要旨
理化学研究所(野依良治理事長)は、生きた細胞の成分をリアルタイムかつ網羅的に検出できる「一細胞質量分析」を用いて、たった1個のヒトの肝臓初代培養細胞※1の薬物分子変化(薬物代謝)を10分以内で分析することに成功しました。また、同じ肝臓細胞でも代謝の様子が細胞間で異なる「ゆらぎ※2」があることも発見しました。これは、理研生命システム研究センター(柳田敏雄センター長)一細胞質量分析研究チームの升島努チームリーダー(広島大学 大学院医歯薬保健学研究院教授)と広島大学、参天製薬らとの共同研究グループの成果です。
肝臓は、薬物を異物として捉え、さまざまに分子変化させることで、体内に入った薬物を無毒化しようとする薬物代謝機能を持ちます。しかし、これが、かえって薬物を副作用の強い分子に変えることがあります。薬物代謝の様子を解析することは、薬効と副作用を確認するうえで新薬開発には欠かせません。ただ、この解析工程の最終段階ではヒトの組織を使わざるを得ないため、倫理上の問題や高コストをいかに解決するかが求められていました。
2008年に升島努チームリーダー(広島大学 大学院医歯薬保健学研究院教授)らは、1つの生きた細胞の変化を見ながら、その細胞内の分子群をリアルタイムかつ網羅的に検出する「一細胞質量分析」に初めて成功しました。従来の分析法では、多量の試料を必要とし、高いコストと手間がかかりましたが、一細胞質量分析では、細胞1個で生きた細胞の様子を見ながら解析でき、高速、高精度かつ低コストでの解析が可能です。今回、参天製薬の協力を得て、この分析手法を用いて緑内障の治療薬であるタフルプロストの薬物代謝をたった1個のヒト肝臓初代培養細胞を用いて10分以内で分析することに成功しました。また、さらに詳しく分析することで、同じ種類の細胞でもそれぞれに薬物代謝が異なる、いわゆる “ゆらぎ”があることも発見しました。このゆらぎは、生命現象を説明するうえで今後大きなカギを握る概念とされ、科学的にもまた医薬品開発においても考慮すべき生命現象の本質の1つと考えられています。さらに開発が進み、新薬候補分子がどの細胞にどう到達し、どう変化するかが詳細に分かるようになると、日本の製薬企業が希望する次世代創薬技術の確立が期待できます。本研究成果は、英国の科学雑誌『Nanomedicine』(5月号)に掲載されます。
背景
従来、細胞の働きや関係する分子を調べるときは、たくさんの細胞の集合体をすり潰し、これをさまざまな分析法で調べます。生体の応答は、1個の細胞の応答ではなく膨大な細胞の平均値なので、従来法でも間違いではないですが、生命現象の解明には問題があります。実際に1個の細胞を観察すると、同じ刺激に対しても個々の細胞の反応は多様で、それら異なる細胞の変化を正確に見ることが望まれていました。
特に、生きた細胞の変化を見ながら、その細胞内の分子変化をリアルタイムで追跡するのは、ライフサイエンスの夢でした。しかし、細胞の体積は1ピコリットル(1兆分の1リットル)と超微量で、観察している細胞1個の中で起こっている分子変化は検出不可能と思われていました。しかし、2008年に升島努チームリーダー(広島大学 大学院医歯薬保健学研究院教授)らは、1個の生きた細胞の変化を見ながら、その細胞内の分子群をリアルタイムかつ網羅的に検出する「一細胞質量分析」を開発しました。
この手法を医薬品開発や臨床試験に応用することができると、手に入り難いヒト細胞を用いても、数個の細胞で簡単に分析できるうえ、解析の高速化と低コスト化や分子情報の高精度化をもたらす新技術となることが期待できます。
研究グループは、創薬開発でもっとも重要な薬物代謝分析に一細胞質量分析が有効かどうか検証しました。まず、ヒト肝がん培養細胞HepG2を用いて、抗がん剤の一種であるタモキシフェンの薬物代謝の分析を試みました。その結果、1個の細胞から10分以内で細胞内分子を検出できました。(雑誌Analytical Science 2012年3月号に掲載されhot articleに選定)。
そこで、研究グループは、さらに生体に近い状態のヒト肝臓初代培養細胞の薬物代謝の一細胞質量分析に挑戦しました。
研究手法と成果
研究グループは、ヒト肝臓の初代培養細胞を対象に緑内障の治療薬であるタフルプロストの薬物代謝の分析を試みました。まず、顕微鏡下でターゲットの細胞の挙動を見ながら、見たい瞬間に先端口径が数μmのナノスプレーチップという金で被覆した細管で細胞内成分を吸い上げます。次に、チップの後方からイオン化有機溶媒※3を入れて、チップと質量分析計の間に1kV前後の高電圧をかけます。すると、イオン化有機溶媒が先端の細胞内成分を通り抜けながら、主に成分中の低分子を抽出し、分子群は霧と一緒に質量分析計に導かれます。ここまで5分以内で行うことができました。さらに検出された質量スペクトル中の1つ1つのピークは、特徴的な質量を持った分子を示し、このピークから細胞内成分の分子を網羅的に検出することができました。質量分析計で計測する時間は約5分で、合計10分以内で細胞内にある分子を検出できました(図1)。
以前に行ったHepG2細胞の分析結果と比べると、同じ代謝物でもより高い代謝活性が確認でき、また多種類の薬物代謝物を発見しました。薬物代謝は、代謝経路と呼ばれる複数の反応の連鎖で行われます。各反応でできる中間代謝物を経て最終代謝物に至ります。この手法では、中間代謝物も含めて網羅的に定量できるので、代謝経路が追跡できます。さらに、タフルプロストを細胞培養液に添加し、その後の時間の経過とともに細胞内分子の質量スペクトルの違いを比べることで、時間的追跡もできることが分かりました。さらに今回の研究で細胞ごとに分析データが大きくばらつくことが分かりました。この実験結果について慎重に確認したところ、統計学的な誤差の範囲を上回る変動を検出しました。つまり、細胞ごとに薬物代謝が量的に異なる、いわゆる“ゆらぎ”があることを発見しました。従来、ゆらぎとは、分子スケールの時空間的変動を示したものですが、これが細胞の状態や機能で比較しても、変動が存在することを本研究で示すことができました。これは、生命現象の本質の1つであると示唆され、生命分子関連の学界において、これから活発な議論を呼ぶと考えられます。
今後の期待
1個の細胞で薬物代謝を追跡できるということは、高価で倫理的にも入手し難いヒト細胞を利用しやすくし、候補物質探索や代謝予測を高速、高精度かつ低コストで行うことを可能にします。それは、今後の創薬や臨床解析のスピードアップに貢献すると考えられます。
また、病理検査で行われる患者のわずかな病巣組織を細胞単位にして病態の進行度を分子診断することも可能になります。同時に数個単位の細胞から多様な薬物の代謝の様子を調べて、副作用の少ない最も適した薬物治療を提案するなど、さまざまな局面においてオーダーメイド医療と個別分子診断への新しい道を開くものと期待できます。今後、複数の製薬企業との連携を進め、この手法を用いた次世代創薬技術の確立を目指します。
発表者
独立行政法人理化学研究所
生命システム研究センター 細胞動態計測コア 一細胞質量分析研究チーム
チームリーダー
広島大学 大学院医歯薬保健学研究院 教授
升島 努(ますじま つとむ)
お問い合わせ先
生命システム研究センター
広報担当 川野 武弘(かわの たけひろ)
Tel: 070-6800-3938 / Fax: 06-6155-0112
報道担当
独立行政法人理化学研究所 広報室 報道担当
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