要旨
独立行政法人理化学研究所(野依良治理事長)は、ES細胞やiPS細胞などの多能性幹細胞※1が神経細胞※2へと分化※3を開始するときに働くスイッチの制御機構を明らかにしました。理研発生・再生科学総合研究センター(竹市雅俊センター長)器官発生研究グループの笹井芳樹グループディレクターと上谷大介研究員らを中心とした研究グループの成果です。
ヒトや動物のES細胞・iPS細胞は、分化を起こしやすい条件で培養すると、神経細胞をはじめ、心筋細胞、血液細胞、網膜細胞などさまざまな種類の細胞に試験管内で分化していくことが知られ、再生医療などへの利用が期待されています。しかし、血清や増殖因子※4を含む培養液を用いた通常の培養方法では、こうした多種類の細胞が混在して産生されてしまいます。このため、疾患に関係した特定の種類の細胞を産生する培養条件を特別に工夫する必要があります。研究グループはこれまでの研究で、血清や増殖因子など、細胞へ刺激を与える物質を除いた培養液で培養すると、ES細胞・iPS細胞は自発的に神経前駆細胞※2や神経細胞へ効率よく分化(神経分化)することを明らかにしてきましたが、そのメカニズムは不明でした。
今回、網羅的なゲノム・スクリーニングを行い、血清や増殖因子などを除いた培養液を用いた場合にだけES細胞の中で強く働くZfp521という核内タンパク質を同定し、これが働くことで、ES細胞が神経前駆細胞へ分化を開始することを明らかにしました。また、血清や増殖因子などは、Zfp521タンパク質の発現を抑えて神経分化を低下させること、血清や増殖因子の存在下でもZfp521タンパク質さえ発現させれば、神経分化は効率良く進むことも発見しました。
さらに研究グループは、Zfp521遺伝子の機能を阻害したES細胞の場合、試験管内でもマウス胎児の中でも、脳の神経細胞を産生できないことを証明しました。一方、Zfp521遺伝子が働かなくても、脳以外の組織への分化は正常に起こったことから、Zfp521タンパク質が脳・神経細胞への分化スイッチを特異的にオンにする役割を果たしていることが判明しました。また、Zfp521タンパク質は、核の中でDNAに結合して、神経細胞への分化に必要な複数の遺伝子の発現を直接オンにする転写促進因子※5であることも明らかにすることができました。
今回の研究成果は、これまで謎であったES細胞・iPS細胞からの神経分化の開始機序を明らかにし、脳疾患の再生医療への応用に必須である神経細胞の選択的産生技術やそれに伴う安全性の向上に大きく貢献します。
本研究成果は、文部科学省の「再生医療の実現化プロジェクト」の一環として行い、英国の科学誌「Nature」2月24月号に掲載されるに先立ち、オンライン版(2月16日付:日本時間2月17日)に掲載されます。
背景
ES細胞やiPS細胞などの多能性幹細胞は、すべての種類の体細胞に分化する能力(多能性)を有しており、試験管内で医学的に有用な細胞を産生する提供源として注目を集めています。ある細胞種が生体内で変性するために起こる病気に対して、ヒトES細胞・iPS細胞から分化させたその細胞を自分自身に移植して治療しようとする再生医療は、難病克服の切り札として期待が寄せられています。例えば、研究グループはこれまでに、マウスやヒトのES細胞・iPS細胞から、中脳ドーパミン神経細胞、大脳神経細胞、網膜細胞、小脳細胞、視床下部内分泌細胞などに試験管内で分化誘導することに成功しており、パーキンソン病や網膜難病の治療を目指した前臨床研究を進めています。また、ES細胞などから神経細胞やその前駆細胞を効率よく分化させる方法として、無血清凝集浮遊培養法(SFEBq法)※6という簡便な方法を開発しています(図1、2005年2月7日プレスリリース)。この手法は、ES細胞やiPS細胞を分化誘導する際に、通常の細胞培養で添加する牛血清や増殖因子を除いた培養液で培養する方法です。ES細胞やiPS細胞は、中胚葉※7や内胚葉※7への分化には牛血清や増殖因子が必要であるのに対し、神経前駆細胞への分化には牛血清や増殖因子は不要で、むしろこれらの添加が抑制的に働くという特徴を持つことが分かったため、その現象を利用しています。
実は、この現象がES細胞・iPS細胞にとどまらず、広く脊椎動物の初期胚の未分化な細胞に共通したものであることが、過去十数年の発生学の研究から明らかとなっています。つまり、初期胚の未分化な多能性細胞は、分化する際に、外部から増殖因子シグナルなどの特別な刺激を受けずにいると、基底状態(デフォルト)として神経前駆細胞になる性質を持っています。これは、ES細胞やiPS細胞から脳などの組織を産生する際に非常に好都合で、SFEBq法の誘導効率が約9割と高いのもこの現象によるものです。
一方、なぜES細胞やiPS細胞などの多能性幹細胞の分化の基底状態は、多々ある細胞分化方向の中で、特に神経分化方向へセットされてしまうのかという疑問は、発生学や幹細胞生物学での大きな謎の1つでした。今回、研究グループは、システム生物学的手法を駆使して、この謎に挑みました。
研究手法と成果
(1)ES細胞の神経分化の開始時点で働く遺伝子のスクリーニング
マウスES細胞を用いて、ES細胞が神経前駆細胞へと分化する非常に初期の段階で活性化される(発現を始める)遺伝子を探索しました。具体的には、SFEBq法で3日間培養し、神経前駆細胞になったばかりの細胞と、未分化なままとどまっている細胞に対して、DNAチップ法による網羅的遺伝子発現解析※8を行い、神経前駆細胞へ分化した場合にだけ発現する遺伝子をスクリーニングしました。その結果、104個の遺伝子が神経分化に伴って発現量が増えていることが判明しました。それらの遺伝子のうち、神経以外の組織にはほとんど発現していなかった29個が、神経分化を制御している可能性が高いと研究グループは考えました(図2)。
(2)核内タンパク質Zfp521はES細胞の神経分化を強く促進する
これら29個の遺伝子を単離し、遺伝子操作でES細胞の中にそれぞれ1個ずつ強制的に強く発現させる実験を行いました。その結果、ES細胞の神経分化を亢進させる遺伝子が1個見つかり、それが核内に存在するZnフィンガータンパク質※9をコードするZfp521遺伝子であることを明らかにすることができました。
Zfp521遺伝子を強く発現させたES細胞は、高い神経分化の能力を発揮しました。例えば、通常のES細胞では神経分化を起こさないBMP4という神経分化阻害因子を含んだ培養液でも、Zfp521遺伝子を強制的に発現させたES細胞は、効率よく神経細胞へと分化することが分かりました(図3)。
(3)Zfp521タンパク質は動物やヒトのES細胞の神経分化開始に必須の制御因子
RNAi法※10を用いて、Zfp521タンパク質が細胞内で発現できないように遺伝子操作したマウスES細胞を作製しました。このZfp521遺伝子の機能を阻害したマウスES細胞は、通常は神経分化を誘導するSFEBq法でも、神経分化が誘導しませんでした。同様にヒトES細胞でも、Zfp521遺伝子は神経分化の初期過程で強く発現していましたが、RNAi法でZfp521遺伝子の機能を阻害すると、神経分化の効率が大きく低下しました。これらの結果から、Zfp521タンパク質は、動物およびヒト多能性幹細胞(ES細胞)の神経分化を開始するために不可欠な神経分化促進因子であることが判明しました。
一方で、Zfp521遺伝子の機能を阻害したマウスES細胞を、牛血清などを用いて中胚葉や内胚葉、あるいは表皮細胞などへ分化誘導させたところ、通常のES細胞と同様に効率よく分化が起こることが分かりました。従って、Zfp521タンパク質は、未分化細胞から神経前駆細胞を産生する分化だけに特異的に必要とされる因子で、他の分化の方向には関わらないことが明らかとなりました(図4)。
(4)Zfp521タンパク質は初期胚の発生においても脳の神経細胞の発生に不可欠である
Zfp521遺伝子の機能を阻害したマウスES細胞を、マウスの着床前胚である胚盤胞に注入してキメラ胚を作製※11しました。通常のES細胞を胚盤胞に注入して、その胚を着床させ発生させると、注入したES細胞はマウス胎児のすべての組織にほぼ均一に取り込まれて、それぞれの組織の細胞に分化しました。一方、Zfp521遺伝子の機能を阻害したマウスES細胞を注入したキメラ胚では、ES細胞は脳の組織には取り込まれず、脳の神経細胞への分化は認められませんでした。このキメラ胚のその他の組織は、Zfp521遺伝子の機能を阻害したES細胞から分化した細胞を含んでおり、ES細胞から脳への発生だけが起こらなかったことが判明しました(図5)。
これらの結果は、Zfp521遺伝子が、ES細胞が試験管内で神経分化を開始するために必要なだけではなく、胚の環境において、未分化細胞から脳組織が発生する初期段階でも必須の役割を果たすことを示しています。
(5)Zfp521タンパク質はDNAに結合し、神経特異的な遺伝子の発現をオンにする転写促進因子として働く
Zfp521タンパク質がどのように神経分化を促進するのかを明らかにするため、細胞核でのDNAとの相互作用を分子生物学的手法で解析しました。その結果、Zfp521タンパク質は、神経前駆細胞の分化開始後に強く発現する複数の遺伝子(Sox3、Pax6遺伝子など)のDNAに強く結合していることが分かりました。Zfp521タンパク質は、これらの遺伝子の位置に転写を活性化するp300というタンパク質を引き込んでくる働きをし、その結果、神経細胞に特有の遺伝子だけを活性化する(発現をオンにする)転写促進因子として機能することが判明しました(図6)。
今後の期待
本研究は、哺乳類の脳の発生を開始させる制御機構を初めて分子レベルで解明し、そのスイッチ因子がZfp521タンパク質であることを明らかにしました。哺乳類の初期発生を再現するES細胞やiPS細胞の分化においても、Zfp521タンパク質が働くことで神経分化を開始するスイッチが入ることが分かりました。「なぜ、胚の未分化細胞やES細胞などは、特定の増殖因子などの刺激を受けないと、基底状態(デフォルト)として、神経前駆細胞に分化するのか?」という長年の謎に対して、分化の過程でZfp521タンパク質が細胞内で自然に蓄積されるためであるという答えを明らかにすることができました。逆に、BMP4などの増殖因子シグナルが細胞に入ると、それらのシグナルがZfp521タンパク質の発現を阻害してしまい、神経分化の効率が低下することも分かりました。現在、研究グループでは、次の大きな謎「Zfp521タンパク質がなぜ自然に分化過程のES細胞の中で発現しだすのか?」を解くために、さらに分化のメカニズムを明らかにし、ES細胞やiPS細胞からさまざまな細胞が産生される制御機構を体系的に理解しようと解析を進めています。
研究グループがこれまでに開発してきたSFEBq法では、ヒトES細胞やiPS細胞から、約9割の細胞を神経前駆細胞に分化させることに成功しています。しかし逆を言えば、1割弱の細胞は、神経系細胞以外のものであり、こうした不純物の混入は、再生医療における細胞移植において、がん化や副作用などのリスクを増大させる可能性があります。今回の研究で、ES細胞・iPS細胞が神経系の細胞になるか、他の種類の細胞になるかをZfp521タンパク質の存在が決定することが分かり、今後、細胞中でZfp521タンパク質の発現を増やす培養条件を検討することで、さらに高度に選択的な神経細胞の産生を可能にし、再生医療の安全性の向上に貢献することができると考えています。