要旨
独立行政法人理化学研究所(野依良治理事長)と国立大学法人千葉大学(齋藤康学長)は共同で、クラゲ由来の新物質クニウムチンを用いて、従来測定が難しく、立体構造の解明が不可能と思われていたムチン※1の基本的な核磁気共鳴(NMR)測定※2の手法を確立し、詳細な構造を明らかにしました。この成果は、理研基幹研究所(玉尾皓平所長)の和田超分子科学研究室丑田公規専任研究員(前丑田環境ソフトマテリアル研究ユニットリーダー)ら、および千葉大学分析センター(石川勉センター長)の関宏子准教授の研究成果です。
動物の粘液の構成成分のムチンは、O型糖鎖※3を持つ糖タンパク質※4を代表する物質群で、生体内で重要な働きをしています。しかし、ペプチド鎖と糖鎖からなる構造が複雑なため、単一の純粋な物質として取り扱うのが困難で、化学者や物性物理学者も躊躇(ちゅうちょ)する測定対象でした。例えば、工業的に利用したり、化学反応を用いて加工したり、最新のNMR技術による詳しい構造解析をすることも不可能でした。
研究グループは、2007年に発見したクラゲ由来の新規ムチン「クニウムチン」(2007年6月1日プレス発表)が、抽出の純度が高く、粘液ムチンとして最も単純で原始的な構造を持っていることから、測定対象として最適と考えました。最新のNMR解析技術を組み合わせた戦略的なムチンの解析を実行した結果、ペプチド鎖のアミノ酸配列や、O型糖鎖の基本部分構造の立体構造を解明することができました。この基本的な手法や手順は、さまざまな生物が持つ多様なムチンの解析に、一般的に用いることができると考えています。
ムチンは、これまでに人工的な生産が実現しておらず、天然からの抽出物を工業原料として用いるしかありませんでした。詳細な構造が明らかとなったクニウムチンは、物質科学(マテリアルサイエンス)で取り扱うことができる品質の優れたムチンで、工業的に利用しやすい新材料として期待が持たれます。
本研究成果は、アメリカ化学会とアメリカ薬学会が共同出版する『Journal of Natural Products』のオンライン版に掲載されます。
背景
ムチンは、細胞内で生産される糖タンパク質の一種で、動物の粘液の主成分です。人間では、唾液や、涙、胃液などに含まれています。細胞からその外側に分泌されて細胞外物質となりますが、非常に複雑な構造をしています(図1)。基本構造は、アミノ酸がつながったペプチド骨格に、糖がつながった糖鎖が枝状に結合しているもので、特に、枝状の糖鎖の構造が不均一なことから糖鎖多様性(グライコフォーム、Glycoform)と呼ばれ、ムチンの多様な生理機能を実現しています。
糖鎖は、レクチンなどのタンパク質などを認識することのできる「分子認識能」を持っていることが知られています。例えば、インフルエンザウイルスやピロリ菌の表面にあるタンパク質などを認識する糖鎖も知られています。これはちょうど、鍵と鍵穴の関係にたとえられ、認識する糖鎖が鍵、認識されるタンパク質などが鍵穴にあたります。ムチンの構造は、ちょうど多種多様な鍵の付いたキーホルダーになっていると考えることができます(図2)。キーホルダーは、鍵の種類が多ければ多いほど役に立ち、同様にムチンも、糖鎖が多様であればあるほど、すなわちグライコフォームが複雑であればあるほど、さまざまな分子や細菌、ウイルスを認識できることになります。粘液中に存在する天然のムチンは、ウイルスや細菌の表面に存在するタンパク質などを鍵穴と認識し、鍵と鍵穴の関係で結合して、活動を弱めたり、粘液に取り込んで洗い流すなどして、粘膜を守っています。例えば、粘膜で発生しやすいインフルエンザの感染などを、ムチンが水際で防止しているとされています。
しかし、このグライコフォームが、構造解析の大きな障害になっていました。糖鎖は、構造が一定しておらずランダムで、決まった場所に決まった糖鎖が結合していないため、ムチン分子一つ一つの構造を決めることができません。これまでの研究では、糖やペプチド鎖をバラバラにするなどして、全体の糖や糖鎖の成分比を調べる程度の解析しかできませんでした。多様性があるからこそ、ムチンはその威力を発揮するのですが、その多様性が逆に構造解析を妨げ、一つの物質として取り扱うことができないというジレンマを抱えていました。その結果、ムチンが豊かな生理機能を持つ重要な分子でありながら、主要成分を決めることや純度を高めることができず、物質科学(マテリアルサイエンス)で取り扱えないため、それを応用した材料研究が進まないという状況でした。
研究グループは2005年に、海の厄介者とされているエチゼンクラゲや世界中どこにでも大量に生息しているミズクラゲから、ムチンの一種「クニウムチン」を発見しました。近年、世界各地でクラゲが異常発生し、「クラゲ爆発」と呼ばれています。日本国内でも東京湾や伊勢湾でミズクラゲが大量に生息し、発電施設や工場施設に大きな痛手を与えています。また、日本海沿岸で大量に発生するエチゼンクラゲをはじめとして、ミズクラゲ、アカクラゲ、キタミズクラゲなどが、定置網漁や底曳き網漁に大きな打撃を与えています。2008年秋期には、このエチゼンクラゲはまったく現れませんでしたが、クニウムチンは、あらゆる種類のクラゲに含まれていることが分かっており、材料調達に問題はありません。これまでに、クニウムチンは、アミノ酸が数百個以上つながった高分子であるにもかかわらず、アミノ酸8個の単純な繰り返し構造となっているペプチド鎖を持ち、糖鎖も短く、ペプチドと糖鎖の接点にあたる第1番目の糖のほとんどがN-アセチルガラクトサミン(GalNAc)であるという、原始的なムチン構造をとることが予想されていました。研究グループは、この糖鎖の多様性や不均一性の小さいクニウムチンを、天然の中では最も解析しやすい粘液ムチンと考え、天然の多種多様なムチンを解析する標準的な手法の確立を目指し、NMR測定で解析することに挑みました。
研究手法
ミズクラゲから抽出し精製したクニウムチンの糖鎖構成を、液体クロマトグラフ法などで解析した後、NMRを活用して構造解析を行いました。ペプチド鎖の繰り返し構造1回分のアミノ酸配列を持つモデルペプチドを合成して比較し、繰り返し構造を構成する8個のアミノ酸と糖鎖の第1番目に位置するN-アセチルガラクトサミン(GalNAc)の、水素(プロトン)と炭素(炭素13=13C)の信号をすべて同定し、位置を割り出しました。次に、それぞれの信号同士の相関関係を一つ一つ丁寧に解析し、それぞれの水素原子や炭素原子がどのような位置関係または結合関係にあるかを判定して、詳しい分子構造を解析しました。
研究成果
(1)繰り返し基本構造の解析
NMR測定の結果、ペプチド鎖を構成する各アミノ酸と、ペプチド鎖につながったGalNAcの信号をすべて同定しました。特に、繰り返し構造を構成する8個のアミノ酸には、バリン、トレオニン、アラニンが各2個ずつ含まれ、トレオニンに接続したGalNAcも2つ存在していました。同種のアミノ酸でも、それぞれのアミノ酸の位置を区別して測定することができました。トレオニンの信号は、すべてGalNAcがつながっていることを示し、クニウムチンの糖鎖には欠落がないことが分かりました。
アミノ酸のα水素の位置とカルボニル基の炭素の位置(図3)の間の相関信号を得ることができる、2次元NMRの「HMBC※5」という手法で解析したところ、同定した信号のそれぞれから、アミノ酸の1次構造配列の順番通りに、相関信号を数珠つなぎにたどることができました。これまでは、ペプチド鎖を末端から一つ一つ切断するエドマン分解で、手間と時間をかけて解析していましたが、この相関信号の測定方法は、NMRで一気にアミノ酸の繰り返し配列を解析できることを示しました。小さな分子や、人工の分子と違って、天然の高分子化合物は、測定対象の同位体原子を濃縮したり、同位体で標識して位置を測定する手法を使うことができないため、HMBCで明瞭な信号を得ることは難しいとされています。今回の成果は、天然のままのタンパク質で測定に成功した、大変めずらしい例といえます。また、今回測定した位置信号から判断する限り、クニウムチンには、単純な繰り返し配列以外のペプチドが、ほとんど存在していないことが分かりました。すなわち、ほかのムチンと違って均質なペプチド鎖を持っていることを突き止めました。
(2)Oグリコシド結合まわりの局所立体構造の解析
糖タンパク質に含まれる糖鎖は、タンパク質との結合の形でN型糖鎖※3、O型糖鎖の2種類に分類されています。O型糖鎖は、アミノ酸のトレオニンやセリンの水酸基に糖鎖が結合(Oグリコシド結合)したもので、ムチン型糖鎖とも呼ばれるとおり、ムチンの特徴を示す構造です。研究グループでは、さまざまなNMRの手法を用いて、このムチンの核心部分であるGalNAc‐トレオニンの部分構造の、Oグリコシド結合回りの原子から得る相関信号を詳細に測定し、トレオニンの1位と2位の炭素を結ぶ結合の回転が止まっていることを突き止めました(図4)。長いペプチド鎖と糖鎖が、相互に干渉しあわないように反対側のポジションを取ることによって、結合が固定されているものと推測できます。ムチンのペプチド鎖は、ひも状にまっすぐ伸び、糖鎖はそれを覆うように枝分かれしていますが、Oグリコシド結合で枝分かれのブロックを作るGalNAc‐トレオニン部分が、かさ高く比較的自由度のない構造となっていました。このことは、ムチンが伸びきったひも状構造を取らざるを得ない一つの原因と考えられます。この構造は、高分子構造や運動状態に大きな影響を与え、ムチンの持つさまざまな作用や機能に関係しているものと思われます。今後、分子動力学などを用いた理論計算によって、より正確な構造と機能を明らかにする必要があります。
今回の測定は、通常の2次元NMR測定よりも、2次元NMRチャートに埋もれた信号の一つ一つを1次元測定によって丁寧に吟味する手法を駆使したことで解析を達成することができました。これは、ムチンをはじめとする、不均一であるがゆえに測定が困難だった試料のNMR測定の可能性を広げるものと考えています。
今後の期待
GalNAc‐トレオニン構造は、類似のGalNAc‐セリン構造とともに、ほとんどすべてのムチンに存在しており、今回確立した解析手法は、複雑な構造を持つ天然ムチンの解析の標準的な方法として、広く使われるようになることが期待できます。天然の生物から取り出したムチンの場合、クニウムチンと比べると、それぞれの信号の同定が困難ですが、今回の実験を参考にして解析が進むと考えています。NMRを活用した構造の解析は、ムチンのように結晶化ができない糖タンパク質の解析に威力を発揮するため、今後さまざまな測定用途が広がっていくものと期待されます。
粘液ムチンの作用メカニズムはまだ謎だらけで、その構造や運動状態を知ることが重要な鍵になっています。特に、多くのムチンは、水溶液中でリボン状の構造をとることが分かっており、ペタフロップスコンピュータを用いた分子動力学計算などで、巨大なムチン分子の運動状態を知ることができると、ムチンが異物やウイルスをとらえるメカニズムなどが近い将来明らかになると期待されます。
また、今回の実験結果は、現在の技術で抽出しているクニウムチンの純度や均一性が優れていることを証明したことになります。現在工業的に供給されているムチンにはこうした特徴はないため、クニウムチンの実用化の優位性と可能性を示したといえます。例えば、研究グループでは東海大学と共同で、クニウムチンを変形性関節症の治療に用いることを提案し、動物実験の結果を発表しました(2009年1月30日プレス発表)が、医薬品などに用いるための厳しい基準を満たすためにも、この純度や均一性の優れている特徴は、有利な条件であるといえます。