要旨
独立行政法人理化学研究所(野依良治理事長)は、マウスに遺伝学的手法を駆使してモデルマウスを作製し、葛藤を処理する脳基盤の発達において、重要な役割を果たすタンパク質「X11L※1」を発見しました。理研脳科学総合研究センター(BSI)(利根川進センター長)行動遺伝学技術開発チームの糸原重美チームリーダー、佐野良威研究員、ナイル・マーフィー客員主管研究員(元マーフィー研究ユニットリーダー)ら、BSI研究基盤センター(元リサーチリソースセンター)、および国立大学法人北海道大学薬学研究院の鈴木利治教授との共同研究による成果です。
日々の生活の中、さまざまな感情が生まれます。その感情が相反する場合、例えば彼女(彼)と友達になりたい、だけど恥ずかしくて声をかけづらい、あるいは興味を持って取り組みたい、だけど成功するかどうか不安、といった葛藤が生まれます。葛藤は脳で処理され、結果としてある行動を選択し、例えば恥ずかしいけど話しかけてみよう!失敗するかもしれないけど頑張って取り組んでみよう!などと決定します。しかし、この葛藤を処理する脳のメカニズムは十分に分かっていません。
研究チームは、脳だけに存在し、神経活動を制御する種々のタンパク質群と結合するタンパク質「X11L」に着目し、これが欠損すると、葛藤下、消極性は変わらず、積極性だけが低下することを見つけました。実際にモデルマウスは、自分の縄張りに入ってくる侵入者を探索する行動が少なくなり、競争に負けやすくなりました。また、X11Lが欠損した脳内では、情報伝達物質であるモノアミン※2のバランスが崩れていることを見つけました。さらに、X11Lを欠損した脳に、遺伝学的手法によりX11Lを補うようにすると、発達期における前脳(脳の前側の領域)のX11Lが、X11L欠損により引き起こされた積極性と社会性の低下を回復することを明らかにしました。
このように、積極性の低下により、葛藤下で消極的な行動適応をしやすくなるモデル動物は、世界でも類例がなく、X11Lという葛藤処理を行う神経機構の発達にかかわる分子の発見も初めてです。今回の発見が、意欲や社会性を制御する脳機構の解明に新たな道筋を与えると期待されます。また、自閉症や統合失調症における社会行動の低下や興味の喪失に対する治療戦略の探索に有用である可能性が見込まれます。
本研究成果は、米国の科学雑誌『Journal of Neuroscience』(5月6日号)に掲載されます。
背景
日々の生活の中で、さまざまな感情が私たちの中に生まれます。時として、その感情が相反するものであった場合には、そこに葛藤が生まれます。生まれた葛藤は、脳で処理され、ある行動を私たちは選択していきます。脳で感情がどのように生まれるのか?葛藤は脳でどのように処理されるのか?そしてそれはどういう行動と結びつくのか?という疑問を明らかにすることは、脳科学における一つの大きな挑戦です。
種々ある感情を、できる限り切り分けて解析を行うために、ある特定の感情だけに不全を引き起こすモデル動物の開発や、特定の感情状態を調べることができる解析システムの開発は、この難題に取り組むために非常に有用です。しかしこれまで、感情の制御に異常を示すとされるモデル動物が数多く開発されてきましたが、例えば「非常に不安が強く、恐怖心が強く、うつ様の性格を示し、社会行動は低下し、自発的な行動量も低下する」など、複数の感情状態に異常を持つことが多いのが現状です。研究チームは、脳内だけに存在するX11Lというタンパク質に着目し、その脳内生理機能の解明を目指しました。
研究手法と成果
(1)X11L遺伝子欠損変異マウス(X11L-KOマウス)※3を用いた行動学的な解析
X11L-KOマウスを用いて、従来の行動試験に加え、新たな行動試験を開発し、X11L-KOマウスの行動異常の検出を試みました。
① X11L-KOマウスは競争環境下で負けやすい
X11L-KOマウスと野生型マウス※4を、同じ匹数ずつ一つのケージで飼育し、新たに開発したマウスの行動試験である二つの方法で、食餌制限を行いました。一つ目は、普段一匹のマウスが1日に食べる量よりも少ない量の餌の塊を、同居しているマウスの数の半分の数の塊で与えるという量的な食餌制限(量規制型食事制限)を実施しました(例えば4匹で飼育している場合は2塊)。マウスの匹数に対して餌の塊の数が少ないため、餌取り競争が起きます。この環境では、X11L-KOマウスは野生型マウスに比べて大きく体重を落としました(図1A)。二つ目は、普段は餌を常時置くところを、1日に90分間だけ、十分な餌を置くという時間的な食餌制限(時間規制型食事制限)を行いました。同居するすべてのマウスが同時に食べられるだけの、大量の餌が十分量置いてあるので、時間規制型食事制限では餌取り競争が起きません。この食餌制限では、X11L-KOマウスと野生型マウスは同じように体重が減りました(図1B)。
次にX11L-KOマウスが野生型マウスとの競争に負けていることを確かめるために、2種類のマウスを同じ匹数ずつの飼育(混合遺伝子型飼育)、X11L-KOマウスだけ、野生型マウスだけという1種類のマウスだけでの飼育(単一遺伝子型飼育)という二つの飼育方法で量規制型食事制限を実施しました。その結果、単一遺伝子型飼育の場合には、体重の減少に差がなく、混合遺伝子型飼育の場合だけX11L-KOマウスの体重は野生型マウスに比べて大きく減少しました(図1C)。また、X11L-KOマウスは、身体能力や食欲の低下は起きていませんでした。これらの結果は、X11L-KOマウスが、感情の問題により競争環境下で負けやすくなっていることを意味します。
② X11L-KOマウスは侵入者に対する探索行動が減少
X11L-KOマウスが野生型マウスとの同居下だけで競争に負けたので、X11L-KOマウスは社会行動に低下のある可能性を考えました。通常、雄マウスは、一匹で飼育しておくと自分の縄張りを形成します。そして、その縄張りに別のマウスが侵入してくると、侵入者への探索や攻撃を行います。X11L-KO雄マウスは、この探索行動が野生型マウスに比べて35%程度減っていました(図2)。この結果は、X11L-KOマウスで社会行動に低下があることを示しました。
③ X11L-KOマウスは興味を引くものに対して誘発される積極性が顕著に低下
社会行動では、接近と回避の欲求に対する葛藤が同時に生まれ、結果として特定の行動が選択されます。例えば、研究チームが実施した実験の場合では、接近の欲求が、「餌を持っている野生型マウスから餌を奪いたい!」、「侵入者を探索しなくては!」という積極性であり、回避の欲求は「餌を奪うために争いたくないな・・・」、「変な奴が急に縄張りに入ってきてちょっと恐い・・・」、「なんか不安・・・」という消極性です(図3)。X11L-KOマウスの社会行動の低下は、消極性の高まりがある可能性を考え、葛藤下で嫌なものを回避する行動を指標として、高架式十字迷路試験※5などで不安を評価する行動試験を行いました。その結果、X11L-KOマウスで異常は見つかりませんでした。また、X11L-KOマウスで、うつ様の行動や自発的活動量の低下も見つかりませんでした。
次に、X11L-KOマウスは、興味を引くものに接近する積極性が低下している可能性を考えました。野生型マウスは、ビー玉などの新規物体が厚い床敷きの上に置いてあると、床敷きを一生懸命に掘ってビー玉を埋めてしまいます。また、トンネルに餌や土が詰まっていると、一生懸命にそれらを掘り出します。X11L-KOマウスでは、これらの行動が顕著に低下していました(図4)。これらの結果は、X11L-KOマウスは、興味を引くものに対して本来誘発される積極性が選択的に低下していることを意味します。
(2)発達期のX11Lタンパク質が行動異常の回復に必要
X11L-KOマウスにおける行動異常とX11Lタンパク質欠損の因果関係を明らかにするために、遺伝学的な手法を用いて、X11L-KOマウスの前脳(脳の前側の領域)だけで、X11Lタンパク質を発現するマウス(レスキューマウス※6)を作製しました。レスキューマウスには、X11Lタンパク質の発現時期を制御するために、ドキシサイクリンという薬物を投与するとX11Lの発現が抑制される、というシステムを導入しました(図5)。レスキューマウスでは、X11L-KOマウスで観察した積極性の低下が回復しました(図6)。一方、大人のレスキューマウスにドキシサイクリンを投与してX11Lタンパク質の発現を抑制しても、積極性の低下は表れませんでした。これらの結果は、大人になる前の発達期のX11Lの存在が、積極性と社会行動を制御する神経回路の発達において重要な役割を果たしていることを意味します(図7)。
(3)X11L-KOマウスの脳内のモノアミンシステムの異常
X11L-KOマウスにおける積極性と社会行動の低下の原因の一つを明らかにするために、脳内のモノアミン量を、高性能液体クロマトグラフィー(HPLC)法という手法を用いて調べました。その結果、X11L-KOマウスの前脳のいくつかの領域では、脳内の神経伝達物質「セロトニン」量が増加していることを見いだしました。さらに、モノアミンと呼ばれる種々の物質は、お互いにその量を制御しあっていますが、そのバランスが前脳領域のいくつかの部位で、X11L-KOマウスと野生型マウスで異なっていました。これらの結果は、X11Lが特定の感情を制御するモノアミンシステムの発達にかかわる可能性があることを意味します。
今後の期待
これまで、感情を生む脳のメカニズムを明らかにする目的で、さまざまなモデル動物が開発されてきました。しかしそれらの多くが、一つのモデル動物で複数の感情状態の異常を示し、一つ一つを切り分けて解析するのが困難でした。今回の成果で得たX11L-KOマウスは、非常に限定的な感情状態の低下を示します。つまり、嫌なものから逃げる消極性には不全を示さないにもかかわらず、興味を引く対象に対する積極性だけが低下し、その結果、葛藤下では消極的な適応を選択しやすくなりました。このようなX11L-KOマウスのユニークな行動は、世界でも類例はなく、感情制御の脳のメカニズムの解明という難題に対し、新たな側面を与えることが期待されます。特に、競争/格差社会など混沌とした社会情勢や、多様なコミュニケーション手段の発達、必要以上に“空気を読む”風潮などにより、複雑化する人間関係と関連して意欲の低下やひきこもりは大きな社会問題となっています。こうした社会問題と密接に関連して精神疾患の罹患率は高まり、脳における感情処理機構の解明と治療法の確立が急がれています。意欲や社会性を制御する脳のメカニズムの解明、そしてそれらを制御する薬物の探索と創薬が、こうした課題の解決に欠かせず、今回のX11L-KOマウス、そしてX11Lタンパク質が、新たな糸口を与えると期待できます。