要旨
独立行政法人理化学研究所(野依良治理事長)は、母性染色体※1の異常が引き起こす神経発達障害アンジェルマン症候群※2の原因遺伝子Ube3aが、大脳皮質※3機能の可塑性※4とその後の成熟に必須であることを、Ube3a遺伝子を欠損したアンジェルマン症候群のモデルマウスを用いた研究で明らかにしました。これは、カリフォルニア大学サンフランシスコ校のマイケル・ストライカー(Michael Stryker)教授と脳科学総合研究センター(利根川進センター長)シナプス機能研究チーム(林康紀チームリーダー)の佐藤正晃研究員(前カリフォルニア大学サンフランシスコ校博士研究員)との共同研究による成果です。
研究チームは、母性染色体上のUbe3a遺伝子を欠損したマウスを用いて、大脳皮質にある視覚野※3の可塑性を、神経活動に伴う脳の代謝変化を画像化する「内因性シグナル光学イメージング※5」という手法で調べました。その結果、生後4週目の発達時期(臨界期※6)に片目からの視覚経験を短期的に遮へいすると、野生型マウスは、遮へい眼の視覚野の活動が顕著に弱まるという可塑性を示す一方で、Ube3a母性欠損マウスは、活動の弱まる程度が低く(可塑性の度合いが小さく)なることを見いだしました。また、臨界期が終了する生後6週目では、長期的に視覚経験を遮へいすると、野生型マウスは非遮へい眼の視覚野の活動が強くなるという特徴的な可塑性を示しますが、Ube3a母性欠損マウスは、野生型マウスが臨界期で示したように遮へい眼の視覚野の活動が弱まることが分かりました。これらの結果から、母性染色体上のUbe3a遺伝子の機能が、大脳皮質の神経機能の成熟に必須であることが判明しました。アンジェルマン症候群の主な症状である精神発達遅滞の病態解明と、その治療法の開発に役立つことが期待できます。
本研究成果は、米国科学アカデミー紀要『Proceedings of the National Academy of Sciences of the United States of America(PNAS)』2010年3月23日号に掲載されました。
背景
Ube3a遺伝子は、細胞内で不要になったタンパク質に目印を付加する機能(ユビキチンリカーゼ活性)を持つタンパク質の1つをコードします。この遺伝子をヒトで欠損すると、アンジェルマン症候群という遺伝性の神経発達障害を引き起こします。Ube3a遺伝子は、ヒトの場合15番染色体に存在し、興味深いことに、父母からそれぞれ受けついだ2本の染色体のうち、「ゲノム刷り込み※7による母性発現」と呼ぶ機構により、脳では母方由来のものだけが発現します。そのため、比較的まれな母性15番染色体の異常により、アンジェルマン症候群は発症します。アンジェルマン症候群の患者は日本でも少なくなく、精神発達遅滞、言語障害、歩行失調、痙攣(けいれん)、頻繁に笑うなどの独特の行動をはじめとした、多様な症状を特徴とします。
研究チームは、こうしたアンジェルマン症候群の病態の一部に、Ube3a遺伝子の欠損による神経回路の発達異常がかかわっているのではないかと考え、Ube3a遺伝子が大脳皮質の生後の発達に果たす役割を、マウスの大脳皮質にある視覚野の神経回路をモデルにして調べました。マウスの視覚野の生後発達とその後の成熟は、視覚中枢同士の規則正しい神経細胞の結合の形成や、視覚経験が回路の精緻(せいち)化に大きな影響を及ぼす臨界期の開始と終了など、複数の過程が生後1週から6週にかけて一定の順番で進みます。また、これら一連の過程が、遺伝的プログラムと視覚経験の相互作用によって起こるために、視覚野の神経回路は、脳の生後発達を詳細に調べるために極めて有用なモデルとなっています。
研究手法と成果
研究チームは、まずアンジェルマン症候群のモデルとなるマウスを得るために、遺伝子改変によって2本の染色体のどちらか一方のUbe3a遺伝子を欠損(ヘテロ接合体)した雌マウスと、野生型の雄マウスを交配して、母方からの染色体上のUbe3a遺伝子だけが欠損したUbe3a母性欠損マウスを得ました(図1A)。
マウスは生後4週目になると、視覚野が顕著な感受性を示して発達する臨界期という時期を迎えます。このときの視覚野のUbe3aタンパク質の発現を調べると、野生型マウスの神経細胞では主に細胞核に強い局在が見られましたが、Ube3a母性欠損マウスの神経細胞では、父性染色体上のUbe3a遺伝子は正常であるにもかかわらず、Ube3aタンパク質の発現がほぼ完全に消失していました(図1B)。この結果は、ヒトの脳で報告されているのと同様に、マウスの視覚野でも、Ube3a遺伝子が母性染色体から発現していることを示しています。
また、このUbe3a母性欠損マウスの視覚野の機能が臨界期にどう発達するかを調べました。具体的には、生後4週目に片目を数日間閉じて、視覚経験を遮へいしたときの可塑性の度合いを、マウスの小さな脳部位の神経活動を画像化することのできる、高解像度の内因性シグナル光学イメージングを用いて調べました(図2)。野生型マウスの視覚野は、臨界期に片眼からの視覚経験を短期間(4日間)遮へいすると、遮へい眼に対する視覚野の活動が弱くなる「眼優位可塑性※8」という可塑性を容易に引き起こすことが知られています。しかし、Ube3a母性欠損マウスでは、この眼優位可塑性の度合いが野生型マウスに比べて約28%と著しく減少していました(図3)。このことは、母性染色体のUbe3a遺伝子欠損によって、視覚野の神経回路の適応性を大幅に失ったことを示しています。
次に、臨界期終了後の視覚野の発達の様子を調べました。研究チームはすでに、野生型マウスが臨界期を終了する生後6週に、より長期間(7日間)片眼を遮へいすることによって、非遮へい眼に対する視覚野の活動が増強するという「成体眼優位可塑性※8」を報告しています。しかし、Ube3a母性欠損マウスではこの成体眼優位可塑性が見られず、むしろ臨界期に見られる眼優位可塑性のような遮へい眼の視覚野の活動の減弱がゆるやかに起こりました(図4)。このことは、母性染色体のUbe3a遺伝子が欠損すると、臨界期終了後の視覚野の発達の段階でも、その可塑性が臨界期終了以前の未熟な状態にとどまってしまうことを示します。つまり、母性由来のUbe3a遺伝子が、大脳皮質視覚野の機能の成熟に必須な役割を持つと結論づけることができました。
さらに、Ube3a母性欠損マウスの視覚にかかわる脳領域間の結合の様子を調べると、生後1週目に形成される眼から視床への神経結合と、視床から大脳皮質視覚野への神経結合はほぼ正常でした。しかし、視覚野内の神経回路の構造に着目し、生後4週目のマウス視覚野を緑色蛍光タンパク質でラベルして、第5層の神経細胞の棘(きょく)突起※9の密度を調べると、Ube3a母性欠損マウスの神経細胞では、細胞体から上方向に伸びる樹状突起上の棘突起密度は正常でしたが、水平方向へ伸びる樹状突起上の棘突起密度が野生型マウスに比べ減少していました(図5)。これは、Ube3a母性欠損マウスでは、脳の領域間の回路の大まかな配線は保たれているものの、視覚野内の局所的な神経回路の結合に異常があることを示しています。
今後の期待
大脳機能の生後成熟において、Ube3a遺伝子の必須な役割を明らかにした今回の研究成果は、アンジェルマン症候群の主症状である精神発達遅滞の病態解明と、新たな治療法の開発につながると期待できます。今後は、以下の2つの方向性に基づき研究を進めていきます。
第1の方向性は、Ube3aがそのユビキチンリガーゼ活性によって目印を付加する標的タンパク質を同定するとともに、神経細胞内で、このシグナル経路がどういう機能を担っているかを明らかにすることです。Ube3aの標的タンパク質には、神経活動によってその発現が制御されるArcと呼ばれるタンパク質を含め、現在までにいくつかの報告があります。また今回の研究で、野生型マウスの生後4週目の視覚野の神経細胞では、細胞核にUbe3aタンパク質が局在していたことから、Ube3aタンパク質は核で遺伝子発現の調節にかかわっている可能性があります。今後、Ube3a母性欠損マウスの大脳皮質の遺伝子発現パターンをゲノム規模で網羅的に調べ、細胞外マトリックスタンパク質※10など神経回路の成熟にかかわる遺伝子の発現に変化があるかどうかを調べると、Ube3aタンパク質の欠損によってなぜ神経回路の発達に影響が及ぶのかを理解するための有効なアプローチになると考えられます。
第二の方向性は、今回分かったUbe3a遺伝子の欠損による可塑性障害の程度を指標として、その障害を回復させる働きをもつ薬物や遺伝子を探索することです。特に、アンジェルマン症候群のほとんどは、父性染色体のUbe3a遺伝子の構造は正常に保たれていると考えられるため、父性染色体のUbe3a遺伝子の機能の抑制を解除する薬物や遺伝子を見つけることができると、アンジェルマン症候群の治療は大きく進歩する可能性があります。