要旨
独立行政法人理化学研究所(野依良治理事長)は、NMR(核磁気共鳴)法※1を用い、植物化学資源※2を有効活用するために、抽出プロセスの評価法と代謝物の大量アノテーション※3法を開発することに成功しました。これは、理研植物科学研究センター(篠崎一雄センター長)先端NMRメタボミクスユニットの菊地淳ユニットリーダー、近山英輔技師、関山恭代客員研究員らの研究チームの成果です。
エネルギーや地球環境の問題、さらに人口増加に伴う食糧問題など、人類が直面する問題に対する関心が世界レベルで高まり、持続可能型の社会システムをいかに構築していくかが課題となっています。それに伴って、農林産物、畜産物、水産物などの残渣(さ)や不可食部分の有効な利用法の開発が望まれています。植物の例では、農林産物の加工プロセスで廃棄される部分からポリフェノールなどの機能性成分を探索することに加え、残渣を主成分とした肥料の開発や、残渣が土壌栄養と作物に及ぼす影響の評価などが積極的に行われています。すでに、植物全体を有効資源として活用するという観点から、抽出収率を上げるための試みは多く報告されています。しかし、対象とする代謝物が機能性成分などに限られる場合が多く、これまで目的物質以外は、資源・情報としても埋もれている傾向にありました。
NMR法は、生体分子の構造や性質を原子レベルで解析することが可能で、非常に幅広い物質情報を取得することができ、物質資源の解析やメタボローム解析※4分野に用いられてきました。研究チームは、このNMR法の特長をいかし、残渣に埋もれていた代謝物も含め、物質資源を広くプロファイリングする方法を確立しました。また、大量の代謝物の解析を行うメタボローム解析分野に、統計数学的手法を導入することによって、これまで捨てられていた情報資源から、候補代謝物を大量に拾い上げる新手法を考案しました。その結果、植物細胞の抽出物から、従来の常識を覆し211個もの候補代謝物の大量アノテーションを、NMR法では初めて実現することに成功しました。この大量解析法は植物化学資源を含む広範な物質資源の新たな探索法を提供します。
今回開発した抽出プロセスの評価法と、候補代謝物の大量アノテーションを組み合わせれば、原料の特性を整理し、着目する植物種、抽出画分について、より詳細な解析を進めることができます。これは、埋もれていた植物化学資源のみならず、微生物・動物を問わず広いバイオ資源の有効活用技術に貢献すると期待できます。本研究成果は、米国の科学雑誌『Analytical Chemistry※5』オンライン版に2報の論文として近く掲載されます。
背景
近年、環境問題の深刻化などを機に、循環型社会、ゼロエミッション、バイオマス利用などの立場から、農林産物、畜産物、水産物などの残渣や不可食部分の有効な利用方法の開発が急がれています。植物の例では、農林産物の未利用部分から機能性成分(抗酸化物質、ポリフェノールなど)を探索することに加え、残渣(緑地・農地から排出される各種植物性廃棄物や、草地の植物枯死体など)を主成分とした肥料の開発や、残渣が土壌栄養と作物に及ぼす影響などの評価を積極的に実施するようになってきています。植物全体を有効資源として活用するという観点では、有用物質の抽出収率を上げるための試み(爆発抽出、加圧抽出、超臨界流体、超音波、マイクロ波など)がこれまで多く報告されています。しかし、対象とする代謝物が機能性成分に限られている場合が多く、これまでの学術論文などで一般的に報告される成分量や組成は、抽出法や定量法によって異なるなど、抽出残渣を含めて全体を網羅しようとする試みには技術的に壁がありました。また同定できる代謝物の種類にしても、その数が少ないという技術的な問題を抱えていました。
研究手法と成果
NMR法は、生体分子の構造と性質を原子レベルで解析できることが特徴で、非常に幅広い物質情報を取得することができます。この能力を高めるため、研究チームは、従来のNMR法で用いられる精製された物質の解析だけでなく、生体由来の代謝混合物のような、未精製で複雑な化合物群を一斉に解析する技術(NMRメタボローム解析)も確立してきました。理研横浜研究所が整備してきた、世界最大のNMR施設にこの技術を展開し、2007年に植物、2008年に動物、2009年に微生物のメタボローム解析を実現してきました。(2007年5月18日プレス発表、2008年11月25日プレス発表、2009年3月16日プレス発表)。
研究チームが開発したNMRメタボローム解析法は、抽出物だけでなく、残渣に埋もれている物質や植物組織を無傷なまま計測できます。NMR法で得たシグナルの強弱は、物質の存在量を精度良く反映し、かつスペクトルで得られる化学シフト※6が化学構造の情報を豊富に有することから、代謝混合物をプロファイリング(どのような性質の物質がぞれぞれどれくらいの量含まれるかなど特性を整理し、分類や関連づけを行なうこと)する技術として能力を発揮することが広く認知されています。一方で、NMR法の弱点として、一度に同定することができる代謝物の種類が少ないという問題がありました。そこで、研究チームは斬新な代謝物のアノテーション法を考案し、植物化学資源の有効資源化を目指しました。
(1)植物化学資源のプロファイリングと抽出プロセスの評価
植物の化学資源を有効利用するためには、抽出する成分、抽出操作に伴う成分組成の変化、各抽出残渣(抽出の際に出てくる残りかすのこと)に含まれる成分を、網羅的で体系的に評価する方法が望まれます。NMR法では、溶媒に抽出されてくる成分を解析すると同時に、さらにHR-MAS法※7で残渣に残っている成分を計測すると、すべての成分を損なわずに解析することができます。そこで今回、モデル植物であるシロイヌナズナを13Cで均一安定同位体標識化※8し、NMR法によるメタボローム解析を用いて、抽出操作に伴う、植物化学成分の組成変化と残渣成分の評価を行いました。得られた13C-HSQCスペクトル※9からは、抽出操作を繰り返し行っても、なお残渣に残ってしまう成分を確認することができ、物質資源が埋もれていることが分かりました(図1)。
一般的な物質の抽出と定量では、単純に物質の溶解性だけを基に、抽出に用いる溶媒を選択するのが普通です。しかし研究チームは、代謝物のアノテーションを行い、抽出操作に伴う挙動について調べたところ、脂質は有機溶媒に溶け、糖は水に溶ける、といった、単純な溶解性に伴う分布をしないことが分かりました。その一例が、単品での水への溶解性は高いはずなのに、混合物の状態ではあまり水に抽出されないグループの発見です。これらは、有機溶媒抽出をした後であれば水での抽出量が向上することが分かりました。これは、溶媒抽出のみならず、植物化学資源のあらゆる加工過程で生じ得る現象だと考えられます。従来であれば、水への溶解性が高いと予想される代謝物は水抽出による収量だけに注目してきましたが、この結果は、そうした当たり前であった評価法への注意を喚起すると同時に、あらゆる加工過程での成分の網羅的かつ体系的な評価方法の開発の重要性を示すものです。また、植物化学資源を有効利用するという観点から、代謝物の化学構造情報を取り出して評価することも必要です。研究チームの解析結果が豊富な化学構造情報を含むことを利用し、抽出プロセスでの代謝物の挙動を、化学構造情報とともに示しました(図1)。
このように研究チームは、植物化学資源を有効利用するため、従来の計測法にHR-MAS法を組み合わせたNMR評価法を開発しました。今回は、シロイヌナズナにおいて糖やアミノ酸、有機酸などの有用代謝物の抽出プロセスに伴う挙動と残存量を評価しましたが、対象としてはバイオマス作物、樹木や藻類などについても、植物成分の全利用という観点から、抽出プロセスを考案・評価する方法として活用できると考えています。
(2)統計数学的手法を駆使した候補代謝物の大量アノテーション法の開発
ゲノム解析で頻繁に用いられるBLAST※10のE-value※11のような統計数学的手法が、ゲノム科学発展に極めて重要な寄与を果たしたにもかかわらず、同じオミックス解析※12分野で比較的歴史の浅いメタボローム解析分野では、まだそのような統計数学的手法が存在しません。今回研究チームは、BLASTのE-valueに相当するp-value※13という新指標をNMRメタボローム解析に導入することに成功しました。このp-value法の有効性を実験的に証明するために、植物細胞抽出物の13C-HSQCスペクトルから、多くの候補代謝物を同時に検出しました。
具体的には、まず、化学シフトデータベースの代謝物登録数を270に増やしました。次に理研バイオリソースセンターから入手したシロイヌナズナT87培養細胞を13Cで均一安定同位体標識化し、代謝物の抽出溶液を調製しました。そして最後に、クライオシステム※14付き高磁場NMR装置を使って13C-HSQCスペクトルを計測し、p-value法を実装した候補代謝物の大量アノテーションシステムSpinAssignツールを用いて解析しました。このp-value法では、従来の方法ではデータベース内で未利用になっていた候補代謝物の化学シフトの情報を、大量に拾い上げることができます(図2)。その結果、NMRメタボローム解析分野では世界新記録となる、211候補代謝物の同時アノテーションを記録しました。これまでNMRメタボローム解析分野では、100種を超える候補代謝物の同時アノテーションは報告されていませんでした。
このように、従来は埋もれていた情報資源を有効に取得するための統計数学的な手法として、p-value法の有効性を確認することができました。この手法は、化学シフトデータベースの登録数が増大するほど能力を発揮するため、研究チームはその情報蓄積も続けています。近い将来には、登録数を500代謝物以上に増大させる予定で、一定の物理化学条件で計測した代謝物の化学シフトデータベースとしては、世界最大規模となります。
この新しいp-value法と、化学シフトデータベースは、研究チームが公開しているPRIMe上のSpinAssignツールで公共利用が可能となっています(図3)。13C-HSQCスペクトルは、容易に計測することができるため、代謝物に興味を持つ世界中の医薬、生物、化学、バイオマスエンジニアリング、生態・水圏・環境エネルギーなどを含むさまざまな分野の研究者に、メタボローム解析というオミックス科学研究を導入する門戸を開くことになりました。
今後の期待
今回開発した、バイオ資源の有効活用に向けたNMR評価法では、統計数学的処理を駆使した候補代謝物の大量アノテーションと組み合わせることで、さらに物質資源情報の取得を進めることができます。
研究チームは、2007年の植物(グリーンバイオテクノロジー分野)を手はじめに、2008年の動物(レッドバイオテクノロジー分野)、さらに2009年の微生物(ホワイトバイオテクノロジー分野)へとメタボローム解析の対象を幅広く展開してきました。これらのメタボローム解析技術を、物質生産にかかわる植物・微生物の生産性増大に活用することで、重化学工業、農業、食品産業へもインパクトを与えると期待されます。さらに、これら一連のメタボローム解析手法の適用範囲を、自然界の複合微生物系、藻類、海洋生物や昆虫などの生態系サンプルへと拡張すると、最近注目されつつある、刻々と変動する地球環境を評価する環境メタボローム分野※15を推進すると期待できます。