背景
小脳は、ほ乳類の中枢神経系の中で大脳に次ぐ大きな領域を占め、筋肉の動きなどとの協調によりスムーズな動きを制御する機能を担う主要な運動中枢です(図1)。私たちが、体のバランスを取りながら複雑な動きができるのも、ピアノ演奏などの緻密な運動制御を学習できるのも、小脳の機能があって初めて可能となります。そのため、小脳の機能が損傷を受けると、小脳性運動失調と呼ばれる特徴のある強い運動障害が起こり、書字など緻密運動ができず、ふらつき、歩行障害、発音障害(ろれつが回らない)などの日常生活上の支障が生じます。
こうした小脳の障害は、アルコール中毒(急性、慢性)などの場合にも認められ、代表的な病気としては脊髄小脳変性症があげられます(図2)。この疾患は、主として遺伝的な素因(すべてではありません)による神経変性疾患で、小脳の神経細胞あるいは小脳と連絡して働くそのほかの部位(脊髄、延髄、橋など)の神経細胞が細胞死を起こして、減少するために発症します。映画・ドラマ化された「1リットルの涙」の著者の少女がこの難病を患っていたことでも有名で、現在でも治療法はまったく存在しません。
小脳は大脳と同じように、「皮質」と呼ばれる構造がその働きの中心ですが、その小脳皮質でもっとも中心的な役割を果たす神経細胞(主要ニューロン)がプルキンエ細胞です。多くの神経情報が入力されるため、1つ1つのプルキンエ細胞は大きな樹上突起を持つなど特徴的な構造を有しています。従って、このプルキンエ細胞が変性すると、小脳の機能障害である運動失調の症状を示し、こうしたタイプの脊髄小脳変性症(SCA6型)が国内でも多く知られています。
このように脳科学的にも、医学的にも、非常に重要な役割を持つ小脳のプルキンエ細胞ですが、これまでの培養方法ではES細胞・iPS細胞などの多能性幹細胞※9から効率よく試験管内で分化誘導することができませんでした。
一方、研究グループでは、これまでにマウスやヒトES細胞を用いて、試験管内での選択的な神経細胞の分化培養法を複数開発し、中脳ドーパミン神経細胞、大脳前駆細胞(皮質前駆細胞、基底核前駆細胞)、網膜細胞などの分化誘導に成功してきました。今回、その1つであるSFEBq法を改良して、マウスES細胞から高い選択性をもって小脳のプルキンエ細胞やそのほかの小脳ニューロンを試験管内で産生することに挑みました。
研究手法と成果
(1)マウスES細胞からの小脳幹細胞の分化誘導
マウスES細胞を用いた従来の神経分化誘導法では、プルキンエ細胞の分化はまれに認められる程度で、全細胞の0.5%未満という極めて低い効率でしか起こりませんでした。今回、以前に研究グループが開発した、ES細胞から大脳や間脳組織を効率よく分化させる無血清浮遊培養法(SFEBq法)を改良し、小脳組織の分化を効率よく誘導することができる条件を探索しました。そのヒントとなったのは、胎児の小脳の発生機構でした。胎児の発生過程で、小脳の発生は隣接する峡部形成体(中脳の最も尾側部に存在)という組織の働き(誘導シグナル)によって開始します。従って、この峡部形成体の働きをES細胞の培養過程で再現させると、高効率で小脳前駆組織へと分化誘導できるのではないかと考えました。詳細な検討の結果、ES細胞の分化培養過程の初期(培養開始後24~48時間)に繊維芽細胞増殖因子のFGF2とインスリンを作用させると、4日後には効率よく峡部形成体が生じることを確認しました。その状態で培養を続けると、峡部形成体の働きで、分化開始8日後には小脳領域の性質を持った幹細胞(En2という分子を発現)を8割近い効率で分化誘導することが分かりました。
(2)ES細胞からの小脳プルキンエ細胞の産生と純化
ES細胞の分化培養で産生した小脳領域の幹細胞に、サイクロパミン(Hedgehogという細胞外シグナル因子の阻害剤)を作用させると、分化開始19日後には3割以上の高い効率で小脳プルキンエ細胞へ分化することが分かりました。これは、従来の分化法の実に60倍以上の頻度になります。小脳領域の幹細胞から成熟したプルキンエ細胞へ分化する発生過程を詳細に解析した結果、分化開始後13日目前後に幹細胞からプルキンエ細胞前駆細胞が一斉に生み出されていることを観察しました(図3)。
株式会社カン研究所では、2年程前に尾野雄一グループリーダーを中心に、小脳プルキンエ細胞の発生のごく初期に発現する細胞表面タンパク質Neph3を発見していました。理研発生・再生科学総合研究センターとカン研究所は共同で、蛍光細胞ソーター(FACS)を用いて、当時未発表であったこのタンパク質を目印にプルキンエ細胞前駆細胞だけを選別・純化する方法を確立しました。今回、その方法を応用して、ES細胞から産生したプルキンエ細胞を9割以上の純度に純化することにも成功しました(図3)。これは、プルキンエ細胞を選択的に高効率で培養することを実現した世界初の画期的な技術です。
(3)ES細胞由来のプルキンエ細胞の小脳移植に成功
このように、ES細胞から産生し純化したプルキンエ細胞の前駆細胞を、生体の組織に組み込むことができるかどうか、マウス胎児の小脳へ細胞移植する方法で検討しました。妊娠16日目のマウス胎仔の小脳へ細いガラス管で細胞を注入し、そのマウスが出生後4週間目に育った状態で解析したところ、宿主の小脳皮質にES細胞由来の成熟したプルキンエ細胞を数多く認めました。
小脳皮質は4つの層(分子層、プルキンエ細胞層、顆粒層、白質)から構成されますが、移植したプルキンエ細胞は単に小脳組織で生存(生着)していただけではなく、大半(8割以上)が本来この細胞が存在すべきプルキンエ細胞層に限局して存在しました。さらに、移植した神経細胞は、プルキンエ細胞層の中で空間的にも正しい向きに組み込まれ、プルキンエ細胞が受ける2種類の入力神経線維(苔上線維と登上線維の2経路)を樹上突起に受けていました。さらに、移植したプルキンエ細胞は、その出力神経線維を本来の投射先である深部小脳核へ選択的に伸ばして、シナプスを形成していました。
これらの解析から、ES細胞由来のプルキンエ細胞は、小脳に移植可能な細胞であり、生着すると神経回路のネットワークに正しく組み込まれることが分かり、世界初の画期的な研究成果となりました(図4)。
(4)ES細胞から産生したプルキンエ細胞の神経機能
神経細胞の基本的な機能は、神経細胞自身の電気的興奮を軸索で伝搬し、その先端のシナプスを介して次の神経細胞に伝達させることです。こうした電気的な挙動は電気生理学解析という手法で解析可能ですが、小脳プルキンエ細胞はほかの神経細胞に比べて2つの特徴的な性質を持つことが知られています。1つは、神経細胞の自発発火(入力がなくとも、高頻度に自発的に電気的興奮を繰り返すこと)で、もう1つは神経入力の選択性(グルタミン酸という神経伝達物質に対して、通常の神経細胞では2種類存在する受容体のうち、片方のAMPA型受容体のみ存在)です。これらの特徴がES細胞由来のプルキンエ細胞にも認められるかを電気生理学解析で調べるため、この解析法の世界的な権威である京都大学理学研究科の平野丈夫教授と共同研究を行いました。その結果、小脳プルキンエ細胞の特徴であるこの2つの性質が、ES細胞由来のプルキンエ細胞でも同様に確認できました。
このように、ES細胞由来のプルキンエ細胞は、生体のプルキンエ細胞を高度に模した性質・機能を有することが証明されました。
今後の展望
今回の研究成果は、試験管の中で小脳発生を再現することで、中枢神経系の発生の中でもいまだ十分に解明されていなかった小脳の発生の初期制御について大きく理解を前進させるものです。この分化培養法の特徴は、ES細胞から小脳組織を直接分化させるシグナルを用いるのではなく、小脳の発生を促進させる活性のある峡部形成体(小脳より先に発生する)をまず分化させ、それに「仕事」をさせて残りのES細胞から小脳を発生させるという2段階戦略を用いたことです。
研究グループは今後、ヒトES細胞やiPS細胞など、ほかの多能性幹細胞から、プルキンエ細胞などの小脳神経細胞を産生・純化することを目指します※10。現在、ヒトの小脳神経細胞は、ほとんど入手が不可能で、小脳変性症の原因解明や特効薬などの治療法開発のための研究もマウスの小脳組織を使うことしかできません。このため、ヒトES細胞やiPS細胞などからプルキンエ細胞など小脳神経細胞の試験管内産生が実現すると、医学的に大きな意義を持ちます。また、遺伝子背景の強い脊髄小脳変性症では、患者の皮膚細胞などからiPS細胞を樹立することができると、試験管内で脊髄小脳変性症のモデル細胞を作り、原因研究・創薬研究などが加速すると期待できます(図5)。
脊髄小脳変性症は、MRIなどの画像診断や遺伝子診断などの技術の進歩により診断は格段に向上しています。しかし、現在治療法はまったくなく、多くは数年から十数年の経過を経て寝たきりになる状況となっており、再生医療や遺伝子治療などの革新的な治療法の開発が切に望まれています。移植による治療法を確立することができると、主としてプルキンエ細胞だけが変性するSCA6型では特に高い治療効果を発揮すると考えられます。
今回、多能性幹細胞であるマウスES細胞から小脳の主要な神経細胞であるプルキンエ細胞を効率よく産生・純化する方法を確立し、マウス胎児の小脳への移植に成功したことで、夢の治療法の実現に向けて確実な第一歩を踏み出しました。しかし一方で、成体のマウスの小脳への移植では、小脳皮質への生着が非常に低いことが観察されています。その克服は移植治療開発での大きな技術的課題であり、今後の戦略的な取り組みが必要です。研究グループでも、成体の小脳皮質への生着を阻害する因子などを探り、成体の小脳でも高い移植効率が実現できる移植法の開発を目指します。