要旨
独立行政法人理化学研究所(野依良治理事長)は、大型放射光施設SPring-8※1が発する軟X線を使って、常温常圧の水溶液中の分子の電子状態を選択的に観測することに世界で初めて成功しました。これは、理研放射光科学総合研究センター(石川哲也センター長)量子秩序研究グループ励起秩序研究チームの辛埴チームリーダー(国立大学法人東京大学物性研究所教授兼任)、堀川裕加ジュニアリサーチアソシエイト(JRA)※2、徳島高研究員、原田慈久客員研究員(東京大学大学院工学系研究科特任准教授兼任)、国立大学法人広島大学理学部の高橋修助教、励起秩序研究チームのチャイナニ・アシシ専任研究員、財団法人高輝度光科学研究センターの仙波泰徳研究員、大橋治彦副主席研究員、国立大学法人広島大学理学部の平谷篤也教授らによる共同研究の成果です。
水溶液は、水の中に物質が溶け込んだ液体で、飲料から、海洋の水、細胞の中の水に至るまで、さまざまな形で身近に存在しています。化学の用語では、溶け込んだ物質のことを「溶質」、物質を溶かしている液体を「溶媒」と呼びます。水溶液中では、溶質の分子が溶媒の水分子やほかの溶質分子との間で、相互に影響を及ぼし合いながら動き回っていると考えられています。分子の性質は、分子を構成する原子核の配置や電子がどのような状態にあるかによって決まるため、溶質の分子の電子状態を観測することができると、溶質分子が水溶液中で水分子から受ける影響、つまり分子間の相互作用を詳細に調べることが可能になります。このような相互作用は、溶液における化学反応、液体の粘性など物理的な性質だけでなく、生物の細胞内の化学反応やタンパク質の構造などにも関係し、幅広い分野での応用研究の進展が期待できます。研究グループは、身近な食品の酢の成分である酢酸※3を使って、水溶液中の分子の電子状態が選択的に観測できることを確認しました。酢酸は、水溶液のpH※4を酸性から塩基性(アルカリ性)へと変化させると、電離※5によって構造変化を起こすことが知られています。本研究では、この構造変化を測定することで電子状態を観測できることを立証しました。
本研究成果は、英国の科学誌『Physical Chemistry Chemical Physics』Vol. 11, Issue 39に掲載され、本研究成果を基に描いたイラストが表紙を飾るのに先立ち、オンライン版(9月30日付け:日本時間10月1日)に掲載されます。
背景
水溶液は、水の中に物質が溶け込んだ液体で、身近な飲料から、地球表面の7割を占める海洋の水、細胞の中の水に至るまで、さまざまな形で身近に存在しています。化学の用語では、溶け込んだ物質のことを「溶質」、また、物質を溶かしている液体を「溶媒」と呼びます。
分子レベルでは、溶液の中に溶けている溶質の分子は、孤立している気体の分子などとは違い、その周りを取り囲んでいる溶媒の分子から影響を受けていると考えられています。例えば、同じ物質の反応でも、水溶液と有機溶媒を使った溶液では、溶質分子の周りを取り囲んでいる溶媒分子の違いによって、異なる化学反応が引き起こされたり、反応が起こらなかったりすることがあります。
水溶液は、大量の水分子に少量の溶質分子が溶け込んでいる状態なので、一般的には、特定の溶質分子の電子状態の情報を取り出すのは困難です。しかし、電子がどのような状態にあるかによって分子の性質が左右されるため、水溶液中の溶質分子の電子状態を観測することができると、水の中に溶けることによって起こる分子の変化を詳細にとらえ、複雑な反応の過程などを研究することが可能になります。
理研の励起秩序研究チームは、これまでにも軟X線発光分光という実験手法(図1)を使って、液体の分子構造の解明や性質そのものを見極める研究を進めてきました。今回、この軟X線発光分光を使って、常温常圧の水溶液中の酢酸分子の電子状態を観測することに挑みました。酢酸は、食品の酢の成分で、古くから知られているありふれた分子ですが、水溶液のpHを酸性~中性~塩基性と変化させると、酢酸分子中の水素原子が分離し、構造変化を引き起こすことが知られています。研究グループは、このように性質がよく調べられた分子を用いることで、電子状態を観測する新たな実験手法の有効性を確認できると考えました。
研究手法
軟X線は、物質を透過してしまう医療用などのエネルギーの高いX線と異なり、透過性が低く、さまざまな原子や分子によって容易に吸収されます。軟X線発光分光法は、このような軟X線領域の光の性質を活用し、物質に照射することで生じる発光のエネルギー分布を観測する手法です。軟X線発光のエネルギー分布(スペクトルと呼ばれます)は、物質の性質に関係する価電子※6の情報をほぼそのまま反映しているため、軟X線発光のスペクトルを調べることで電子状態を観測することが可能になります。
研究グループは、代表的な水溶液として酢の主成分である酢酸の水溶液を選びました。酢酸は、酸性~中性~塩基性と水溶液のpHを変化させると、特定の部位にある水素原子が酢酸分子から外れてしまう、電離と呼ばれる構造変化を引き起こします。電離は、高校の化学の教科書にも記載があるようなよく知られている現象で、酢酸のように構造が単純な分子では、どのような割合で電離が起こるかについて理論式がすでに知られています。このため、pHと軟X線発光の観測結果の関係を理論式による予測と照らし合わせると、軟X線発光分光法で水溶液中の酢酸の電子状態を観測可能であることが立証できます。
研究成果
酢酸分子を選択的に観測するためには、酢酸分子によって吸収されやすい軟X線のエネルギーを知る必要があります。軟X線発光は、軟X線の吸収によって引き起こされる現象なので、効率的に酢酸分子だけに軟X線を吸収させることができれば、酢酸からの軟X線発光を選択的に観測することが可能になります。そこで、SPring-8の理研物理科学ビームライン(BL17SU)を用いて、照射した軟X線のエネルギーがどれだけ試料に吸収されたかを測る軟X線吸収分光法で測定を行いました。その結果、酢酸水溶液の軟X線の吸収スペクトルには、水に由来する構造とははっきりと区別できる酢酸分子に固有なピーク構造を観測しました(図2)。従って、このピーク構造に軟X線のエネルギーを合わせることで、酢酸からの軟X線発光を選択的に観測することができることが分かりました。
照射する軟X線のエネルギーを酢酸の吸収ピーク構造に合わせ、軟X線発光が酢酸のpHによってどのように変化するかを測定した結果、酸性の溶液と塩基性の溶液ではまったく異なる形状のスペクトルを観測しました(図3)。これは、電離していない状態 (酢酸:CH3COOHの形)と電離した状態(酢酸イオン:CH3COO-の形)の電子状態の違いが見分けられたことを意味し、密度汎関数法(DFT法)※7による電子状態の計算でも、電子状態の変化によって軟X線発光スペクトルが変化することを支持する結果を得ました。さらに、pHを変化させるとスペクトルの形状が変化するにもかかわらず、「等発光点」と呼ばれる強度が変化しない点が観測できることが分かりました(図4)。等発光点は、スペクトルが2成分から成り立っていて、その2成分の比率だけが条件の変化によって変わるときに観測できる点です。可視光などを使った分析手法では、解析に利用されていますが、軟X線の発光スペクトルで観測されたのは初めてです。実際に、軟X線発光で得た、電離していない酢酸と電離した酢酸イオンに対応する、酸性と塩基性でのスペクトルを使って、中間のpHのスペクトルを再現できるかどうかを確認しました。すると、例えば、pH=4.73のスペクトルは、酢酸のスペクトルを48%、酢酸イオンのスペクトルを52%の割合で足し合わせると再現できることが分かりました(図5左)。この方法で、ほかのpHでのスペクトルについても、酢酸と酢酸イオンのスペクトルの比率を求め、pHとの関係を調べると、理論式(Henderson-Hasselbalch 式)による酢酸と酢酸イオンの比率の予測と正確に一致しました(図5右)。従って、逆に酢酸と酢酸イオンのスペクトルの比率を使うことで、酢酸と酢酸イオンの比率を分析できることが分かりました。このように、水溶液中の分子の価電子状態の明確な変化を直接かつ明確にとらえることができたのは、世界で初めてです。
今後の期待
今回、水溶液中の分子の電子状態を観測する新たな実験方法を確立できたことで、水の中に溶け込んで変化する分子の状況を、詳細に研究することが可能になります。特に、液体中の分子の間に働く水素結合※8のような相互作用が、分子の電子状態へどのような影響を及ぼすかなど、これまで理論計算によって推測していた情報を直接観測することが可能になります。これにより、溶液中の化学反応、液体の粘性など、分子間の相互作用が重要な現象に対する研究の進展が期待できます。また、酢酸分子と類似の分子構造は、アミノ酸やタンパク質などの生体分子にも含まれており、軟X線発光分光法による観測手法は、さまざまな生体分子への応用が可能となります。特に、今回の研究で軟X線発光分光法を使って、電離している酢酸分子の比率をスペクトルから直接、定量的に測定できることが分かり、従来の手法では観測できない、生体分子の構造変化を電子状態から調べるための手段としての発展も期待できます。
発表者
独立行政法人理化学研究所
放射光科学総合研究センター 利用技術開拓研究部門 量子秩序研究グループ 励起秩序研究チーム
チームリーダー 辛 埴(しん しぎ)
Tel: 0791-58-2933
研究員 徳島 高(とくしま たかし)
Tel: 0791-58-2933
お問い合わせ先
播磨研究所 研究推進部 企画課
Tel: 0791-58-0900 / Fax: 0791-58-0800
(ビームラインに関すること)
放射光科学総合研究センター 石川X線干渉光学研究室
専任研究員 大浦 正樹(おおうら まさき)
Tel: 0791-58-2933 (内線3812)
(SPring-8に関すること)
財団法人高輝度光科学研究センター 広報室
Tel: 0791-58-2785 / Fax: 0791-58-2786
報道担当
独立行政法人理化学研究所 広報室 報道担当
Tel:048-467-9272 / Fax:048-462-4715
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財団法人高輝度光科学研究センター 広報室
Tel: 0791-58-2785 / Fax: 0791-58-2786
産業利用に関するお問い合わせ
独立行政法人理化学研究所 社会知創成事業 連携推進部
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