要旨
独立行政法人理化学研究所(野依良治理事長)は、走査型トンネル顕微鏡(STM)※1によって誘起される分子の運動・反応の様子を予測する理論を整備し、固体表面上の分子1つ1つの性質を示す「分子の指紋」を調べる手法を世界で初めて確立しました。これは、理研基幹研究所(玉尾皓平所長)表面化学研究室の本林健太研修生、川合真紀元主任研究員(現理事)、Kim表面界面科学研究室の金有洙准主任研究員、国立大学法人富山大学工学部の上羽弘教授らによる研究成果です。
シリコンに代わる次世代デバイスの1つとして、単一分子を構成要素として用いる「分子ナノデバイス」が提案されています。分子ナノデバイスを構築するためには、分子1つ1つを「見る」、「動かす」、「組み立てる」ことが必要となります。個々の分子を「見る」ことができる最も強力な装置がSTMです。しかしSTMでは、分子を凹凸として見ることしかできず、どんな分子であるかを判別する「化学分析」はできませんでした。そのため、STMを応用して分子1つ1つを化学分析する手法の開発に世界中が挑戦してきました。
研究チームの長年にわたる研究によって、STMから固体表面上の吸着分子に電子を注入したときに起きる分子の運動や反応の様子と、それぞれの分子に固有な「分子の指紋」、すなわち分子振動※2のエネルギーとの間に、密接な関係があることが分かってきました。研究チームは、この両者の関係性を一般的な理論として構築することに成功し、この理論を応用して個々の分子の運動・反応速度の測定結果を解析することで、分子振動のエネルギーを正確に求めることができる「アクションスペクトル※3測定法」という手法を確立しました。固体表面上の分子1つ1つを化学分析することが可能となるこの手法は、次世代ナノテクノロジー、特に分子ナノデバイスの組み立て技術を開拓するための、大きな一歩となります。
本研成究果は、文部科学省科学研究費補助金・特定領域研究「プローブ顕微鏡を用いた単分子スペクトロスコピー」(代表者: 川合真紀)の一環として進めてきたもので、米国の科学雑誌『Physical Review Letters』(8月13日号)に掲載されるに先立ち、オンライン版(8月11日付け:日本時間8月12日)に掲載されます。
背景
コンピューターに使われるシリコンデバイスの性能の進歩は、十数年後に物理的な限界を迎えるといわれており、シリコンに代わる次世代デバイスの研究が世界中で進められています。その1つとして、機能を持たせた単一分子を構成要素として用いる「分子ナノデバイス」が提案されています。分子ナノデバイスを構築するためには、分子1つ1つを「見る」、「動かす」、「組み立てる」ことが必要となります。これらを実現することができると予想される最も有力な実験装置が、分子1つ1つを「見る」ことができるほどの優れた空間分解能を持つ、走査型トンネル顕微鏡(STM)です。STMの優れた空間分解能は、ナノメートル(1nm:10億分の1メートル)スケールまで近付けたSTM探針と試料表面の間に電圧をかけた時に流れるトンネル電流が、2つの物体の間の距離に大きく依存することに由来しています。従って、STMは試料表面上の分子を凹凸としてとらえることはできますが、どんな分子であるかを判別する「化学分析」はできませんでした。そのため、STMを応用して分子1つ1つを化学分析する手法の開発に世界中が挑戦してきました。
分子それぞれには、「分子の指紋」と呼ばれる固有な分子振動のエネルギーがあります。そのため、個々の分子の振動エネルギーを計測する「振動分光法」が実現すると、計測対象の化学分析が可能となります。STMは、固体表面上に吸着した分子に対して一定のエネルギーを持った電子を注入し、分子1個の振動を励起できることが知られています。これまで、振動が励起しても分子が表面上で動かない安定な分子に対しては、STMを用いて化学分析する手法はありましたが、振動励起によって動いてしまう不安定な分子に対しては、適用できる計測手法がありませんでした。
研究チームは、この「振動励起によって動いてしまう」ことを逆手にとって、分子の動きの傾向から分子の振動エネルギーを読み取る新たな振動分光手法「アクションスペクトル測定」の可能性を実験的に検討してきました。この手法は、注入する電子のエネルギーを大きくしながら分子の運動・反応の速度を計測すると、振動エネルギーと等しくなったときに反応速度が上昇することを利用しています。この手法を一般的に使える振動分光手法として確立するためには、①反応速度のゆるやかな上昇から、振動に対応するエネルギーをどう正確に読み取るか、②実験上必然的に含まれる大きなノイズの中から、いかに分子振動によるシグナルを見分けるか、という2つの大きな課題を解決する必要がありました。
研究チームは、分子の運動・反応の速度を反映した一般的な式を理論的に構築し、この式を応用した実験データの解析手法を開発することで、2つの大きな課題を解決し、アクションスペクトル測定を実用的な単一分子振動分光手法として確立することに取り組みました。
研究手法と成果
(1) 反応速度の定式化
研究チームは、任意のエネルギーを持ったトンネル電子を、STMの探針から固体表面上の吸着分子に注入した際の分子の反応速度(分子の運動の場合は運動速度)を、反応速度論の考え方を用いて定式化しました。特定の分子振動が一段階励起された状態からの反応速度(図1(a))の式を拡張し、特定の振動が二段階以上励起されている状態からの反応速度(図1(b))や、複数の分子振動が励起されうる場合の反応速度(図1(c))なども表現できる、汎用的な反応速度の式を構築しました。分子振動の寿命などから振動エネルギーが有限の幅を持つことも簡単な近似を用いて表現しました。
(2) アクションスペクトル測定の解析手法の確立
研究チームは次に、STMで測定したアクションスペクトルに対して、構築した反応速度の式をカーブフィッティング※4することで、実験データを解析する手法を確立しました。最適なカーブフィッティングの曲線が決まると、フィッティングパラメータである①分子の振動エネルギー、②1回の反応に必要なトンネル電子の数、③反応速度定数、④分子振動のエネルギー幅、の最適値が決まり、これら4つの物理量を算出することができます。実際にパラジウム(Pd)表面上に吸着した一酸化炭素(CO)分子の拡散運動(図2)とcis-2-ブテンの回転運動(図3)のスペクトルが、構築した反応速度の式によって非常によく再現されることを確かめました。
(3) アクションスペクトル測定の解析手法の特長
アクションスペクトル測定法にカーブフィッティングを用いた解析法を組み込むことによって、これまで経験的に見積もっていた分子振動のエネルギーを論理的に、しかも精度良く求めることができるようになりました。ノイズに埋もれてしまうような小さな信号も、カーブフィッティングがうまくできるかどうかで、分子振動に由来するものかどうかを確実に判別することができます(図4)。この解析手法の特徴は、どんなスペクトルでも再現・解析することができる「汎用性」と、計算量が少ないために個人用のパソコンでも実行できる「実用性」を兼ね備えていることです。また、分子の振動エネルギーだけでなく、1回の反応に必要なトンネル電子の数、反応速度定数、分子振動のエネルギー幅など、反応のメカニズムを知る上で重要な情報も得ることができ、学術的に信頼度の高い手法といえます。
今後の期待
今回の研究成果は、STMを用いたアクションスペクトル測定法という、実用的な単一分子の振動分光手法を確立するものです。これにより、固体表面上の分子1つ1つを同定する化学分析が可能となり、分子ナノデバイスの作成技術をはじめとした、次世代ナノテクノロジーの発展に貢献することが期待できます。また、化学反応のメカニズムの理解にも大きな威力を発揮し、触媒反応機構の全容解明に向けた研究への応用も期待されます。