると、目的外の DNA 配列の増幅はMutSの添加量に依存して抑制されており(図4)、間違ったDNA配列へ置換した数は約3分の1まで低下しました(図5)。
今後の期待
今回の成果は、PCR の根源的な改善をもたらすもので、幅広い分野の PCR 関連技術の効率と精度の上昇に寄与すると期待できます。
また、PCRのエラーを抑制するには、ミスマッチ塩基対を認識するタンパク質で DNA ポリメラーゼの接近を阻害すればよいことが分かりました。ミスマッチ塩基対と呼ばれるDNA構造の中には、MutS が認識できないような特殊な構造も多々ありますが、それら特殊な DNA 構造を認識できる DNA 修復タンパク質も数多く存在します。こうしたDNA 修復タンパク質を同定し、添加できるようになると、よりPCR の精度向上に貢献すると期待できます。