要旨
独立行政法人理化学研究所(野依良治理事長)は、“空気と水”、“水と油”、“油とガラス”、“ガラスと金属”など、互いに混ざり合わない媒体同士を隔てる領域(界面)の電子スペクトル※1(“色”)を、選択的に観察する新しいレーザー分光法「電子和周波発生(ESFG)分光法※2」の開発に世界で初めて成功しました。これは、理研基幹研究所(玉尾皓平所長)の田原分子分光研究室の山口祥一専任研究員、ソーバン・セン元JSPSフェロー、田原太平主任研究員による研究成果です。
界面は、1nm(1nmは10億分の1m)程度の非常に薄い領域ですが、科学技術分野の鍵を握る機能を発揮して、さまざまな重要な役割を演じています。例えば生物学でいうと、生命に必須な細胞膜界面での物質の輸送、化学でいうと、触媒と液体の界面の高効率な化学反応など、さまざまな分野で重要な現象に界面はかかわっています。これは、界面という領域がバルク※3にはない非常に特殊な性質を持っているためです。この界面という特殊な環境の中で、分子がどのような構造を持ち、また分子同士がどのように影響を及ぼし合っているかを調べることは大変重要です。特に電子スペクトルは、分子レベルの情報を知る最も基本的な実験データですが、これまで液体の界面の電子スペクトルを精密に測定する良い手法がありませんでした。研究グループは、ESFG分光という新しい測定方法の開発に成功し、いろいろな液体の中で異なる色を示す「クマリン色素※4」を溶かした水溶液と空気との界面の電子スペクトルの精密観測を行いました。分子構造がわずかに異なる5種類のクマリン色素について測定を行ったところ、それぞれが、界面で大きく異なる“色”を示していることを発見しました。これは、この5つの分子が、同じ水と空気の界面にあるにもかかわらず、あたかも“まったく異なる液体”の中にいるかのように感じている、という驚くべき事実です。ESFG分光法はいろいろな界面に適用できるため、界面特有の分子レベルの情報の取得に威力を発揮します。今後、謎だらけの界面の解析に適用して、界面の機能の解明に大いに役立つ可能性があります。
本研究成果は、ドイツの科学雑誌『Angewandte Chemie International Edition』オンライン版(7月30日付け:日本時間7月30日)に掲載予定です。
背景
界面科学は、生物、化学、物理などの幅広い基礎科学の分野で非常に重要ですが、応用面でも、電子材料から塗料、化粧品、食品などさまざまな製品開発で必須となっています。この重要性は、界面という特殊な環境がもたらす現象にあります。そこで界面の環境を原子・分子レベルで調べるために、界面だけを選択的に観察・測定する計測法の開発が進んでいます。特に、レーザーを用いた二次非線形分光法※5は、分子1~2個相当の厚みしかない非常に薄い界面領域を選択的に観察できる手法として、幅広い分野で活用されています。中でも、第二高調波発生(SHG)※6という方法は、界面に照射する光の波長を変えながら、分子の電子励起状態※7との共鳴によって信号が増大する現象をとらえ、界面の分子の電子スペクトルを測定することができる強力な実験手段として知られています。
ところがSHGでは、光の波長を変えながら信号を検出するため、手間と時間がかかり、精密な電子スペクトルを得ることがとても困難でした。そのため、粗い電子スペクトルしか得られず、従来のSHG法からは、界面が一体どのような環境なのか、分子レベルでの十分な情報は得られていませんでした。
研究手法と成果
(1)電子和周波発生分光法を開発
研究グループは、電子和周波発生(ESFG)分光法という新しい方法を開発して、SHGでは不可能だった、界面の精密な電子スペクトルを得ることに成功しました。ESFG分光法では、非常に帯域の広い可視・近赤外光を用いることで、光の波長を変える手間を省いてSHGの欠点を克服します。実際に“空気と水”の界面を観察するため、波長795 nmの狭帯域なフェムト秒(1,000兆分の1秒)パルスAと、波長540 ~ 1,200 nmの広帯域なフェムト秒パルスBを界面に照射し、二次非線形の信号となるA+Bの光の増大をとらえて、分子の電子励起状態と共鳴する波長を測定しました。フェムト秒パルスBは広帯域であるため、SHGのように光の波長を変える必要がありません。その結果、SHGでは得られなかった精密な電子スペクトルを、わずか数分で得ることが可能となりました(図1)。この結果は、ESFG分光法が界面の分子の相互作用について明瞭で詳しい情報を提供できる、ということを意味しています。
(2)界面の分子の“色”を観る
実際に“空気と水”の界面を観測するため、クマリン色素の電子スペクトルを測定しました。クマリン色素は、異なる液体に溶かすと、液体の性質(極性)にしたがって違う色を示すことが知られています。従って、クマリン色素が空気と水の界面で示す“色”が分かれば、この分子が界面でどのような環境を感じているかが分かります。実験では、5種類のクマリン色素(C-314, C-338, C-6H, C-1, C-110)をそれぞれ1リットル中に10μmol(1μmolは100万分の1mol)程度の濃度で水中に溶解させ、界面の色素分子をESFG分光法で測定しました。5種類のクマリン色素の骨格構造は共通で、置換基の構造にわずかな違いがあるに過ぎません。しかし、界面では、分子の“色”に対応する電子スペクトルのピークの位置には大きな違いのあることが観察されました(図2a)。
クマリンC-314の場合、界面での電子スペクトルのピーク位置は、バルクのブチルエーテル中(水色)のピーク位置とほぼ一致しています(図2a上)。これは、C-314にとって空気/水界面は、実効的にブチルエーテルのような環境であることを意味します。つまり、ピーク位置に与える影響の強さという点で、空気/水界面とブチルエーテルはC-314にとって同じような環境であるといえます。一方C-110では、界面でのピーク位置はエタノール(緑色)とほぼ一致しています(図2a下)。つまり、C-110にとっては空気/水界面は実効的にエタノールのような環境であることを意味します。このように、5つのクマリン色素は、ほぼ同じ構造をもっているにもかかわらず、同じ空気/水界面を、まったく異なる環境のように感じていることが分かりました。溶媒の提供する環境を表す数値として、極性指標※8という量が知られています。ブチルエーテルの極性指標は0.07、エタノールは0.65です。つまり空気/水界面を、定量的に“極性指標”という数値で評価しようとすると、C-314にとっては0.07、C-110にとっては0.65と、まったく違う数値になってしまいます。
SHGで偏光依存性を測定した結果、クマリンそれぞれが感じている極性指標は、界面でのクマリンの傾き角と強い相関があることが分かりました(図3)。C-314は傾き角が64°と最も大きく、C-338、C-110と極性指標が大きくなっていくに従って58°、50°と小さくなります。すなわち、傾きが小さくなるほどクマリンは極性を感じやすくなっていることが分かりました。バルク溶液中ではどの方向も等価なため、そもそも傾きという概念が存在しません。今回の結果は、界面でしか起こりえない特別な現象をとらえたといえます。つまり、界面は極性指標を単純に定義することのできない、特殊な環境であることが初めて分かりました。
このような現象を発見することができたのは、ESFG分光法によりこれまでにないほどの精密さで界面の電子スペクトルを測定することができたためです。これは、今まで研究グループが開発してきた世界トップレベルの10フェムト秒時間分解ポンププローブ吸収分光装置、フェムト秒アップコンバージョン蛍光顕微鏡、界面選択的四次非線形ラマン分光装置といった、独自のレーザー分光技術が基となっており、ESFG分光法の確立と新現象の発見に結びつきました。
今後の期待
今回開発した“ESFG分光法”という界面分子をとらえる新しい実験手法が、これまで観ることのできなかった幅広い分野、例えば脂質二重膜上のタンパク質の構造や、水中の電極反応などを観察するのに大いに役立つと期待できます。