要旨
独立行政法人理化学研究所(野依良治理事長)は、眼組織のもと(原基※1)である胎児型の網膜組織「眼杯※2」を、マウスES細胞※3から試験管内で立体形成させることに世界で初めて成功するとともに、生後型の網膜組織全層の立体再構築を実現しました。これは、発生・再生科学総合研究センター(竹市雅俊センター長)器官発生研究グループの笹井芳樹グループディレクターと立体組織形成・解析ユニットの永楽元次副ユニットリーダーを中心とした研究グループの成果で、理研VCADプログラム、国立大学法人京都大学再生医科学研究所、国立大学法人大阪大学タンパク質研究所の研究者らの協力のもとに進められました。
哺乳類の眼、特に網膜はいったん障害を受けると、自然に再生しません。このため、網膜色素変性症※4などの網膜変性症※4には治療法がなく、失明に至ることから、幹細胞を利用した再生医療が期待されています。網膜の基本構造※5は、主要な光感知部である神経網膜とそれを助ける色素上皮で構成されます。色素上皮は薄い1層の細胞シートで、ES細胞・iPS細胞からの産生が容易なため、加齢黄斑変性※4などへの細胞移植の臨床研究が進みつつあります。一方、視細胞などを含む神経網膜は多種類の細胞を含む多層構造を持ち、ES細胞などからこうした複雑な組織を形成することは不可能でした。
研究グループは、独自に開発してきた細胞集団からの「3次元の自己組織化※6技術」を応用し、胚の発生を再現する方法でマウスES細胞から試験管内で立体的な網膜組織を形成することに成功しました。3,000個程度のES細胞から細胞凝集塊を作り、特殊な培養液の中で浮遊立体培養を続けると、培養開始9~10日後に初期胚の眼組織である眼杯と酷似した杯状の網膜組織が、3次元的に形成しました。また、研究グループは、ES細胞からのこの複雑な眼杯の形の「自己組織化プログラム」についても、細胞計測とコンピュータシミュレーションを駆使して解明し、3つの単純な力学機序の組み合わせによることも明らかにしました。
この眼杯様の網膜組織をさらに2週間程度、3次元培養を続けることで、生後マウスの網膜に近い神経網膜組織の立体形成にも成功しました。この組織は、神経網膜の主要細胞をすべて含むだけでなく、3次元的に秩序だった多層構造※7を有し、神経細胞間のシナプスを形成していることも確認しました。
この研究成果は、多能性幹細胞※3から生体の眼組織に酷似した人工網膜組織を産生することができるという画期的なものです。「次世代再生医療」の研究では、主に、ES細胞・iPS細胞から分化させた1、2種類の細胞を用いて、それらを単に細胞(あるいは細胞塊)として移植することを目指してきました。今回の成果は、そのさらに先に進むもので、「生体に近い複雑な組織」の産生と移植による高度な機能再生を目指す「次々世代の再生医療※8」を切り拓くものと考えられます。
本研究成果は、文部科学省の「再生医療の実現化プロジェクト」の一環として行い、英国の科学誌『Nature』4月7日号に掲載されます。
背景
ES細胞やiPS細胞などの多能性幹細胞は、すべての種類の体細胞に分化する能力(多能性)を有しており、試験管内で医学的に有用な細胞を産生する提供源として注目を集めています。例えば、ある細胞種が生体内で変性するために起こる病気に対し、ヒトES細胞・iPS細胞などから分化させた細胞を移植して治療しようとする再生医療は、難病克服の切り札として期待が寄せられています。
研究グループは、これまでに、ES細胞などから神経細胞やその前駆細胞を効率良く分化させる方法として、無血清凝集浮遊培養法(SFEBq法)※9という簡便な方法を開発しています(2005年2月7日プレス発表)。この手法は、ES細胞やiPS細胞を分化誘導する際に、通常の細胞培養で添加する牛血清や増殖因子※10を除いた培養液で培養する方法で、3,000個程度の細胞を凝集させ浮遊状態で培養します。
すでに、この方法で、マウスやヒトのES細胞・iPS細胞から、中脳ドーパミン神経細胞、大脳神経細胞、網膜細胞、小脳細胞、視床下部内分泌細胞などに試験管内で分化誘導することに成功してきました。現在、この技術の応用として、パーキンソン病や加齢黄斑変性などの治療を目指した前臨床研究が、理研、先端医療センター研究部門、京都大学などの共同研究で進められています。
このように、研究グループのこれまでの成果は、多能性幹細胞由来の細胞移植を目指す「次世代の再生医療」の推進に大きく貢献してきました。しかし、単純な1、2種類の細胞の移植で治療できる疾患は限られており、難病の治療などを含むより多くの場合には、生体内と同様に複数の種類の細胞が複雑な組織構造を形成して働く必要がありました。そのため、多能性幹細胞からこうした「複雑な組織構造」の立体形成を試験管内で再現できるかが、基盤技術上の大きな課題でした。
研究グループは、この数年間、基礎的な脳発生の研究成果を基に、「複雑な組織構造」の立体形成を研究し、ES 細胞からのSFEBq法による「試験管内での3次元自己組織化技術」を開発してきました。その成果の一部として、2008年にマウスやヒトのES細胞から層構造を持った大脳皮質組織の立体培養に成功しました(2008年11月6日プレス発表)。これは画期的な成果であったものの、形成した組織は、胎児型での大脳発生の初期の構造を有するというところまでで、生後型の大脳に見られる程の複雑な組織構造の形成には至りませんでした。
眼の主要機能部である網膜組織(図1)は、初期胚の間脳組織に由来する中枢神経系組織で、複雑な組織変形を経て形成していきます(図2)。今回、研究グループは、より高度で複雑な網膜組織構造の試験管内での形成に挑戦しました。
研究手法と成果
(1)マウスES細胞から高効率な網膜前駆上皮組織を分化誘導
これまでに研究グループは、分散したマウスES細胞を小さなくぼみ(細胞が底に接着しないタイプの培養ウェル)の底へ集めて培養することで、2~3時間以内に素早く3次元に再凝集(細胞数は約3,000個程度)させる方法「SFEBq法」を開発し、数日~1週間程度浮遊培養して、中枢神経系の前駆細胞に高い効率で分化させることに成功していました。今回、研究グループは、網膜前駆組織※11への分化に適した培養液を検討するなどの改良を行いました(改良SFEBq法)。さらに、胎児型の網膜前駆組織が、上皮構造(1層の細胞のシート構造)を持つことに注目し、上皮構造を安定化させることが知られているラミニンやエンタクチンを含む細胞外マトリクスタンパク質の混合物を培養液に添加することで、5割以上の培養細胞を網膜前駆組織(Rxというマーカー遺伝子※12を発現する)に分化誘導することに成功しました(図3)。
(2)ES細胞由来の網膜前駆組織から眼杯を立体形成
この改良SFEBq法を用いて、7日間ES細胞の細胞塊を浮遊培養し続けると、細胞塊の中に形成した網膜前駆組織の上皮構造に大きな変化が起きることが分かりました。最初に網膜前駆組織(Rx陽性)が細胞塊の外へ向かって、袋状に突出しだしました。その後、さらに2日間培養する過程で、袋状の網膜前駆組織のうち細胞塊本体から遠い部分が、今度は袋の内側に向かって自然に陥入するようになりました。その結果、網膜前駆組織は、培養開始10日目までに内外の2層の上皮シートからなるカップ状の構造を形成しました(図4)。
これは、胚発生過程の網膜の原基である「眼杯」に酷似しており、形だけでなく、局所のマーカー遺伝子の発現パターンも眼杯と同様でした。胚の中と同じく、2層の上皮シートのうちカップ状の外側の壁は、色素上皮からなり、色素を蓄積することも分かりました。一方、陥入して形成した内側の壁は、神経網膜の前駆組織に特異的なマーカー遺伝子を発現していました。眼杯は、マウス胎児では胎生10~11日に完成し、直径300μm程度のサイズです。マウスES細胞から形成した眼杯もこれとほぼ同じサイズでした。
このように多能性幹細胞から複雑な器官の原基の3次元形成に成功したのは、世界で初めての成果です。
(3)ES細胞から眼杯組織の立体形成は自己組織化による
このように複雑な眼杯の形成は、ES細胞を単純に均一に凝集させた細胞塊から生じ、しかも均一な培養液の中で浮遊培養しただけで実現しました。単純な要素(この場合は細胞)の集合が、外部からの細かい指示がないにも関わらず、自然と複雑な構造を形成することを「自己組織化」といいます。今回、研究グループは、「ES細胞から複雑な眼杯の自己組織化が起きうる」という大変興味深い現象を発見したことになります。
次に、自己組織化の機序を解明するために、特別に組み上げた長期立体培養用顕微鏡による3次元多光子励起蛍光イメージング※13を数日間かけて行い、細胞凝集塊からの眼杯形成過程を詳細に検討しました。解析の結果、ES細胞由来の網膜前駆組織は、まず色素上皮と神経網膜の領域に自発的に分かれ、神経網膜の組織は外からの力などで変形するのではなく、自らの力で内側にくぼんで行くことが分かりました。すなわち、網膜前駆組織には元々「眼杯の形」を作るプログラムが内在されていて、それが発揮できる環境で培養すると、自然と眼杯を形成する自己組織化が誘発されることが判明しました。
精密な構造決定が必要な眼組織の形成に、こうした内在的な「自己組織化プログラム」が働いていることは大変興味深く、これまで全く未知のメカニズムでした。
(4)眼杯組織の「かたち」を決める力学的原理の解明
次に、眼杯形成における内在的な「自己組織化プログラム」について、詳細な解析を行いました。研究グループは、先端的な力学計測法や独自に開発した組織内圧の解析法を駆使して、網膜前駆組織の1層の細胞シートである上皮構造の中での力学特性の動態を調べました。その結果、次のたった3つの「組織構造の局所ルール」を順序だって発揮することで、この複雑な眼杯の形が決定していくことを明らかにしました(図5)。
培養7日までに形成した網膜前駆組織は、ES細胞塊の本体から丸く飛び出した上皮の袋状の構造を示しています(胚の眼胞と良く似ています)。
次の2日間の間に
- 飛び出した眼胞様の袋の中で、ES細胞塊本体から遠い部分が神経網膜の前駆組織に運命付けされ、その部分が他の部分より構造的に「変形しやすい柔軟な組織」になります。これは、神経網膜組織では、細胞の中のバネに当たるミオシンが不活性の状態(柔らかいバネの状態)になるためです。
- 次に、色素上皮と神経網膜の境目の細胞が特別な「くさび形」に変わり、色素上皮と神経網膜の「折り返し部分」で鋭角なカーブを形成します。
- 最後に、神経網膜組織が盛んな細胞分裂により急速に面積が大きくなり、それにより横方向の圧力が生じて、自らを眼杯の内部へ変形させ、陥入して行きます。
研究グループは、これらの局所ルールが働いていることを実験的に観察するとともに、コンピュータによる組織形成シミュレーション※14を用いて、これらの3つのルールだけで確かに眼杯の形が決定できることも証明しました(シミュレーションは京都大学再生医科学研究所および理研VCADプログラムの安達研究室との共同研究で行いました)。
(5)生体組織に酷似した多層の神経網膜組織の3次元形成
さらに研究グループは、試験管内でES細胞から3次元再構築した眼杯組織(胎児型網膜組織)から、生後の眼で見られるような多層の神経網膜組織(生後型網膜組織)の形成に挑戦しました。分化培養10日後に、形成したES細胞由来の眼杯組織を細いピンセットで単離し、さらに14日間立体浮遊培養を行ないました(合計24日間の培養)。すると、その間に眼杯の内壁である神経網膜組織の細胞が盛んに分裂して、自然と重層化するようになりました。培養24日後には、神経網膜を形成する6種類の主要細胞(視細胞、水平細胞、双極細胞、アマクリン細胞、神経節細胞、ミュラー細胞)のすべてを含み、しかも、それらが生後の眼組織に見られるように順序正しい層状構造を形成しました。また、神経網膜組織内のシナプスの形成も形態的に確認しました。分化培養10日後には直径300μm程度のカップ状であった神経網膜は、24日間の培養後には2mmの直径に達する大きな上皮構造になっていました(図6)。
このように、今回の研究では、多能性幹細胞にも内在する自己組織化プログラムを誘発することにより、世界で初めて胎児型の網膜組織(眼杯)の立体形成に成功しただけではなく、生後型の網膜組織全層の立体再構築も実現しました。
今後の展望と課題
これまで、眼杯の形成原理について相反する仮説※15が出されていましたが、今回、網膜前駆組織自体が持っている内在的な自己組織化プログラムで眼杯形成が起こることを明確に証明したことで、1世紀にわたる論争に結論を与え、組織・臓器の形の決定機構に新しい概念を導入したことになります。
また、最先端の光学イメージングや力学特性解析などの「細胞の先端定量計測」と「コンピュータによる数理・計算科学的解析」を組み合わせた研究は、新しいライフサイエンスの潮流として注目される「生命動態システム科学」※16を組織(多細胞)レベルで実践した先駆的な例として位置づけられ、「細胞集団を自在に操作し、組織構築をデザインする研究」につながると期待できます。
これまでの「次世代再生医療としての細胞治療」では、多能性幹細胞から個別の細胞を作り、それらをバラバラの細胞(あるいは単純な細胞塊)として移植することを念頭にした研究開発が行われてきました。今回の成果は、こうした考え方から大きく飛躍して、高度の機能性を有する「人工生体組織」を試験管内で多能性幹細胞から形成させ、それを移植する「次々世代の再生医療」の可能性を拓く画期的なものです(図7)。
2008年の大脳皮質組織の形成に加え、今回の網膜組織の成果で、3次元培養による自己組織化技術は、人工組織・器官の開発で高い有用性と可能性を持つことが示されました。特に、多能性幹細胞由来の人工網膜組織については、これまでの細胞移植法のアプローチでは十分な組織再生が見込めなかった神経網膜でも、再生医療の実現に近づける大きな一歩となることが期待できます。
特に視細胞のゆっくりとした変性・壊死により起こる網膜色素変性症は国内に数万人の患者が存在し、失明に至る重篤な網膜疾患です。多くは遺伝性で、その原因となるいくつかの遺伝子も同定されていますが、これまで有効な治療法はありませんでした。今回の研究成果により、多能性幹細胞から視細胞を含む神経網膜の立体組織を形成し、しかもmm単位のスケールで実現したことで、患者の傷んだ神経網膜に重層する「網膜シート組織移植」の材料作製が、試験管内で可能となる道筋がついたことになります。
こうした可能性を現実のものとするため、研究グループではすでにヒトES細胞からの立体網膜組織の形成技術の開発を進めています。1、2年の間にヒト人工網膜の産生技術を完成させることを目指し、発生・再生科学総合研究センターの網膜再生医療研究チームとの共同研究で、サルなどの中型実験動物へヒト人工網膜組織を移植し、その有効性を確認する「前臨床研究」へ進める予定です。
また、多能性幹細胞由来の立体網膜組織は創薬、毒性試験、病因研究などでも幅広く利用することが可能で、緑内障(神経節細胞の変性)などの治療法の開発などにも利用されることが期待されます。