要旨
独立行政法人理化学研究所(野依良治理事長)は、欧州原子核研究所(CERN)の反陽子減速器を使って極低温の反水素原子※1を生成し、磁気瓶に1,000秒以上閉じ込めることに成功しました。これは理研基幹研究所(玉尾皓平所長)山崎原子物理研究室のダニエル デ ミランダ シルベイラ(Daniel de Miranda Silveira)客員研究員、山崎泰規上席研究員らを含むALPHAグループの研究成果です。また、客員研究員でもあるカナダのTRIUMF研究所の藤原真琴研究員は本研究の企画段階からデータ解析まで一貫して重要な役割を果たしました。今回の成果には、東京大学の早野龍五教授も含む世界8カ国からの研究者※2が参加しています。
研究グループは、反物質の代表格である反水素原子の性質を精密に観測し、対応する水素原子と比較することで(CPT対称性※3テスト)、物質と反物質の間にどのような違いがあるか(ないか)、ひいては、なぜ私たちの宇宙が物質ばかりからできているのか、という謎解きの手がかりを得ようとしています。この目的を達成するためには、極低温の反水素原子を真空中の小さな領域に閉じこめること、あるいは、エネルギーのそろった冷たい反水素ビームを作り出すこと、が必要不可欠です。研究グループは、八重極磁場という特殊な磁場分布を持つ磁気瓶を開発し、2010年11月に反陽子※4と陽電子※5を“そっと”混ぜ合わせることで、極低温の反水素原子を0.1秒以上閉じ込めることに成功しています(2010年11月18日プレスリリース)。
今回は、反陽子の温度を上げることなく集団運動を起こさせる技術(自動共鳴法)等にさらに磨きをかけ、その際用いる共鳴用高周波の振幅や周波数制御など、さまざまなパラメーターをより最適化し、反陽子と陽電子をより“そっと”混ぜ合わせることに挑戦しました。その結果、反水素原子の捕捉率が改善しただけでなく、1,000秒以上もの間、反水素原子を閉じ込めることに成功しました。反水素原子のレーザー分光実験には、基底状態の反水素原子を、できるだけ長時間閉じ込めることが必要です。今回の成果により、基底状態の反水素原子をじっくりと精密に観測できるようになりました。高精度レーザー分光実験に向け、さらに大きく前進しました。
本研究の成果は、「日本学術振興会 科学研究費補助金 特別推進研究 反水素原子と反水素イオンによる反物質科学の展開」の一環として行われたもので、科学雑誌『Nature Physics』オンライン版(6月5日付け:日本時間6月6日)に掲載されます。
背景
反水素原子は、陽子の反粒子である反陽子と電子の反粒子である陽電子が結合したもので、反物質世界の代表格です。この反水素原子と水素原子の性質を詳しく調べることで(CPT対称性テスト)、反物質の世界が私たちの住んでいる宇宙とどのように違うか、あるいは同じかを、これまでにない精度で明らかにすることができます。CPT対称性は、それ自身で非常に興味深い基礎物理学の重要な研究対象ですが、同時に、私たちの住むこの宇宙がなぜ物質だけでできているのかについての情報も提供すると期待されます。
反水素原子の性質を詳細に知るためには、反水素原子を生成して磁気瓶に閉じ込める、あるいは、冷たい反水素ビームを作る、などを実現し、その様子をじっくりと時間をかけて調べる必要があります。しかし、反水素原子の重要な構成要素である反陽子は、数百億電子ボルトに加速した陽子ビームをイリジウムの金属ブロックにぶつけて生成するため、数十億電子ボルトのエネルギーを持ち、容易に取り扱うことができません。
実際の実験では、この大変に熱い反陽子をさまざまな方法でなだめすかし、冷やしに冷やして、絶対温度(-273℃)付近の極低温にした後、やはり極低温の陽電子と混ぜ合わせることにより反水素原子を生成しています。これは「言うは易く行うは難し」の典型例のようなもので、実際にはさまざまな技術的課題を克服する必要があり、2002年にやっとその生成が実現したばかりでした。
しかし、2002年の実験では磁場が一様であったため、生成した反水素原子を蓄積することはできず、研究グループは2010年11月に、0.1秒程度の時間、反水素原子を補足することに成功しましたが、十分な数の反水素原子が励起状態から基底状態に遷移する時間を確保し、精密な高精度レーザー分光実験をじっくりと行うには、さらに長時間反水素原子を閉じ込める必要がありました。
研究手法と成果
今回用いた反水素原子捕捉用の磁気瓶は、2010年11月の発表で用いたものと同じで、八重極コイルとミラーコイルを組み合わせ、さらにその内部に多重の円筒電極をおいて、必要な電場と磁場をかけることができるようにしたものです(図1、a)。この電場と磁場を調整することで、反陽子と陽電子を捕捉し、そっと混ぜ合わせることができます。混ぜ合わせた反陽子と陽電子は互いのクーロン力により引き合い、やがて、さまざまな衝突過程を経て反水素原子が生成されます。反水素原子は電気的に中性の小さな磁石なので、電場には反応しませんが、八重極磁場コイルとミラーコイルにより形成されている磁気瓶には閉じこめることができます。
反陽子と陽電子を混ぜ合わせ、反水素原子が生成したころ(1秒後)を見計らって円筒電極にかける電圧を操作し、余った反陽子と陽電子を磁気瓶の外へ捨てます。その後、一定の時間待って磁気瓶の磁場をゼロにすると、生成した反水素原子は束縛を逃れ、いずれ円筒電極にぶつかって消滅し、パイ中間子などさまざまな高エネルギー粒子を放出します。この消滅に伴う放出粒子を観測することで、反水素原子の閉じ込めの有無を確認できます。
今回の実験では、共鳴用高周波の振幅や周波数制御を含め、さまざまなパラメーターをより細かく最適化することで、反陽子の運動エネルギーを陽電子の運動エネルギーに極力近づけるようにして、より“そっと”混ぜ合わせることに成功しました(図1、b)。実際に、磁気瓶の周りを取り囲む三重の検出器を用いて、磁気瓶の磁場をゼロにしてからの時刻と、磁場軸方向の消滅位置を測定した結果、反水素原子の捕捉率が改善しただけでなく、1,000秒以上もの長時間、反水素原子を閉じ込めることができたことを確認しました(図2)。また、閉じ込め時間が異なる反水素原子の消滅位置分布と、磁気トラップに捕まっていると仮定したシミュレーションの消滅位置分布がよく一致していることも確認しました(図3)。
今後の展望
今回、反水素原子を閉じ込める時間を、0.1秒から1,000秒以上と1万倍以上も更新することができたため、励起した反水素原子が基底状態に遷移する十分な時間を確保しただけでなく、高精度レーザー分光実験をじっくりと行うことができるようになりました。水素原子についてはすでに、基底状態(1S状態)から初めの励起状態(2S状態)への遷移エネルギーが100兆分の1という大変高い精度で決定されています。高精度レーザー分光により反水素原子の精密な分光が可能になると、物質(水素原子)と反物質(反水素原子)の違いを格段に高い精度で測定できるようになり、CPT対称性のテストが現実のものになるとともに、なぜ私たちの宇宙が物質ばかりからできているのか、という謎解きの手がかりも得られるようになるかもしれません。その道は容易ではありませんが、これからいよいよ基礎物理学の根幹に関わる実験が始まります。